第8話

第8話 「裏切り者」


 ——真っ暗なところに、俺は浮かんでいた。


 感覚が全部、遠い。

 痛みも、重さも、音も。

 現実が少し後ろに引っ込んで、透明な膜ごしに覗いてるみたいな距離感。


 ここはどこだ、って思う前に、聞こえた。


『——起きている?』


 それは人間の声っぽかった。でも、人間の声じゃない。

 耳から入るんじゃなくて、頭の内壁に直接響く感じ。

 夢の中で呼びかけられてる、みたいな。


「……エリシアか?」


『ちがうわ。私はもっと上』


「もっと上って自己紹介やめろ怖いから」


 少し間があいて、くすりと笑う気配があった。

 その笑い方は、エリシアに似てなくもない。けど、もっと平坦だ。感情の濃度が薄い。冷たいとかじゃない。ただ、遠い。


『あらためて。私は“監理層”。あなたたちが“神”と呼んでいる階層の一部』


「神、か」


『あなたたちはそう呼ぶけれど、私はただの調整者。管理者。観測者。どれも完全には正確じゃないけど、どれも嘘でもないわ』


「説明がいちいちムカつくな……」


『あなたたちがそう感じるように設計されているから』


「設計って言葉もやめろ腹立つから!!」


 “神”はすぐ答えない。少し待ってから、静かに続ける。


『観測報告。——あなたは今、意識レベル低下中。身体は生存状態、外部で治療中。あなたの仲間は逃走処理中。いまのところ、全員生きている』


 全員、生きてる。


 その言葉だけで、胸の奥の緊張が少しほどけた。


「……そうか。よかった」


『それも興味深い』


「なにが」


『あなたは自分の生存より先に、他者の生存を確認して安堵した。一貫しているわね。あなたの優先度テーブルは“局所グループ>自己>その他”で固定されている』


「テーブルとか言うなよ。気持ちの話をexcelで見てんのかお前は」


『エクセルってなに?』


「神がExcel知らねぇの!? 話通じるのか!?」


『冗談よ』


「神ジョーク雑すぎね?」


『ジョークという文化についてはまだ学習中なの。許してね』


 ……なんだこの会話。


 こいつ、怖い。怖いんだけど、完全に敵って感じでもない。

 俺を利用したい側、っていうのははっきりしてる。でも、なんというか、殺して当然な対象として見てる神楽坂とは違う。もっと、“ルールから外れたものの数値”として扱われてる。


 じわじわと、それが怖い。


 “神”は、少しだけ声色を変えた。ほんの少しだけ、人間に寄せた調子になる。


『あなたはとても珍しい』


「……珍しい?」


『“編集”という行為は、こちらだけが持つ権限のはずだった。世界のルール、ステータス、因果の重みづけ、そのバランスを変える権限。それはすべて神域側で管理している。——はずだった』


「“はずだった”?」


『ええ。ところが、あなたが持っている《ステータス編集》は、明らかにこっち側の権限の“抜け落ち”。設計漏れ。いわゆる、バグね』


「俺バグ呼ばわりされたんだが」


『あなたはバグよ。明確に。

 ——でも、バグっていうのは、ときどき救うの』


「……は?」


『あなたたちの世界は、すでに限界をこえている。管理局は管理局で暴走しているし、神域干渉体は本来より早いスピードで地表層に降りている。本来なら、あなたたちの都市消滅は、今夜ではなく八日後の予定だった』


「今夜……?」


『そう。“神谷蓮奪取オペレーション”と“桐生東高校消失”は、本来8日後のシナリオ。けれど、管理局側が予測よりも早く独断で行動したせいで、前倒しになったわ』


 背筋に冷たいものが走る。


「それってさ、つまり」


『この世界はもう、想定されたラインから外れている。

 管理局も、人間も、神も。誰も正しいバランスを維持できていない。

 このまま進めば、あなたたちの都市は壊死する。生存領域ごと“破棄”される』


 “破棄”って言葉の響きが軽すぎて、逆に重い。


「破棄ってつまり、街ごとなかったことにするってことか?」


『ええ。あなたたちの記録を“なかったこと”にして、別の並行層からコピーした正常データで上書きする。少し前の状態に、って言ったほうがわかりやすいかしらね』


「リセットだろそれ……」


『そう。あなたの仲間も、この学校も、あなた自身も、“発生しなかった”ことになる。痛みも、戦いも、絆も、告白も、誓いも、覚悟も、全部“バグ扱い”として消える。』


 呼吸が詰まった。


 その映像を、はっきり頭が勝手に描いた。

 アイが必死に「守る」って叫んだ声も、黛が学校を戦場として宣言したあの一言も、黒瀬が笑ってた無茶な足さばきも、槙村の震える手も——ぜんぶ、なかったこと。


 それ、許せるわけない。


「……ふざけんな」


『それが自然な反応よ。だから、あなたに“提案”をしたい』


「提案?」


『あなたはバグ。なら、“修正パッチ”になれる』


「……待て、すごく嫌な予感しかしないワードが出たな今」


『あなたの《ステータス編集》は、局所的にルールを書き換える力。個人単位・場面単位の違反を、あなたの望む形で上書きできる。それは、私たちが世界規模の再調整をかけるよりも、ずっと少ない犠牲で済むアプローチ』


「つまり、俺に何をしろって?」


『この街を、正常値まで“戻して”ほしいの』


「戻すって……どこに?」


『崩壊しない世界線。つまり、“あなたとあなたの仲間が生き残るライン”に』


 は?


 今の、聞き間違いじゃないのか?


「待て。俺たちが生き残るラインにって……それ、俺の願いに合わせるって意味か?」


『ええ。それがいちばん、局所崩壊を抑えられる。あなたの優先順位は非常に安定している。だから、あなたの“保存したいもの”を基準に、都市全体を整えるのがいちばん効率がいいの』


「それって、なんか、すげー聞こえ良いこと言ってない?」


『聞こえはいいわね』


「代わりに何を差し出せって話になるんだよ。どうせ見返りあるんだろ」


 “神”は、少しだけ黙った。


 沈黙の質が変わる。

 それまでの「実験動物への説明」みたいな空気から、ほんの少しだけ、真面目なものに。


『代償は一つだけ。……あなたに“境界線の外”へ降りてもらう』


 鳥肌が立った。


「“外”って?」


『人間側でも、管理局側でも、神域側でもない。あなた個人の領域。

 私たちはそこに手を入れられない。

 ——つまり、あなたはこの街で、“誰の庇護にも入らない存在”になる』


「それ、ただの的って言わない?」


『率直に言えばそうね』


「お前それをサラッと言うのやめろ!? いやそれはヤバいって普通に!!」


『でも私たちは、あなたとあなたの“クラス”だけは、消さない』


 息が止まった。


 あぁ最悪だ、って理解した。


 こいつは今、俺にとっていちばん卑怯なカードを切ってきた。


 「世界を、街を、そこそこ丸く保ってあげるよ。その代わり、おまえだけが全部の矢面に立て」


 そういう話だった。


「それって、俺を囮にして、他を守るって話だよな」


『違うわ。“あなたを中心に世界を再保存する”の。意味は似ているけど反転してる。あなたが中心点になるの』


「それ言いかた変えただけな」


『ええ』


 素直でいいよ、もう。


 少しだけ笑いそうになった。

 笑えるはずがねぇのに笑いそうになるの、本気で頭おかしい。


 “神”はきわめて冷静に言う。


『どうする? 選びなさい、神谷蓮』


 ——そこで、現実が戻ってきた。


 いきなり、息の詰まるような湿った空気が肺に入ってきて、俺は反射で咳き込んだ。


「っ、がはっ……げほっ、っおぇっ……!」


「蓮っ!? 大丈夫!?」


 急に世界が音と重さを取り戻す。

 目を開けると、そこは狭い通路だった。


 鉄の壁、低い天井、むわっとした排気の匂い。

 緑色の非常灯だけが点いている。

 地下だ。これは学校地下の避難区域——シェルター区画。


 俺は背中を誰かの膝に預けて、上半身を起こされていた。

 その“誰か”は、涙目で俺を覗き込んでいる。


 アイだった。


 髪は乱れてて、頬には汚れと、乾いてない涙の跡。

 目の下は赤い。

 でも、生きてる。


「……おはよ」


 反射的にそう言ったら、アイはぷるぷる震えて——


「今それ言える余裕あるなら最初から起きろバカ!!!!!!」


 全力で怒鳴られた。


「ごめん!!」


 頭をはたかれた。痛い。けど正直ちょっと安心する痛みだった。


 すぐそばには槙村がしゃがみ込んで、俺のバイタルをタブレットで確認してる。

 肩で息をしてるけど、手は震えてない。プロって感じだ。


「戻った。意識クリア。血圧もギリ正常域に復帰。よかったぁぁぁぁマジでこれ死んだら私絶対メンタル壊れるやつだったからほんと勘弁してね神谷くん……!」


「いやごめんほんとごめんほんまごめん」


 後ろの壁にもたれて、黒瀬が座り込んでいた。

 片目にでっかい青あざ、唇切れて血、肩でゼーハー呼吸。

 それでも親指を立ててくる。


「おっす。帰還おめでとう、神殺し」


「神殺してねぇよまだ!!」


「いや今のバリア、普通に神域級だろ。マジでしびれたわ。あれなかったら俺いま胴体ないもん」


「縦に真っ二つの迅は見たくなかったからマジ助かった」と槙村。


「お前ら人の死体想定をサラッと共有するな!?」


 廊下の少し奥では、特防課の生徒たち——2-B以外の連中も数人いた。みんなボロボロだ。誰もが血の跡や焼け跡、裂けた制服、ガタガタの呼吸を抱えてる。だけど全員、まだ動いている。まだ生きてる。


 ……そして。


 少し離れた壁にもたれかかっている黛が、俺の方を見た。

 左腕に血がにじんでるけど、表情はほとんど変わっていない。


「よくやった、神谷」


 それだけ。


 それだけで、胸の奥がきゅっと締まる。

 これ、褒められるとズルいタイプのやつだ……。


「……状況は?」


 俺が問うと、黛が簡潔に説明する。


「場所は地下第2シェルターの西側通路。今は遮断フィールドで局所的に隔離されている。上(地上)ではまだ管理局がうろついてるが、正式には“生徒避難の保護作業継続中”って名目だ。さっきのお前の《防壁》が、奴らの“即時処分”を止めた形にはなってる」


「つまり、まだアウトじゃないけど、ぜんぜんセーフでもないってこと?」


「そういうこと」


「なるほどわかりたくなかった」


「あと悪いニュースがある」と黛。


「あったのかまだ!?」


「管理局の連中、進入前にこのシェルターの構造を把握してた。配置も、避難ルートも、非常遮断の地点も。まるで内部図面を事前にもらってるみたいに、正確に動いていた」


 ……あ。


 嫌な汗が一気に出る。


「それってつまり」


「内部に、管理局側と繋がってるやつがいる」


 地下の通路の空気が、ピンと張った。


 誰も、声を出さない。

 小さな息の音だけが響く。


 そりゃそうだ。

 “裏切り者”って言葉は軽いけど、これはもうちょっと違う。

 「こっちの動きが、敵に伝わってる」。

 命のやり取りをしてる場所で、その事実がどんだけキツいかは、俺でもわかる。


「候補は?」俺は聞く。


 黛は即答しなかった。

 代わりに、ゆっくりと俺を見る。


「お前に伝えるのは、正直 早いと思ってた」


「俺もう“早い”とか“まだ早いから後でね”ってライン全部ぶっ壊されてんだけど」


「確かにな」


 黛は小さく息を吐いた。


「……率直に言うと、二人いる」


 通路の空気がさらに冷える。


「ひとりは職員側。学校の大人からの情報漏洩があった可能性。あいつら、先生一人ひとりの配置を正確に把握して動いてた。これは明らかに“内部にログイン権限のあるやつ”の流しだ」


「先生の誰かが売ったってことか」


「ああ」


 ……きっつ。


 いや、そりゃあるだろうなとは思うけど。

 こっちの担任、めっちゃ「死者ゼロで卒業」目指すって言ってたじゃん。ああいう人間だって、重圧かけられてひっくり返される可能性はあるんだよな。人間は揺れるもんな。


 黛は続ける。


「でももうひとつ、もっと直接的なやつがある」


「もっと直接的?」


「管理局が神谷、お前のステータス詳細……いや、ステータスの“概念”まで把握してる。これはマズい。お前のことを「神殺し候補」で「編集できる」って言葉にまで正確にしてきた。あれはさすがに偶然じゃ説明できない。目視で見たってレベルじゃない。初動でそのフレーズが出たってことは、事前情報があるってことだ」


 つまり。


「特防課側にも、管理局に情報を流したやつがいる」


 黛は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


「ああ」


 通路の奥の空気が重くなる。

 誰かが小さく唾を飲む音が聞こえた。


 アイが、ゆっくりと俺を離してから立ち上がった。


 その目は、泣いた直後とは思えないくらい鋭かった。


「特防課の誰かが、蓮を売ったってこと?」


 アイの声には、怒りというより“震えないように抑え込んでる緊張”があった。


 それが逆に、怖い。


「桐生東が丸ごと焼かれてもいいから、管理局と組んだってやつがいるってこと?」


「アイ」


 黛は低く静かに呼びかける。


「大声を出すな。ここの遮音レベルは完全じゃない」


「……」


 アイは息を飲んで、口をぎゅっと閉じた。

 わかってる。わかってるけど、抑えきれない、って顔だ。


 俺はゆっくりと上半身を起こす。身体がまだズキズキするけど、動ける。

 「槙村、ちょっと支えてくれる?」と言ったら、槙村は目を潤ませながら笑って、俺の肩にそっと手を回してくれた。


「ありがとな」


「うん……! ってかこれ、物理的にも精神的にも重すぎる状況なんだけど!? ねえ? ねえ神谷くん????」


「俺もそう思う」


 俺は立って、狭い通路を見渡す。


 黛。

 黒瀬。

 槙村。

 アイ。


 それから、他の特防課の生徒たちもいる。顔は知り始めだけど、もう知らない顔ではない。「一緒に死にかけた」っていうだけで、勝手に仲間認定されてしまっている。


 俺は息を吸った。


「二つ決めよう」


 黛がこっちを見る。


「“決めよう”?」


「そう。まずひとつめ」


 俺ははっきりと言った。


「いまこの場で、誰も疑わない」


 通路の空気が、ビクッと揺れる。

 何人かの生徒が顔を上げる。

 黛でさえ、わずかに眉を動かした。


 俺は続けた。


「裏切りの線はある。多分ぜったいある。それは事実なんだろ。だけど、いま“お前か?”ってやり合って仲間割れした瞬間、管理局は何もせずに勝てる。俺たちはその瞬間に詰む」


 黛がゆっくり頷く。「……正しい」


 俺はさらに続けた。


「だからこれは後で調べる。冷静に、ちゃんと。今は疑わない。今は仲間。戦う時に背中預けられなきゃ、死ぬから」


 槙村が、手で口元を押さえながら「……うん」とうなずいた。

 黒瀬は「俺はもともと誰も疑ってねーよ。だって裏切りそうな顔のやつは最初から信用してないから」という暴力的な謎理論を展開した。お前それはそれで怖いよ。


 黛は静かに言う。


「そして、二つ目は?」


 俺は、喉がからっからに乾いてるのを感じながらも、言った。


「——もし、裏切り者がいたとしても。俺はそいつを捨てない」


 空気が止まった。


 アイが顔を上げる。

 目が、揺れる。

 揺れたあと、ぎゅっと結ばれる。


「蓮……」


「いい? 聞こえ悪いかもしんないけど、これマジで大事だからちゃんと言う。俺は、お前ら全員連れて生き残る。裏切ったやつも。裏切らされたやつも。裏切らされたフリしてるやつも。ぜんぶまとめて」


 ごくり、と誰かが息を飲む音。


「それが俺のやりたいことだ。俺はこのクラスを守るって言った。特防課2-Bは俺の世界だって言った。だったら、その中で誰かを切り捨てる時点で、俺が自分で自分の世界を壊してることになる。それは、絶対やんねぇ」


 黛の目が、ほんの一瞬だけ、驚いた色を帯びた。

 すぐに、薄く笑った。その笑みは、今までよりも柔らかい。


「……いいな、それ」


 槙村は、涙を拭いながらタブレットを叩く。「はい記録。はい名言。はい将来の証拠。はい感動。いやマジで好きこういうの」


 黒瀬はニヤニヤしながら俺の背中を軽く叩いた。「お前ほんとバカだな。最高に好きだわそのバカさ」


「褒めてんのそれ?」


「もちろん」


 アイは——ずっと俺を見てた。


 その目は、さっきよりずっとクリアだった。

 泣きはらした赤さが残ってるのに、瞳の奥は揺れない。


 ゆっくりと、アイが言う。


「わかった」


 声が低くて、でも震えてなかった。


「いいよ。私も、それでいく」


「……アイ」


「今までの私は、“蓮を守る”って思ってた。蓮を奪われたくないから、蓮だけはって。たぶんそれって、ある意味で“自分の安心のため”だった」


 アイは指をぎゅっと握る。

 爪が自分の手のひらに食い込んでるのが見える。


「でも違う。そうじゃないんでしょ?」


 その目が、まっすぐ俺を刺す。


「“蓮を守る”じゃない。

 “蓮と一緒に、全員で生き残る”。

 それが、あんたが言ってるやつでしょ」


 胸の奥が、ぎゅうっと熱くなった。


 たぶん今、誰よりも正確に俺の言葉を翻訳してくれたの、アイだ。


 俺はちょっとだけ笑った。


「そう。そうだよ。それ」


「……ふーん。なるほどね」


 アイは目を細めた。

 頬が少し赤い。

 次の瞬間、いつもの調子で言った。


「じゃあ、隣に立つの。

 勝手に盾役とかヒーローとか背負って一人で死のうとしたら、ぶん殴るから」


 うわこれすごい心臓に刺さるやつ。


「こっわ……!?」


「こわがっていいよ? 怖いし」


「うん、怖いです」


「よろしい」


 半分泣いてるくせに、ドヤ顔で言うのやめろや。ずるいだろ。


 通路に、ほんの少しだけ笑いが戻った。

 重さは残ったままだけど、その重さの中にちゃんと呼吸できる余白ができた。


 ……その瞬間。


 シェルター全体に、低いアラートが鳴り響いた。


 ウウウウウウウウウ……。


 ただの警報音じゃない。こもった金属音。

 耳じゃなくて骨に来る警戒信号。


 黛が顔を上げる。「来たか」


 槙村がタブレットを操作する。「熱源反応、四……八……十二、増えてる!? シェルター側に向かってくる反応確認! これ、管理局の動きじゃない!」


 黒瀬が立ち上がり、口の端をつり上げる。「ん? 神サイドか?」


 ……いや。


 音が違う。


 足音が、揃っていない。

 管理局みたいな軍隊の足音じゃない。

 神域体みたいなノイズ混じりの浮遊でもない。


 もっと、バラバラ。

 もっと、“人間”だ。


 通路の暗がりから、影が現れた。


 ボロボロの制服。

 血の付いた包帯。

 ひどい顔色。


 でも、その顔、俺は知ってる。


「——うそだろ」


 俺の喉から、勝手に声が漏れた。


 そこにいたのは、俺の元のクラスメイトたちだった。


 異世界(いや、時空ズレ)でこっちに来たはずの、あのクラス。

 「保護されてる」「安全な場所にいる」ってぼかされてたみんな。


 立ってる。

 生きてる。

 でも、生きてるだけ、って顔じゃない。


 目が、虚ろだ。

 何人かは意識が飛びかけてる。

 肩には不自然な痕が浮かんでる。神域汚染みたいな、黒い斑。


 その先頭に立っていたのは——


「……嘘、花音(かのん)……?」


 俺の口が勝手に名前を出した。


 花音。

 元の世界で、わりと明るくて、ムードメーカーで、体育のときによく俺をからかってきたあいつ。


 花音は、一歩こちらに足を踏み出して、震える声で言った。


「れ、ん……?」


 目が赤い。

 泣きはらしたってレベルじゃない。

 何度も泣かされた目だ。


「ここ……蓮、いるって、聞いたから……」


 聞いたから。


 俺はその言葉にゾッとした。


 誰から?


 シェルターの場所、特防課の避難ライン、俺たちの動き。

 それを“まっすぐこの子らに伝えたやつ”がいるってことだ。


 黛が俺の横で、低く、ほとんど聞こえない声で呟いた。


「——なるほどな」


 アイが、花音を見て、眉を寄せる。「あなたたち、どこにいたの? 何されたの……?」


 花音は、口を開きかけて、ぷつっと止まった。


 その瞬間、彼女の首筋で、黒い紋のようなものがちらりと光った。


 それは神域由来のノイズじゃなかった。

 管理局のデバイスの痕跡だった。


 まるで、発信機か、封印タグみたいなもの。


 ……いや待て。

 これ、まさか。


 花音は絞り出すように言った。


「たすけて。……“監査班”が、来る」


 シェルター全体に、重い沈黙が落ちる。


 黛の目が、細く鋭くなった。

 その目にはもう、ためらいはなかった。


「全員、位置につけ。——第2ラウンドだ」


 そして小さく、俺にだけ聞こえる声で。


「神谷。立てるか?」


 俺はボロボロのまま、笑って言った。


「立つよ。

 ……俺のクラス、増えたしな」


(第8話 終)


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