第5話 新月

 鳥羽先輩はうなずいた。

 いい加減わたしも帰りたいんだけど、一時間は経ってるよね。茶菓子で良張先輩を黙らせてまでする話か?


「実は、お花見の件なんですが。場所をとるので、一緒にどうかと……」

「もぐもぐ、鳥羽会長せっきょくてきー」


 すかさずアッパーを喰らわせ、次の瞬間には楚々とティーカップをもつ鳥羽先輩。

 怖いです。

 

「なぜでしょうか。会長ともあれば引く手数多、それこそ男になぞ誘われても他の女子とうんぬんでどうにかなるのでは」


 どこまで知ってる? まずわたしが参加することは確定。音無先生のお供なのも、まあ。けど藍のことは。手続きは書面、確認したのも音無先生だけ。

 微妙なところ。

 なにより怪しすぎる。 

 鳥羽先輩はそれはそれは良い笑顔だった。


「それが、この髪は目立ちますし。男子だと、女子だけの集まりにづかづか踏み込んでくる方が毎年いて。元浦くんもわかる通り、忙しい手前妙案が浮かばなくて」


 ほおに手を当てる鳥羽先輩は、困ってますと言わんばかり。ちらと良張先輩を見やるも、まだ起き上がっていなかった。


「……わたしは、妹を連れてくるつもりです。鳥羽先輩も、ご兄弟か従兄弟に声をかければよろしいのでは」

「わたし兄や家系の男子に接触するの、禁止されてるんですよ。異人の血だからって」

「では、比較的穏やかな男子をわたしが見繕い」

「元浦くん」


 ピシリと遮断される。


「私は、一緒にどうかと聞いたんですよ? 元浦くん、きみに」

「わたしも、代替案を提示したんです。その意味がわからないほど鈍感でもないでしょう」


 気のおけない人を身のまわりに置いておきたくない、そう思うのは普通のことだ。

 どれだけ偉かろうが、美しかろうが、適切な距離というものがある。まして初対面でこの“お願い”は不躾にも程がある。


「だめ、ですか」

「場所取りはたしかに魅力的ですが、それを差し引いても会長はリスキーですから。まこと残念ながら、辞退させていただきます。ここまでがお茶のお代です」


 今度こそ腰を上げる。金木犀の香りがいっそう強くなるよう感ぜられた。

 もう日は沈みきり、夜天が幕を下ろしはじめている。


「相性の良い方は別におられるでしょう」

「っは、私とおしゃべりできる人間なんていくらいたことか」


 自嘲、なのかもしれない。しかしわたしはなにも口にできない。

 深々と頭を下げて退室した。

 すっかり暗くなり、家の戸を開けると玄関灯りにほっとする。靴を脱ごうとして、妙に小綺麗なローファーが一組あるのに気がついた。


「藍〜、いるんでしょー!」


 脱ぎつつ、そう大声で呼び掛ければ、廊下を軋ませる音が鳴った。

 

「……なに、兄さん」

「今日は泊まってくの?」

「まあ」


 口少ない藍のことはよくわからない。靴を整えて振り向けば、柱によりかかる藍がいた。薄手のワンピースはまだ時期が早いのではと思うが、暑がりのこの子だからと納得できる。

 今日は金曜だったか。なら大丈夫かな。


「って待て、部屋どこ使う気?」

「兄さんと一緒のとこ」


 無表情でなに言ってんだこの子。ついぞ頭をやってしまったか。


「藍、トシは帰ってきたかえ」

「ばあちゃん、藍が来るんなら言っといてよ。座敷間の掃除したのに」

「そりゃさっき突然やったんやからしょうがないんよ」


 キッチンに顔を出して背曲がりの老婆に毒づくも、けらけら返される。丸メガネが憎たらしい。

 脇を抜けて席につく藍は、無言で醤油差しを手に取った。


「藍、なんも自然に振る舞えば、追求から逃れられると思うなや」

「……じいは余計なこと言わない」

「夕飯も四人分て」


 肩を落として着替えに向かう。

 部屋の紙束、どこに仕舞おうか。畳に散乱した思案書の数々に頭を悩ませつつ、夕飯を食べる。


「そう言えば藍、ちょうどよかった」


 国営テレビニュースを眺める藍に声をやると、すぐに顔を向けてきた。

 携帯といっても電話とメール機能のみ、それもぱかぱかの旧世代のもの。手っ取り早く話せるのは都合がいい。


「なに」

「来週あたりの週末、空いてる?」

「あける」

「そう、学校でお花見をやるそうでね。藍が行きたいなら」

「行く!」


 茶碗と箸を持って身を乗り出す様は奇妙であったが、それ以上にこころなし目が輝いている気がする。

 一番付き合いの濃い姉妹だからか、甘やかしたくもなる。


「そりゃトシ、お見合いじゃないかえ?」

「まあその面がないとは言えないよ。ばあちゃんは確か良いとこの出だっけ?」

「ふん、学校なんて外面こそよ。所詮男のとりあいしかしないんだから。知ってるかい? 男のいないないクラスの静けさときたら、修道院にも負けやしないよ」


 老婆には良い思い出のない場所なのだろう。いまだ陽一郎と暮らしてるのが良い証拠だ。他の祖母はとうの昔に他界したか縁切りされている。

 それも、若い頃の話らしいし。

 人の語るハーレムなんて、現実そんなもんだ。

 わたしと藍は黙って聞いていた。


「まあヨリさんや、喉に悪いやよ」

「すまんねえヨウちゃん」


 そろそろ喉を痛めそうかというとき、すかさず陽一郎が水を差し出す。二分前から水道水入れに行ってた陽一郎、さすがです。

 円熟した夫婦というのは合いの手を欠かさないようで、まだまだボケは遠いと思える。

 味の薄い味噌汁を啜って正面を見やると、藍と目が合う。えもいわれぬ迫力に、汁がなくなっても口が離せない。


「兄さん……」


 コトリ、碗を置いて箸を揃える。


「なんもないよ。中学の時も藍と同じクラスのなんとか君となんとかちゃんを縁結びしたでしょ? ああいうのをずっとやってるから、わたし自身に話しかける人は少ないのよ」

「いるにはいる。あといい加減人の名前は覚えたほうがいい」

「覚えるに足るだけ、わたしに個人としての真を見せればね」


 春野菜の浅漬けを食み、茶をすする。


「いっつもそう、藍の助言なんて聞きやしないくせに。もっともらしいこと言って」

「藍には、大事なことがあるんでしょ? だからわたしも覚えていられる。藍がそれに真剣だから、滲み出るのよ、そういう人にはね」

「兄さんと結婚すること。当然の願望」

「あらまあ、藍ちゃん堂々として」

「これを堂々と言われても困る。制度的にも問題ないのが厄介に拍車をかけて」


 多産が望まれる、近親相姦は望ましくないものの、場合によっては許可される。そうでもしないと人口のバランスさえとれないのだからわからなくもない。

 しかし容易に受け入れられるほど図太くもない。

 ここはやはり顔が良くて、比較的まともな男を校内で探すしか。


「兄さんが逃げを考えてる。けどそれは通用しない」


 箸を突きつけられ、こちらの箸先でおろさせる。

 妹にまで言葉遊びを仕掛けられるか。今日は疲れる日だ。


「ん〜、なぜ」

「藍が藍だから」


 確信をもって語られると、なにかそれらしい理由を感じてしまうが、果たしてあるのか。

 この一人称は、別に自己愛が過大とかそういうわけじゃないのよねえ。妹にはまともな人と付き合ってほしい。高望みするなら初夜の相手と結ばれることを願う。

 裏切りがないというのは、人の心の安寧を保つのに必至なのだ。

 箸を下ろし、しばし考えた。


「……カップリングの極論じゃない。視野狭窄もほどほどにしなよ、藍」

「冗談だと思った? およそ八割は理解してそうなのに」

「だからだよ、場を考えなさい。それに、わたし結婚願望ないから」


 碗をまとめて立つ。


「食べ終わったら部屋に来て。どうせさっき確認したんだろうし、場所はわかるでしょ」

「うん」

「まあ、そう落ちこまんでも、藍ちゃん」


 洗い物をして二階に上がる。その部屋は突き当たりにあった。

 床一面に広がる惨状。つま先立ちで隙間を縫い、灯りをつける。紙面だらけであった。


「あー、とりあえず積むか」


 あれやこれやわけて卓に重ねていく。卓さえ脚の短い古式のもの。立ったり座ったりする必要がなく、それがよかった。

 ひと段落して窓を開ける。たてつけが悪く、何度か叩いて開ききった。木造家屋なんてこんなもんだ。

 ほうきで埃を払い、ついでに押し入れから布団一式を出す。わたしの分は常に出しっぱであった。

 襖が開き、突如現れる白い裸足にぎょっとした。


「あ、ああ藍」

「来た」

「入っていいよ、そこの紙でも見てて、わたし風呂入ってくるから」


 親指で指すと、かすかに頷く。

 気負いないのは兄妹なりの折り合いのつけかたというやつだろうか。あの程度の折衝は喧嘩のうちにも入らないのだ。



 風呂から上がると、藍はわたしの布団に寝転がっていた。仰向けになり、紙を読んでいるようだった。


「そこわたしのとこ」


 返事はなく、ため息をついて襖を閉める。

 座布団に腰を下ろし、白紙の塔から一枚引いた。墨瓶と万年筆を引き出す。

 ちょいと窮屈だが一式は揃った。


「議会政治は、もとい権力の分散は弁論術がすべてであり、なんら国民の思考的責任を行使しうるものではない……兄さん、まだこんなの書いてるの?」

「正確には、どれだけ民主主義をうたっても、考える労力を割けない衆愚の選ぶ行為が、そのものとして破綻してるってこと。なんとなくこの人でいいや。本当にその程度、だから民政分離が必要なの。その分、お上が自らを戒める必要があるけど」


 頬杖をついて書く内容を考える。

 学校に課された課題がないので、のびのび思索を書ける。生活の大半を学校に対する意識に割くのは、将来生活者としての破綻を招く、とか先立の誰かが理論化してくれたらしい。

 

「端的に言って民主主義は理想なの。現実的には帝政とか王政のほうが遥かに国家の意思統一がしやすい。意思統一がしやすいということは、方策が立てられる。方策が立てられるということは、理念の政策化を可能にする」

「でもそれだって、二百年もあれば破綻しちゃうじゃん」

「もとより完璧な体制なんてないの。自然との均衡を保ち、社会を維持すること。それが政府や政治の意義なんだから。前者でさえ難しいのに、後者をずーっと続けるのはもっと至難のことなの」


 くいくいとシャツを引っ張られ、振り向く。

 言葉にせずにはいられない目というか、とかく怠さを抜きにして息が詰まった。


「……近い」

「もう考えるの疲れた。藍に合わせてよ」

「別にいいけど」

「楽しい話しよ」


 肩を掴まれて倒される。二人揃って仰向けであった。


「最近、唄帆の縦笛が上手くなったの」


 末の妹、まだ八歳だろうに。けどまあ、笛の類の楽器が好きとか言ってたし、いいことなのかも。

 目を閉じて脳裏に浮かべる。庭先の笹で笹笛をしていたとき、心地よさそうに頭を揺らしていた子供を。片目が白い、唄帆という妹を。


「思い出してきた」

「まったく、お母さんのことまで忘れてないよね」

「さあ、どうだろ……唄帆は元気にしてる? ちゃんと三食しっかり食べてる?」

「おばあちゃんみたいなことを」


 小さくため息をついた藍の声は、やはりどこにも温度を感じられない。

 

「まあ、飢えてはないし。夢乃ねえもいるからだいじょうぶ」


 父親が放蕩ものだもの。手を焼くのは子供だけではない。母たちがどちらを優先するかは、知るべもないこと。 

 わたしはできることをやればいい。

 夢乃は面倒見のいい長姉だし、家屋を分けてるはずだから、藍の言葉もあながち間違ってはないか。

 とうとうと頭の中で整理していく。


「戻る気はないの?」

「その意味はあるの?」

「藍にはある」

「わたしにはない」

「兄さんのはどこにいても変わらないってこと。なら藍のために家にいてもいいはず」


 強まる語気を抑えた藍に、どこかほっとする。そしてつぶやいた。

 

「……だからだよ」


 利得に差分がないなら、感情で判断していいということ。


「わたしはあの家が好きじゃない。人は多すぎるし、お互いに父の取り合いばかり。騒々しいのは嫌いなの」

「なら藍もここに住む」

「だめ、それを許せば夢乃が唄帆を連れてくる。ここにそんなスペースはない。なによりお金は? 夢乃は働きながら貯金してるけど、それは夢乃が動けないもしもの時のためのもの。引っ越しもいくばくのお金がいる」


 なにを言われても、心に響かない。そういう風になってしまった。理路整然とした論理を突きつけられたところで、もっと端正な論理を構築すればいいと思ってしまう。

 歳の弊害だろうか。

 藍の口を塞いでしまえる自分が虚しい。そんなこと望んでいないのに。


「夢乃ねえは、そんなことするとは思えない」

「藍はそう思えないだけで、わたしはそれが順当だと思う。夢乃は……家を出たがってたから。年下の、未成年の妹がそれをやれば、決心だって構えるさ」


 脱線しすぎた。

 口をつぐんで目をつむる。


「やなことばっかり」

「ごめん」

「いいよ、兄さんはずっと休んでない。今も考え続けてるんでしょ? どうすればこの生活が続けられるか、国の体制にまで目をやって」


 楽しげに語るものではないと思うが、それだけに理解し難いものだった。

 歯の合わない感覚に言葉を詰まらせ、息をつく。

 藍、お前にはわからないかもだけど、わたしは納得してるのよ。


「藍は目の前にことに必死になってればいい。明日があると呑気に思っていられるようことは、この上ない幸福なんだから」

「暗に自分は違うと言いたいんだろうけど、そこまで愚鈍になるつもりはないよ、兄さん」


 決然と告げられた。

 それは、前世では福音、あるいは神の祝福にも似たものとして感受したかもしれない。理解を求める無知なもの。それがどれだけ尊いことか。

 しかし藍が……。

 心は晴れない。一概に知ることが幸せには通じないから。特に、国政ともなれば。


「藍はさ、国のことなんて考えたくないでしょ? そういうのは兄さんに任せておきなさい」

「やだ」


 藍が起き上がり、着替えを手にとる。


「もう兄さんを苦しませるのは、嫌なの」


 言い残して部屋を出た藍に、何もいえず黙り込んでしまった。

 なんだか雑然とした会話となってしまった。寝転がって頭がふわふわしてるせいだろうか。だめだな、言い訳がましい。

 

「子供はよく見てるってことなのかね」


 藍のまえで直接的に考えることを苦しいと言ったことも、顔に見せたこともない。


「自分で論理的に考えるようになったってことかな。あの口ぶりだと、けっこうまえから……」



—————————————————————


 タオルで水気を抜きつつ、襖に手をかけた。


「兄さん、まだ起きて……寝てる」


 それはもうぐっすりと言った様だった。疲れた目を閉じた光景には、やはり胸を撫で下ろしてしまう。

 いつもなら馬乗りになったり、布団にもぐりこむけど、やる気が起きない。

 兄さんは眠れている。それが知れただけ、久方ぶりにはっきり嬉しいと感じられた。灯りを消して一度一階に下りる。

 座敷ではまだおじいちゃんが起きていた。背そばまで近づくと、卓に記帳を開いているのがわかった。


「藍ちゃんか、もう遅いやよ」


 おばあちゃんにも似た柔らかな口調に、沈んでいた気持ちも少し晴れた。

 対面に座す。


「うん」


 しばらく、筆が走るのを眺める。

 兄さんにあそこまではっきり断言したのは、よくなかったかもしれない。負担に思われるのは不本意極まりないのに、勢いばかりで口が出る。

 自分の抑えの効かなさに嘆息のひとつもつきたくなった。

 目の前に湯呑みが置かれてはっとする。記帳はなかった。


「トシも、藍ちゃんもよう似てるの」

「私はあそこまで賢くない」

「それは少し違う、とトシはいうだろうなあ。あれは考えることをやめられない男。だからわしらには思いもつかない発想や理論を形にできるところもある」


 おじいちゃんは眼鏡を外し、目頭を揉む。眼精疲労が辛いらしい。


「物覚えも良くない。学に至っては赤点ギリギリが常と聞く」


 おじいちゃんの言葉は間違っていなかった。兄さんはいつも小難しい論説を書いてるのに、いまだ中学の数学も怪しいところがある。

 しかし不思議とちくはぐな印象は受けない。


「けどなあ、誰も想像だにし得ない体制や政策、理念を必要から自明として導ける人間など、そうはおらん」

「自分の頭で、あらゆる知識を検証しないといけないから?」

「然り。わしにもできんし、ヨリさんにも無理じゃ。歳云々じゃなくてな、現実を見、未来への責を負い、過去をかえりみる心が必要なんじゃ。それのなんと難しいことか」


 よくわからない、それが第一印象だった。

 型にはまった見方では足りないのだと思え、己の無知が露見した。

 だからといって解することができないわけじゃない。


「責……」

「そう、責じゃ。人はこのうちひとつでも危ういのに、トシは三つ同時にやっとる。もうわしらの考えるという行為とは違う次元の負担なんじゃよ。字面だけで同じと判断してはいかん」


 兄さんはよく眠る。猫に負けず劣らず眠るのが好き、と思う。けどいつもうつらうつらしている理由はわからなかった。

 はじめてその原因が掴めた気がする。


「藍ちゃん、きみが思っとる以上にトシは“違う”。自分の見方をひとつひとつ折り重ね、自分というものを壊しては作りなおす。まあトシからの受けよりじゃ。しかしな、ただ考え続けてるだけ、それがいかに人として乖離した存在となることかを、よう理解しなきゃならん」


 忠告、いやこれは警告だ。

 留め声はすすり音に代わり、わたしも茶を飲む。


「私は、ただ兄さんが苦しまずにいてくれればそれでいい。生きるが苦しむと同義になったら、嫌だもの」

「見なかったことには」

「できないよ……物心ついた時から、毎夜うなされる兄さんが、隣にいたもの」


 みしみしと、拳に力がこもっていく。


「誰のことも邪険にせず、理解できちゃうから嫌えないなんて言える人、他にいない」


 荒ぶる口を噛み締める。

 お父さんは子供として見てくれない、お母さんたちは複雑そうに接してくるだけ。同年代の男の子でさえ、傲慢ちきな猿。

 意義を胸に、罰にも似た苦しみを常とし、それでも泰平の世界を望む兄さんは。


「他の人たちなんて、無責任なだけ。言の葉の契約を破ることを躊躇わない。生活の地層たる国家を顧みない。そのくせ快楽だけは貪り尽くす。あんなののために、兄さんは」


 バン、卓に叩きつけた手を引く。湯呑みをあおった。

 こめかみがピクピクするのがわかる。はらわたの底がぐつぐつ煮えたつ。

 おじいちゃんは肩をくすめた。


「仕方のないことじゃ」

「っは、不条理と調停できないでなにが社会よ。知性なんて言葉、存在してるのが傲慢に聞こえてくるわ」

「藍……」


 言葉を募るほど体が熱くなっていく。その一方で頭は冷えていく。冴えざえするほどクリアで誤差のない思考を可能にした。

 皮肉か。

 自嘲して目を閉じる。


「人にはなにも期待しない。なにも期待すべきじゃない。単なる観察対象、ちょっと複雑な生態を持ついち生物、そう認識すべきなのよ、きっと」


 学? 権威? 所詮人の認識する世界における概念場に過ぎない。まやかしであり、本能に形づくられた実態なき夢。

 私は、粛々と自壊する社会を見届け、巻き込まれればいい。

 おじいちゃんは私を見ていなかった。きっと正視できないのだろう、人であるならわかる感覚だ。

 

「兄さんは生きながらえることを望まない。私も、兄さんの価値を認識せず、その行為の代価をよこさない社会に存続の義務を見出さない」


 気炎さえ吐く。その意気を込めた。


「人は兄さんを裏切ったんだから」


 吐いた言葉は戻せない、それを踏まえても後悔はできない。言葉がたしかにいま、誓約として私を形づけたから。

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