第3話

『敵(スレット)、兵站(ロジスティクス)、そして指揮官(コマンダー)』

「……新たな、補給ルート?」

早乙女蘭(さおとめらん)が、坂上の言葉を鸚鵡(おうむ)返しに呟く。

テツやタケら若い組員たちは、畳に描かれたチョークの線と、背中に仁王(におう)を背負った坂上の顔を、戸惑いながら見比べていた。

ついさっきまで「死に場所を探す特攻崩れ」だった男が、まるで別人の――それも、彼らが逆らえない何かを持つ「上官」のような空気をまとっている。

「そうだ」

坂上真一(50歳)は、チョークを置いた。

「敵(九龍組)は、我々の補給ルート(田中食肉)が一本であると知っている。そして、その『入り口』――闇市の正門という『チョークポイント(隘路)』を抑えた。戦術の基本だ」

「ちょ……何言ってんだ坂上、わけわかんねえよ!」テツが苛立たしげに声を上げた。「とっとと殴り込みに行かねえと、肉(タマ)が全部奪われちまう!」

「黙れ、三等兵」

「……は?」

テツの顔が凍りつく。

「貴様の任務は、感情的に突入(チャージ)することか? 違う。『資産(アセット)』(=肉)を確保し、無傷で帰還することだ。それが理解できないなら、貴様は作戦から除外する」

「……ッ!」

テツは、坂上の冷え切った眼光に射抜かれ、言葉を失った。それは、ヤクザの凄みとは異質の、「死」を管理する者の圧力だった。

坂上は、一同を見渡す。

「いいか。敵は我々が、この『早乙女組』から正面の道を通り、闇市の入り口へ『殴り込み』に来ると予測している。敵が予測した通りの行動を取る兵士は、無能だ」

彼は畳の地図を指さす。

「目的は『九龍組との戦闘』ではない。目的は『田中食肉からの資産確保』だ」

彼は蘭に向き直った。

「姐(ねえ)さん。田中食肉の『店(ベース)』はどこにある? 闇市の屋台(ここ)ではない、奴の屠場(とば)か、倉庫だ」

「え? ええと……」蘭は不意を突かれて答える。「確か、市場の外れ……昔の甲州街道沿いの、川の近くだ。でも、そこに行ってどうするんだい?」

「敵の『封鎖線(ブロックライン)』は、市場入り口の一点に集中している。ならば、我々はその手前で、田中食肉と接触(コンタクト)する」

坂上は、組員たちに矢継ぎ早に命令を下し始めた。

彼の声には、50歳の指揮官としての、疑う余地のない響きがあった。

「テツ。貴様は足が速いな。闇市の入り口へ向かえ。ただし、絶対に敵に近づくな。九龍組の正確な人数、武装、指揮者(リーダー)の有無。それだけを5分で確認し、報告しろ。これは『戦闘』ではない、『偵察(リコン)』だ。見つかったら任務(ミッション)失敗と知れ」

「タケ。貴様はこの辺りの裏道に詳しいな。甲州街道の裏手、田中食肉の倉庫(ベース)へ走れ。トラックがまだいるか、既に出たか。出た後なら、今どこで足止めされているか。正確な位置(座標)を報告しろ」

「お、押忍……」

二人は、その気迫に呑まれ、反射的に駆け出していった。

残された蘭と、他の組員二人が、呆然(ぼうぜん)と坂上を見ている。

「……坂上……アンタ、一体……」

「状況分析だ」

坂上は短く答え、目を閉じて思考を巡らせる。

(この身体、20歳。体力はある。だが、戦闘訓練は受けていない。あるのは「特攻」という精神論の残骸だけだ。使えん)

(ならば、戦闘は徹底的に回避する。必要なのは『情報』と『機動』だ)

数分後、二人が息を切らして戻ってきた。

「はぁ……はぁ……姐さん! 坂上!」

テツが報告する。

「九龍組の奴ら、8人! ドスと棍棒(こんぼう)持ってやがった! 入り口で酒盛りしながら、こっちを待ってる!」

続いてタケが叫んだ。

「トラック、いたぜ! 田中のおっさん、入り口の手前100メートルの曲がり角で、青くなって動けなくなってた!」

「よし」

坂上の目が、カッと開いた。

(敵戦力8、待ち伏せ。こちらは実働戦力5。トラックは敵の射程の手前にいる。……完璧だ)

「姐さん。作戦(プラン)を変更する」

「え?」

「我々はトラックには行かない。トラック(資産)を、ここ(ベース)へ誘導する」

坂上は、畳の地図の、店の裏手を指さした。

「ここだ。この店(ベース)の裏は、道が狭く、ゴミ捨て場になっている。だが、甲州街道の裏通りと、かろうじて繋がっているはずだ」

「あそこは無理だよ!」蘭が反論する。「荷車だって通れない。人がやっとだ!」

「人でいい」

坂上は即答した。

「トラック(輸送車両)を動かせば、九龍組(敵)に察知される。だが、人間(兵士)が『荷物(カーゴ)』を運ぶだけなら、闇市の雑踏に紛れられる」

「まさか……」

「姐さん。貴方と俺、タケの三人で、田中食肉のトラックへ『隠密接近(ステルスアプローチ)』する」

「そして、テツ。お前たち二人は、闇市の『反対側』へ行け」

「反対側?」

「そうだ。放火しろ」

「なっ!?」

蘭と組員たちが息を呑む。

「……もちろん、本気で燃やすな。GHQ(ジーエイチキュー)が飛んでくる」

坂上は冷ややかに続けた。

「誰もいないバラックの廃材(ゴミ)に火をつけろ。そして『火事だ!』と叫べ。この闇市で一番恐れられているのは、九龍組(ヤクザ)ではない。火事と、MP(憲兵)だ」

「……!」

「騒ぎが起これば、入り口で待ち伏せている8人(敵)の注意は、必ずそちらへ向く。少なくとも半分は動くだろう。その『混乱(ウインドウ)』が、我々の作戦行動時間だ」

彼は蘭の目を真っ直ぐに見た。

「いいか、姐さん。トラックに着いたら、貴方が田中を説得しろ。『トラックは捨てろ。だが、積荷(いのち)は俺たちが守る』と。それは『義理人情(あんたのスジ)』だろう」

「……!」

「俺とタケで、一番高価な肉(カルビとロース)から順に、裏道を通って、この店(ベース)へ運び込む」

これは、もはやヤクザの抗争ではない。

一等海佐・坂上真一による、周到な「兵站確保オペレーション」だった。

「……分かった」

蘭は、ゴクリと唾を飲んだ。目の前の男が誰なのか、もはや分からなかった。だが、その言葉には「勝てる」という、抗いがたい確信があった。

「……アンタに、乗るよ」

「作戦開始(ミッションスタート)」

坂上は、背中の仁王が熱くなるのを感じながら、薄汚れた闇市の中へと滑り出した。

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