四章 魂送り(六)たぶん困らせてしまった
美耶の寝間と隣り合わせで当てがわれた自身の寝間に戻ると、千世は寝巻きである浴衣の胸元から紅入れを取り出した。
漣と「寄り道」をしてから、およそ一週間ほど。
あれ以来、漣が屋敷に戻らない日々が続いていた。今夜も、美耶と千世が夕食と湯浴みを終えても帰ってきていない。
鮮烈なのにどこか清廉な真紅を見るともなしに見ていると、物音がした。
「チセぇ……サザナミはまだぁ?」
美耶が襖を開け、目をこすりながら部屋に入ってくる。
「眠れないの?」
「うんんぅ」
むにゃむにゃと口元が動いている。漣が菓子を持ち帰ることが増えたから、今日こそはと楽しみにしていたのだろう。美耶にとって最近の漣は、お菓子をくれる優しいおじさんという位置づけらしい。
菓子に釣られているだけだとしても、以前よりは懐いているようでよかったと思う。美耶なりに、漣の不在を多少なりとも淋しく感じているのかもしれない。
「漣様は龍王様だから、お仕事が忙しいんだと思うよ。眠れないなら、お歌を歌ってあげよっか?」
「ううん。ねぇねぇ、それなにぃ?」
「これ? 口紅だよ。リップ。お口に塗って、お顔をかわいく見せるの」
背伸びして見ようとする美耶のために、千世はその場に腰を落として蓋を開ける。美耶も横に座ったが、紅入れを見て目を丸くした。
「まっかっかだぁ。きれいねえ! ミヤもつけるー!」
「あっ、その、美耶のお口はさくらんぼみたいに赤くてかわいいから、リップを塗っても変わらないと思う。これは、片づけちゃうね」
「なあんだ」
美耶は気落ちしたふうもなくそう言うと、それきり興味をなくしたらしい。けれど、千世は自分で自分にうろたえた。
(美耶に塗ってあげるくらい、簡単なことなのに。どうして……断っちゃったんだろう)
答えが見つからず、わずかなうしろめたさだけがあとを引く。千世は小物箪笥の下段を開けた。
中に仕舞っているものは多くない。使い古した財布、リバティプリントの色がくすんだハンカチ、景品でもらった湖のキャラクターのキーホルダーがついた家の鍵。
どれも元から鞄に入れていたものだけれど、特別な感慨は湧かない。現世にいたころが遠く感じる。
一方、鱗雲に来てから増えたかんざしや
(だけど紅入れだけは……消えない。わたしのもの)
借り物でも、食べたらなくなるものでもなく、唯一たしかなもの。
千世は引き出しのいちばん奥に、そっと紅入れを閉まった。
「チセもつけないのぉ?」
「うん。つけない。つけちゃ駄目だから」
漣の言葉はいまだに理解できないまま、千世の胸の内でくすぶっている。
わかっているのは、もう二度とつけてはいけないということだけだ。
そしておそらく今、千世が知っているべきことはそれだけなのだろう。
「えー、ミヤといっしょだぁ」
「そっか。……そうだね」
千世は小さな頭を撫でてやった。幼児特有の、ほのかに高い体温。このぬくもりを守れたら、それでいいと思っていた。
それを「大切な友」とまで言われたのだから、喜んでもいいはず。しかし心の
漣は千世の求めに応じてくれた。魂送りの
だからだろうか。
(八つ当たり? わたしがつけられないものを、美耶がつけようとしたから?)
千世はうろたえ、自分の心の狭さに気落ちした。これまでは意識しなくても、美耶を優先できていたのに。
だしぬけに美耶が千世の手をつかんだ。その手を大きく振る顔は、得意満面だ。
「チセぇ、明日サザナミのとこ行こ? ミヤがついて行ってあげる」
ついて行ってあげる。
と、妙に張りきった美耶に連れられて来たはずが、美耶は銀牙を見つけると、すっかりそちらに意識が逸れてしまった。
漣のことなどそっちのけで駆け走る美耶に苦笑しつつ、千世は同時にほっとしてもいた。
なんとなく、漣に会うのは気詰まりだった。
かといって、会いたくないのとも違う。ただ、会うのに心の準備が要るというだけだ。
(こんなことは、これまでなかったのに)
千世も美耶を追って御殿の裏に回り、簡素な裏庭に足を踏み入れる。
裏側は、代々龍王の私的な空間として使用されてきたのだろう。池や灯籠はなく、華やかではないものの、様々な野草がなんとも素朴な味わいを漂わせている。
ひと足先に銀牙のもとに着いた美耶は、すでにはしゃぎ回っていた。
「わんわんがホウカしてる!」
「放火じゃねえわ、焚き火だっての。よくそんな言葉を知ってんな。現世は物騒すぎる……っておい、火から離れろ! 火傷するだろうが」
銀牙が荒々しく尻尾を振り回して美耶を追い払う。
呼び名の訂正はとっくに諦めたらしい。さも
美耶は、銀牙に追い立てられるのを、新しい遊びだと思ったようだった。歓声を上げて銀牙から逃げ回っている。
「なにをなさっているのですか?」
「漣様から、古い文を処分するよう指示されたんだわ。蔵に放ったままの書き付けなんかもあったから、結構な量だぜ」
そう言う銀牙のそばには、紙が山と積まれている。
ざっと、美耶の胸くらいはあるかもしれない。料紙の両面とも黒いのは、書き損じの裏面も利用したからだろう。封書もあれば、帳面や巻物もある。
古い文と聞いたが、どれも色焼けなどもなく状態がいい。これだけの量を焼くのは大変そうだ。
「わんわん、サザナミいないの?」
「漣様は今、客人と会ってる。邪魔するんじゃないぞ」
千世は無意識に、安堵のまじったため息を漏らした。
会わないのではなく、会えないだけ。それなら、この前の言葉の意味を問いただす必要もない。つまりは「大切な友」のままでいい。
(……はずなのに)
眉が曇りそうになり、千世は笑顔を作った。悩みの穴に落ちる前に、手にした布包みを銀牙に差し出す。
「では、これを漣様にお渡しいただけますか? お留守が続いたので、必要かと思って。着替えです」
「それはありがたいが。なぜ侍女ではなく、あんたが?」
布包みを受け取って眉をひそめた銀牙と千世のあいだに、美耶が邪気のない顔で割りこんだ。
「チセはねぇ、サザナミにはやくあいた――むぐぅっ」
「ちょっ、美耶っ!」
千世はとっさに美耶の口元を手で塞いだ。
「あんたが漣様に、なんだ?」
「いえ、なにも!」
屋敷の主人の早い帰宅を望むことは不自然ではないのに、かえって不審な行動だったと気づいてももう遅い。
胸の内にくすぶる
焦る千世に、銀牙が眉間に皺を刻んで詰め寄った。尻尾も揺れた弾みで、焼けて黒ずんだ紙片が舞いあがる。
「あんたと出掛けてから、漣様の様子がおかしい。常に難しい顔で考えこんでおられる。呼んでも返事をなさらない。かと思えば熱に浮かされたような顔で、あんたの様子を尋ねてくる。ミャーじゃない、あんただ。あんた、漣様になにをした?」
もしかして、きっかけは千世が差した紅を落とされた一件だろうか。あのときの憂い顔が、ずっと胸の内から離れない。
「わたしはたぶん……漣様を困らせてしまったんだと思います」
「わかるように説明しろ」
詰め寄られても、千世にもよくわからないのだ。途方に暮れて眉を下げると、銀牙が大仰なため息をついた。
「言っただろうが。あんたが漣様を誑かすことがあれば許さねえって。あのかたにも鱗雲にも、必要なのはミャーであってあんたじゃない。あんたが漣様を惑わすことはあってはならねえ」
「銀牙様に言われなくても……誑かしたことはありませんし、二度と漣様を困らせません。わたしは美耶を守るためにいるんですから」
自分に言い聞かせるように、千世は語気も強く返した。
そう、千世の中心は美耶だ。自責の念から解放されても、それは変わらない。
銀牙は怯んだ様子で目を逸らしたが、やにわに捨て紙の山に手を突っこむと、鋭い目で一枚の料紙を突き出した。
「だったらこれでも読んで、自分がよそ者だってことを頭によく叩きこんでおけ」
渡されたのは、書状のようだった。
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