四章 魂送り(五)正直に答えて
分け合った琥珀羹が、胸に
だから千世は浮き立っていたのだ――あるはずのない姿を見かけるまでは。
「え……」
山裾まで下りた帰り道で、千世はまばたきを繰り返した。
魂送りで送ったはずの魂蛍が、木々のあいだを縫うように飛んでいた。日が傾く前でも、花嫁が着る色打ち掛けのような蛍火が鮮明に見えた。
「千世さん?」
前を歩いていた漣が、千世の足が止まったのに気づいてふり返る。千世がぎこちなく木々のほうを指すと、漣もそちらを見やった。
魂蛍は逃げもせず、かといってふたりに近づくでもなく、ただその場に浮遊する。
「魂送りは、無事に終わったんじゃ……」
「ええ、終わりましたよ。魂蛍はすべて浄化されました。千世さんもご覧になったでしょう」
漣は顔色ひとつ変えない。しかしその表情は逆に、千世の胸へ不安を呼び起こすものだった。
「じゃあどうして、魂蛍が残っているんですか? 魂送りは……もしかして、失敗したんじゃないですか?」
「あの夜、美耶さんは立派に務めを果たされましたよ」
「美耶は番じゃありません。異能だって使えません。奉納舞でも、美耶の着物だけはいつまでも染まらなかった」
漣が笑みを深めれば深めるほど、千世の胸に嫌な予感が膨れあがった。
魂は浄化されなかったのではないか。魂蛍が今もなお、艶やかな光を放って飛ぶのがその証ではないか。
魂送りの失敗が知れれば、里の皆が不安になる。そのうち美耶が番でないと暴かれ、千世たちが常世をあとにせざるを得なくなる。
だから、漣は千世たちを守るために、失敗を悟らせなかったのではないか。
「漣様から見れば……わたしは力も霊威もない、無力な人間です。気持ちを一緒に持つなんて、おこがましかったかもしれません」
安全できれいな箱に入れて、守って。漣は、優しい世界だけを見せようとしてくれる。
千世が幼い美耶にするのとおなじに。
(漣様から見れば、わたしだって幼子と変わらないもの)
その気持ちは嬉しく、箱の中は居心地がよかった。だけど、気持ちを分け合えたらと思ったばかりの千世にとって、漣のその態度は拒絶同然に思えてならない。
千世にも、漣のためにできることがあるかもしれないではないか。その有無さえわからない状況には、歯がゆさを感じずにはいられない。
「漣様が秘密を共有してくださったとき、わたしは漣様が隣に並んでおなじ景色を見てくださるんだと思いました」
千世は着物の袖から紅入れを取り出した。漣との約束を果たすために、魂送りが終わってからずっと持ち歩いていたのだ。
しかし、漣は紅入れに目をやってもちらとも揺れない。
「今も、見ていますよ」
「そうじゃないんです。漣様は、わたしに見せまいとしておられませんか? わたしには、漣様がひとりで見ていらっしゃるように見えます」
漣が目を見開き、魂蛍に手を伸ばす。ところが、魂蛍はその手を避けるように飛んでいく。漣は苦笑しただけでなにも言わなかった。
(もどかしい。それに……もやもやする)
千世は紅入れの蓋を開け、真紅の中身に小指で触れた。そうしてから、その指を唇へ滑らせる。その色は意思を伝える唇にふさわしい、
よい友になれると言った、漣の表情を思い出す。あのときも、漣は千世を箱に入れようとしていたのだろうか。わからない。
「約束どおり、わたしは紅を差しました。だから漣様も、魂送りの結果を正直に答えてください」
「祭祀は未遂に終わりました」
漣は即答した。ためらう素振りすら見せなかった。
答えを迫っておきながら、返事の早さに千世は驚いた。言った当の本人も、なぜか目をみはっている。どうしたのだろう。
漣は難しい顔で唇を引き結び、やがて観念したとでもいうふうに続けた。
「魂送りの儀でしたことは、魂蛍の持つ記憶を衣に移すところまでです。魂蛍は浄化されませんでした。僕はあとで霊威を使うつもりで、ひとまず鈴の音に合わせて皆の目から魂蛍を隠しました」
「どうして……」
「あの場で僕が倒れたら、千世さんがご自身を責めるでしょう。霊威を使うわけにはいかなかった」
漣が体調を崩さなかったのだけは、さいわいかもしれない。
だけどそれではこう聞こえる――千世のために、失敗を選んだのだと。千世は、思わず奥歯を噛みしめた。
(じゃあ、漣様が言おうとしなかったのは……)
千世を気に病ませないためだったのではないか。漣はやはり、千世を優しさという名の箱に入れておこうとしてくれたのだ。
「この魂蛍は、魂送りを拒否した個体でしょう。心残りの強い魂蛍はそもそも現世に留まるので、鱗雲に来ること自体が珍しいのですが、ないわけではありません。これは、祭祀の成否とは関係なく……このままで問題ない」
魂蛍はまだ、ふたりの視線の先をあてもなく飛んでいる。
捕まえないでと訴えるようにも、からかうような動きにも見える。千世はその軌跡をぼんやりと目で追った。問題ないと漣は言うが、信じてよいのか判別がつかない。
「ただ、魂送りは成功しました」
「えっ? どうして」
漣をふり向く。彼は魂蛍ではなく千世を見ていた。
「祭祀を終えたその日の夜でした。僕が霊威を使う前に、魂蛍の気配は消えました。前代未聞……といってよいのか。とにかく驚きました」
「そんなことが……」
千世は呆然とした。
魂送りの夜、千世は里の者と漣を繋ぐことに腐心していた。その裏で起きていたことなど、つゆほども知らなかった。
「あれからその理由を考え続けていました。今日やっと……確信が得られました」
漣の目が、強い光を宿していた。
確信を得た満足感、達成感。それから見出した答えに対する
その光に、ときおり戸惑いや迷いがちらつく。漣はそのつど、ひどく困ったようにした。相反するなにかが、漣の中でせめぎ合っているふうにも見えた。
そんな目をする理由が、千世にはわからない。
しかしわからないなりに、ただごとではない予感だけはする。胸がさざめいた。
「漣様……?」
漣ははっとしたように目を逸らしたが、すぐにまた千世を見つめた。
漣の視線が、千世の心の奥のもっともやわらかな場所に触れてくる。繊細な美術品を扱うかのように。同時に、鎖で容赦なく
それはどこか甘やかで、ごくわずかに恐ろしいものだった。しかし千世は目を逸らすことができなかった。胸が焼けつくような、強い引力に抗えない。
すらりとした手が千世の頬へ伸ばされる。千世は無意識に息をつめた。
しかし指先が触れる寸前、漣はぴたりと動きを止めた。
(え……っ!?)
次の瞬間、漣の指は千世の頬ではなく唇に触れた。
とたん、触れられた場所から千世の体じゅうへ、微弱な電流を通されたのに似た痺れが広がった。
漣の指はひんやりとしていたのに、火傷しそうな熱が流れこんでくる。辺りの空気が濃くなった。胸の奥が、ぞくりと震える。
時間が引き延ばされたように思ったけれど、気のせいらしかった。実際には触れていたのはほんのわずかな時間に過ぎず、すぐにその指は離れる。
(な、なにが起きたの?)
漣の表情は痛みをこらえるように歪んでいた。
「いつまでも眺めていたかったのですが」
ややあって落ちてきた声は、すまなそうにしつつも、ふだんどおり穏やかだった。空気がゆるんで、千世は息をつく。
漣の指が、鮮やかな真紅に染まっていた。
さっきのは、紅を拭う仕草だったのだ。
「貴女は大切な友ですから……これ以上、その姿でいてもらうわけにはいきません」
漣の指だけが、かすかに震えていた。
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