四章 魂送り(七)叶わぬ望み

 宛名はないが、文末には漣の名が記されている。書き損じのようだが、流れるように優美な筆跡だ。つらつらと書かれた文体からは、彼の私信であることがうかがえた。

 盗み見に気が咎めたけれど、千世は銀牙に急かされ目を走らせる。

 私信をしたためたのは、漣が鱗雲を治める前のようだ。


「そちらの暮らしには、もう慣れましたか。僕はまだ信じられません――」


 そう始まった文章からは、彼がまだ若く溌剌はつらつとしていた姿が匂い立つ。

 それは、鱗雲のなんでもない日々を報告するものだった。

 里の揉め事の仲裁に半日かかったとぼやき、長として出席予定の会議に対する相談が続く。本来なら貴方が行くはずなのに、と添えられている。

 そしてその端々に「羨ましい」と書かれていた。


 番と仲睦まじく暮らしていることが。その番のために、鱗雲と龍王の座をためらいなく捨てたことが。

 番を――魂が惹き合う存在を得たことが。

 私信は、帰ってきてほしいという嘆願で締めくくられていた。そうすれば、自分も番がほしいなどという叶わぬ望みを捨てられるだろうから、と。






 その後どうやって屋敷に戻ったのか、記憶はあいまいだった。何度か美耶に呼びかけられた気もするけれど、返事をしたのかすら覚えがない。


(叶わぬ望み、か……)


 午睡を始めた美耶が寝入ると、千世は縁側から庭に下りた。景色などまるで目に入らなかった。当てもなく、ふらふらと歩く。

 鱗雲を騙す覚悟を決めたとき、大切なのは美耶の身の安全だった。育児放棄した養親と、美耶を狙う男の両方から守る。

 そのために、嘘という盾で美耶を守る腹を括った。

 漣の心を知ってからは、その盾が彼の盾にもなるという免罪符を無意識に得ていたのだと思う。


 秘密と罪を共有すれば、漣とおなじ方向を見ているようで、それもまた千世の気を楽にしていた。罪悪感は薄らぎ、肩の荷が軽くなった。

 けれど。


『貴女は大切な友ですから……これ以上、その姿でいてもらうわけにはいきません』


 手紙を読んでようやく、あのとき漣が憂いを見せた理由がわかった。

 わかってしまった。


(漣様も、心の奥底では番の現れを望んでいて……一度は捨てたはずのその思いを、捨てきれていなかったと気づいたんだ)


 番に執着してすべてを失いたくない、と前に漣は話した。あれもきっと真実には違いないけれど、番を欲する気持ちもまた真実で。

 当然だろう、本能的に求めずにはいられない存在なのだ。

 だから漣はこれ以上、偽の番を立てた証を目にしたくなかったのではないか。漣は優しいから、千世にそうと言わないだけで。


 漣は祭祀の結果も言おうとしなかった。今回も、千世や美耶のために隠しておくつもりなのかもしれない。


(知らないままでいられたらよかったな……なんてね)


 気づかなければ、箱の中で安穏としていられた。迷いなく美耶を守るほうを取っていられた。今も、そうするべきだと頭では思う。鱗雲に居座るために、素知らぬふりで美耶を番にしておけば。


 ふいに「優しさがなんの得になる?」と、いつかの銀牙の声が頭に響いた。


『せいぜい踏みにじられるか、利用されるだけだろうが』


 ひゅっと、喉が鳴る。千世は池にかかる石橋で膝をついた。

 息が上手く吸いこめず、小さくあえぐ。澄んだ水面に映った顔は、醜く歪んでいた。今の自分はまさに。


「漣様の優しさを踏みにじってる……」


 漣に返せるものがないのを、もどかしく思っていた自分が恥ずかしい。漣を純粋に慕う銀牙に対して、自分の汚さが際立つ。

 たとえ誰の優しさを踏みにじることがあっても、漣のことだけは千世が踏みにじってはいけなかった。


「……わたしは」


 水面に映る顔から目を逸らし、千世は息をととのえた。ふらつきながら立ちあがり、寝間に戻る。

 心は決まっていた。

 箪笥から紅入れを取り出し、着物の懐に入れる。

 春乃を探すも、今日も見当たらない。千世はしかたなく別の侍女に美耶を頼み置いて屋敷を出た。


 御殿に戻り、驚く銀牙に漣と話があると告げる。案内された奥の間で、漣は座卓で書き物をしているところだった。


「千世さん、どうされたのですか? 屋敷でご不便でもありましたか?」

「いえ、違うんです」


 腰を浮かせた漣を手で押し留め、千世は座卓の向かいに正座をした。漣を見たとたん、心臓が痛いほど脈打ち始める。


 口にすれば、ここでの穏やかな日々が終わる。

 この期に及んで浅ましくもまだしがみつこうとする自分を、千世は心の内で叱咤した。

 漣がいぶかしげに眉を寄せる。それでもなお、表情はやわらかい。

 これ以上、漣の深い優しさに甘えてばかりではいけなかった。千世は深呼吸してから、つとめて淡々と告げた。


「美耶との婚約を……解消してほしくて来ました。痣ももう要りません。美耶と現世に帰ろうと思います」


 ふたりきりの奥の間に、千世の声はやけに大きく響いた。


「……なぜ」

「現世が恋しくなったんです」


 千世は表情が歪まないよう、注意深く笑顔のよろいを着る。


「そろそろリサイクルショップへ新作のチェックに行きたいし、散歩で出会った犬にもまた会いたいです。美耶と毎週楽しみにしているアニメの続きも気になってたまらなくって」


 言いながら千世は驚いていた。自分が現世で手にしていた世界はなんとも狭く、今ではそのひとつとして心を引きつけない。

 とはいっても、突拍子もない嘘よりは説得力があるはず。漣が大ごとにとらえるよう、あえて単語の意味は告げない。


「美耶もわたしもおかげさまで元気になりましたし、やっとそういうことを楽しめると思ったら、どうしても帰りたくなりました」

「ですが、現世には美耶さんを狙う者がいるのでしょう? 今、戻るのは危険ですよ。もう少し待ってくだされば、僕が――」


 やはり漣は優しい。婚約解消を申し出てさえ、まず千世たちを気遣ってくれる。

 だからこそ千世は、漣を撥ねつけなければならなかった。


「思い返せば、美耶を狙った男は片目が不自由で、痣の気配を追っていたように見えました。だから、痣さえ消えれば狙われる危険もありません。もうなにも問題ないんです」


 痣の気配なんて、まったくのでまかせだ。あるかどうかも知らない。しかし千世は笑みを重ねる。


「やっと帰れます」


 漣の真の望み。

 番など要らないと微笑んだ漣の目は、かすかにかなしみを湛えていた。

 あれは、一度は手を伸ばし、その望みを捨てざるを得なかったゆえの哀しみだった。今ならわかる。


(だってわたしも……芽吹いた望みを捨てにきたから)


 千世は懐から紅入れを取り出して座卓の上に置き、漣のほうへ滑らせた。

 漣が紅入れに目を落とす。共犯の証、友の印。

 見つめるその顔から表情がゆっくりと抜け落ちていくのを、千世は目にした。

 いつもの穏やかな笑みも、龍王の貫禄も消えていく。あとにはただ、ぞっとするほどうつくしい彫像があるだけだった。


 やがて漣が口を開いたとき、その声は千世の知る漣のものとは似ても似つかない、低く冷たい響きをしていた。


「……それが、貴女の望みですか」


 座卓に置かれた拳が強く握りこまれ、手の甲に青筋が浮かぶ。

 その目に燃えあがる炎を見たと思ったのは一瞬で、漣の顔はしんと冷たい湖底を思わせる静けさだけを残していた。


 世話をした、しかも一緒に秘密を抱えると約束した相手の裏切り。漣が憤るのも当然だった。

 だから喉元まで出かかった言葉の代わりに、千世は微笑む。


「はい。教えてと言ってくださったでしょう?」

「……わかりました。では、次の朔月さくつきの夜におふたりを現世に戻しましょう」


 用件を伝えるためだけの声には、感情がなかった。

 漣は一度、障子の外を気にする素振りをしたが、すぐにまた静かな表情に戻った。


「おふたりには、ご苦労をおかけしましたね」


 かぶりを振りかけ、千世は奥歯を噛みしめる。と、千世の前に紅入れが押し戻された。


「それは千世さんに差しあげたものです。せめて、友の証に持っていてください。現世に持ち出しても、問題ありませんから」


 最後にそうつけ加えたときだけ、漣の顔にはあのいつも千世に安らぎをくれる表情が戻っていた。

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