第4話 日進月歩
芳雅な香りを嗅ぐことが多くなった今世でも、めずらしい趣のある部屋だった。きゅっと胸を締めつける香り高さ。鼻を通り抜けて消えてしまう儚さ。
気品のあるそれは、春には似つかわしくない秋のもの。金木犀だ。
わたしは息を整えて眼前を見下ろした。
その木扉だけ時代においていかれた感はあるものの、銀のプレートをセットにすればホテルの一室と思えなくもない。
しかし、生徒会室である。無機質な廊下の一角にあるそれは異質極まりない。呼ばれなければ近づきたくもない。
本校の生徒会は良くも悪くも自治権が強い。行事の発案から運営、校則までありとあらゆる学生生活を取り仕切っている。
教師の職権が弱いと愚痴っていたのは、音無先生だったか。
まあ将来的な日本の“自治”の中枢を担う人材の、ほんの研修だ。
なんの用か知らないけど、ぱぱっと終わらせよう。
ノックすると、重厚な響きがあった。
使ってる木まで高級品かよ。無駄だなあ。
「どうぞ」
「……失礼します」
中に入ると、来賓室かと見紛うほどのシックな造りだった。ソファに挟まれた長テーブル。その向こうにデスクが構えてあった。
部屋の主は窓際でなにかを淹れていた。斜陽に縁取られた銀の髪は、陽光に負けず劣らず存在感がある。
自身ありげな感じ、苦手かも……。
「そこにかけてくださる?」
「はい」
ほどなくして目の前にカップが置かれた。陶器製らしく、音だけで割れないかヒヤヒヤする。
「お茶、それも麦茶ですか」
第二次南北戦争以来、交易は滞った。中国からの輸入も激減したので、嗜好品の類はもれなく高騰。
このさわやかな香りは久しぶりだった。
「ええ、来客用ですから遠慮しないでください」
対面に腰を下ろすその人からは、感じとれるものがなかった。アルカイックスマイル、先日の相良姉を思い出す。
「おいしいですね、渋い方がここの好みなのでしょうか」
「まあ! ではあなたもこの渋みの良さが」
「わかります。ですがその様子だと、他の方々はのどごしの良い薄味の方が好まれているようで」
粗挽きだと苦味が強くなる。庶民向けの味とでも言えばいいのか。粗悪品でも味わい方次第なのだ。
つけ口の水気を払うように指でぬぐい、カップを置く。
口を開こうとしたその人の出鼻をくじいた形となった。その人は咳払いして居ずまいを正した。
「生徒会長の鳥羽ニアです」
「一年三組の元浦トシです。まさか校内放送で、名指しで呼び出されるとは思いませんでした。けっこう居心地悪かったんですよ?」
肩をくすめて見せれば、空気が弛緩する。
「まあそれが学校という場の良いところじゃないですか。名を呼べばその日のうちに、指定した場所に来る。目が届き、声が届く規模の小ささが便利なんですよ」
いかにも秘訣といった風に語ってくれるが、鳥羽先輩の言いたいことは別にあるように思えた。これみょうがしに指を立てたり、ウインクしたり、演技してますと暗に言ってるようなものではないか。
これはガワだ。
その意に基づいて本意を汲み取るなら、お前はこの学校にいる限り、わたしという法の目から逃れられないぞ。
といったところか。ハハハ、蠱惑的な態度がまるで真を写してねえ。
残り少ない麦茶を飲み干す。
「用もなく呼び出したというわけでもないでしょう。会長も、暇なようには見えませんし」
指の腹をじっと見つめれば、手を組んで隠された。四六時中ペンを握ってるであろう、たこがくっきりとあった。
「ま、まあそうですね。こほん」
好きねえ、咳払い。
誰かの受けよりだろうか。
「元浦くんは保健室を使ってないと聞いてますが」
そう言ってテーブルの下から出したのは、束の資料で、紐で編まれた手製感が微笑ましい。だが手前の発言が不穏で笑えない。
「それがどうしたというんですか」
「不思議なんです。女生徒を連れ込んでいない男子は、新一年生では君だけなんです」
記録を指でなぞりながら再度確認している鳥羽先輩は、淡々と続けた。
保健室がやたら場所を食ってたりしたの、あえて意識してなかったのに。
肩を落として諦める。
「そりゃそうですよ、わたし睡眠欲求の方が強いので」
「はあ」
「それのどこが問題かなんてわざわざ聞きません。ですが、相性のいい男女を引き合わせたりしてるのでご容赦を」
めくっていた冊子ごと手元に引き寄せ、閉じる。鳥羽先輩はむっとほおを膨らませた。
「まだ、見てる途中だったのですが」
「知り合いのあの人やだれかが、いつどのような人と……そんな想像でもしてたんですか?」
「知っておくのが得だからですよ。便利ですよ。誘われたときに自然に断る材料としては」
あらあのときあの子の方を抱いて保健室に入って行った誰々さんじゃないですか。とでも吹聴するのか。
おそろしいお方だ。寒気がする。
鳥羽先輩は記録冊子を横にやり、ソファにもたれた。
「個人での見合いで、代替していると」
「然り。わたしは考え事に事欠かないので忙しいんです。腰を振って啼くひまなんぞありません」
本当に一日中考えるだけでへとへとなのに、その上まぐわいなぞやってられるか。んなもんその辺のイケメンにでもやらせておけ。
外面は紳士を取り繕っていようが、どこまで行ってもまぐわうことしか考えてない猿だもの。
「……気になりますね。その考え事とは」
「様々ですよ。この麦茶にも通じる話ですが、三十年前のアメリカ国内における内紛、首都が水素爆弾で吹き飛んだことに始まる第二次南北戦争。期間こそ半年と短かったですが、その影響は甚大です。今の日本の体制が、秩序の圧力を弱めるほどに……失礼、語弊でした。弱まってしまうほどに」
弱めるなんて、現体制の漸進批判と受け取られかねない。悪印象を持たれてみろ、どんな嫌がらせを受けるか。
慎重に顔色を伺うと、テーブルに目を落とした鳥羽先輩は思ったより神妙な面持ちであった。
つまりそうな息を吐く。
「資源の限界とノストラダムスの予言、加えての中国の国際市場への台頭。米国の礎たるアイデンティティが破壊されたのだから、国家保守派と技術革新派は対立せざるを得なかったのでしょうね。まあ思想的ウイルス同士が共食いしてくれたおかげで、日本まで巻き込まれずに済みましたが。ついでにそれを見ていた中国も経済圏の拡大をほどほどに停止し、他国の領海に侵入する真似もしなくなった。これは幸運なことでした。ね、鳥羽先輩」
「……え、ええ。国防に意識を割かなくて済むのは、大きなコストカットにりますね」
深く息をついた鳥羽先輩は立ち上がる。
「わたしもいただきましょうかね。もう一杯どうです?」
「いいんですか⁉︎ いやあ、味気ない思索にもときには朱を交えないとですね」
乾いた笑みを浮かべたまま、鳥羽先輩は淹れなおした。
ふたたび向き合う。
「面白い解釈でしたが、それだけということでもないのでしょう?」
「教本を読んだだけですよ、あんなの。みなさん大量の亡国民や成長パラダイムの限界を問題にされますが、そんなのは複次的な問題ではないかと」
半分ほど飲んで舌を湿らせる。
「ふう、地方への人口分散と警察組織の再配置に関する遅延です。一応法治国家としての体は保たれていますが、五年前の司法再統合により取り締まりや法の目が現場では疲労を起こしています。男が見かけた女性を建物の影に引き込むなどの事案を、もう何度も見ました」
膨大すぎる法律体系を単純化したことによる、抽象的な法文の増殖と、法曹三者の再教育。
荒れに荒れたものだ。
「男の庶民階層におけるパラダイムを再構成する必要があるのではないかと、懸念していたのですよ。経済成長の神話が停滞してから、いろいろと場当たり的な政策が多かったのは、まあ受け入れなければなりませんでしたが、そろそろ安定してもいいころなのでは、と」
「元浦くんには、迷いがありませんね」
非難だろうか、それとも狭窄的というのか。
かぶりを振って目を合わせる。探るというより、確かめられている気がした。
「理念があるからでしょうね。どんな国家であって欲しいか、どんな安心が欲しいか。わたしには見えているだけですよ。理念は目的とも言い変えられます。国家という船の舵取りは目的という方向を持って初めて動く。そういうことなのでしょうね」
「……そうですか」
がくっと首を落とした鳥羽先輩は、肩を上下させていた。
緊張が解けて息を乱した? それほど頭使うようなことだったかな。
鳥羽先輩のティーカップを押す。
「先輩、こういう時こそお茶です。味覚に逃げて頭を休ませましょう」
「ええ、そうですね」
剛毅に飲み干し、足りないと言わんばかりに二杯目をつぎに向かう。
わたしも冷めた麦茶を飲みきった。冷たい方が口当たりがよかった。次があったら冷まして飲もうかな。
「饒舌でしたね」
わたしはカップを置いた。カチャッという音は気を引き締めてくれる。
「知らない場所で気が上がってただけですよ」
「あれで……」
鳥羽先輩は注ぎつつ天を仰いだ。
「先輩こそ、わたしの言葉を重く受け取りましたね?」
「はい。まあ、それが?」
「言葉を重んじる人が国家には必要なのです。わたしも、安心して国政を任せられる人材に出会えてよかったです」
頃合いもよさそうで、席を立つ。
鳥羽先輩がなにやら口に出そうとした時、扉の開く音がした。
「やっほー、とばっちー用事はもう終わっ……失礼しました」
「はあー」
デスクにソーサーごと置いた鳥羽先輩は、頭を抱えて盛大なため息を漏らした。これを見せられているわたしは、一定の信用を得ているのか。
どんな顔をしていいのかわからず、右往左往してしまう。
「あの、先輩? これは見なかったことにしておくので。ははは、わたしもしつっ」
若干開いた扉の隙間から覗く目があり、言葉に詰まる。
ぎゃーなんでこんなとこで途切れるんだよ。ますます気まずいじゃん。
「元浦くん、とりあえず座って」
有無を言わせぬ力で体ごと曲げられた。
っは、え? 今何された。
呆然と鳥羽先輩を見上げるが、疲れの滲んだ微笑しか確認できない。その視線の先にはあの声の主がいた。
「良張さん、いまは来客中ですよ。入るならノックをしなさい」
「は、はい! 良張琴、ただいま生徒会室に参じました!」
見事な敬礼と共に扉が閉まる。冷や汗をかいてるのは良張さんだけではない。
いっこうに鳥羽先輩が反応しないのだ。
「と、鳥羽先輩?」
「はい、ああお茶が冷めてしまいますね」
途端に惜しげな顔をされて踵を返す。
良張さんは放置ですかそうですか。なにやら救難信号を受けているが、ここは目を合わさず大人しくしておこう。
「はあ、良きかな……良張さん、もうよろしいですよ」
「なはー、とばっち硬すぎ。いくら体面が大事でもさー、男の子にいいとこ見せたいからってさー」
テーブルにへたり込む良張さんは指でもじもじしているが、笑えなかった。
「良張さん?」
「ひゃい! 良張庶務、資料室の整理に参ります。では男子くん、また」
「逃しませんよ。この地獄のような空気をまとめて行きなさい」
心中お察しします、鳥羽先輩。
鳥羽先輩と良張さんの“お話”が少々、落ち着いたようだ。二人してわたしの目の前に座るときた。
なんの圧迫面接だよ。
「あー、えーと君が元浦くんだよね。ちょっと変わってるっていう」
「はい、貴女は庶務と言っていましたが」
「うん、わたしは良張琴。二年だよ。チャームポイントはこのしゃなりとした髪飾り。綺麗でしょう」
能天気そうな顔じゃなければ、様になっていたかもしれない。それだけに銀飾りと揺れる錐体のつくりは確かだ。
本来は大事な儀式ごとにおける、巫女さんがつけているようなもの。それをなぜ……。
「髪をまとめるのにいいそうですよ」
「さいですか。なるほど、髪艶がしっとりして手入れも欠かさないご様子。ご実家は神事に携わることが」
「まあそうだねー」
快活に笑う良張先輩は、背中まで伸びる黒髪であった。通りで、長い髪は邪魔とか言って切りそうなのに、伸ばしてるわけだ。
神事では髪を切って燃やすことも少なくない。体の一部を奏上して五穀豊穣を願ったり、地鎮の役割を果たすらしい。
でもそんな大事な祭具を普段から身につけるか?
いまいち良張先輩はわからなかった。見てる分には少し馬鹿っぽいだけなのに。
「でもさっきは焦ったよ。鳥羽会長が男の子を生徒会室に連れ込んでるんじゃないかとね」
「誤解とわかっているならわざわざ口にしないでください。元浦くんも、意識したら負けですよ」
「ですね、この方のように普段から快活にあるなんてできた話でもないですし。とはいえ、わたしを呼び止めたんですから、話はまだ終わっていなかったということでしょうか?」
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