第5話

第5話 「神側のスカウト」


 冷たい空気。

 フロア全体が、まるで時間の流れを止められたみたいに静まり返っていた。


 女のヒールの音だけが響く。

 「コツ、コツ」と一歩ずつ。

 その歩幅には迷いがない。何百回もこの光景を見たかのように、まっすぐに俺へ向かってくる。


 黛が短く息を吐いた。

 「黒瀬、槙村、構えろ。アイは後衛で支援。——絶対に先に撃つな。交戦許可は俺が出すまでだ」


「了解」

「了解」


 黒瀬と槙村が同時に返事をする。

 それだけで空気がピリッと張る。

 いつでも動ける。でも、今は動かない。

 この緊張感が“本物”なんだって、皮膚でわかる。


 女は俺の前、五メートルの距離で立ち止まった。

 その距離感が、絶妙にいやらしい。

 敵意も圧もないのに、逃げ場がない。

 俺が一歩でも動けば、この静止した空間が崩れる。そんな気配。


「……“神側”って言ったよな」

 俺はゆっくりと口を開いた。

 声が少し震えた。喉が乾く。

 けど、目だけは逸らさなかった。


 女はうっすら笑ってうなずいた。


「ええ。あなたたちがそう呼ぶ“神”の側。正式には《神域管理階層》。でも“神”のほうが響きがいいでしょ?」


「響きの問題かよ……」


 黒瀬が小さくぼやいたが、黛が指一本で制止する。

 今この女を怒らせたら、本当に洒落にならない。


 女は視線を俺に戻し、穏やかに言った。


「自己紹介をしないとね。——私は《エリシア》。第七監理序列観測者。あなたを迎えに来たの」


「迎えに……?」


「そう。あなたは“神殺し候補”。つまり、神に到達できる可能性を持つ唯一の存在。だから、私たちはあなたを守りたい」


 “守る”って言葉が、まるで毒みたいに響いた。

 優しい言い方なのに、心臓の奥がざらつく。

 だって昨日、別のやつらも同じことを言った。「保護」って名目で、俺を連れていこうとした。


 アイが小さくつぶやいた。


「……また同じこと言ってる」


 エリシアはその声を聞いても、まったく動じなかった。

 むしろ、アイを見て微笑む。


「あなたが月城アイね。勇敢な子。神谷蓮の《編集》を最初に支えた」


 アイがぴくりと眉を動かす。

 「知ってるの……?」


「全部、見ていたもの。私たちはこの世界の“修正値”を常に観測しているから。神谷蓮がシステムを上書きした瞬間——世界の構造が、微かに鳴ったのよ」


 エリシアの瞳が、わずかに赤く光った。

 その光を見ただけで、寒気が走った。

 こいつは、ほんとに“人間”じゃない。


 黛が一歩、前に出た。


「用件を明確に言え。交渉か、宣戦布告か」


 エリシアは淡々と笑う。


「どちらでもないわ。——提案よ」


 その声は、氷の上を歩くように静かだった。


「神谷蓮。あなたは《ステータス編集》という“上書き権限”を持っている。けれど、その力は未完成。あなたが全てを開放したとき、世界のバランスは完全に崩壊する。……だから、あなたが敵に回る前に、味方にしたい」


「味方に?」


「ええ。あなたがこちら側に来れば、世界は安定する。あなたの仲間も、この学校も、安全を保証する」


 ——ああ。


 そういう来かたか。


 俺は小さく息を吐いた。


「それ、つまり……“こっちの世界を裏切れ”ってことだよな」


「裏切るなんて言葉、使わないで。世界を“修復”するのよ。壊れた構造を直すために、あなたの力が必要なの。人間たちは、“神域”に踏み込みすぎた。彼らのスキルシステムは、本来の設計から逸脱している。このままでは、いずれ——全ての時空が崩壊する」


 槙村が小声でつぶやいた。「……“設計”って言った?」


 エリシアの瞳がわずかに動く。「ええ。あなたたちの“世界”は、私たちが設計したもの。観測と管理のためのフィールド。それが“現代”という名の試験場」


 静寂。


 呼吸が、詰まった。

 まるで世界の裏側を一枚めくられたみたいな感覚。

 “神域”って言葉が、現実の線を踏み越えてくる。


「ふざけんなよ……俺たちの世界が、“試験場”だってのか?」


「怒るのも理解できるわ。でも、真実よ。あなたたちの成長も、痛みも、進化も、私たちはずっと観測してきた。——そして、あなたが“神殺し”になった時点で、システムの均衡が崩れた」


「だから俺を取り込むって?」


「違う。“守る”の。あなたが敵に回れば、世界そのものが死ぬ。だから、あなたを——」


 ——その時だった。


 パアンッ!!


 乾いた音がフロアに響いた。

 アイが、エリシアの頬を思いきり叩いていた。


 誰も動けなかった。

 黛ですら、一瞬目を見開いた。


 アイは震える声で言った。


「……ふざけんな」


 その目は、涙で光っていた。

 怒りでも悲しみでもなく——ただ、必死だった。


「“守る”って言葉を一番軽く使うの、あんたらだ。

 自分で壊して、自分で直すために、人を使い捨てる。それを守るなんて言うな」


 エリシアは頬に手を当てながら、少しだけ悲しそうに笑った。


「……あなた、人間らしいわね」


「当然だよ! あたしは人間だもん!」


 アイの声が震える。

 でも、その震えには、力があった。


「この世界が壊れるっていうなら、直すのは“私たち”だ。神なんかに委ねない」


 エリシアはその言葉を静かに聞いていた。

 少しの間だけ黙って、それから俺を見た。


「——あなたは、どう思うの?」


 その声は、本気だった。

 命令じゃない。尋ねてる。

 俺の“意思”を。


 俺は黙ったまま、拳を握る。

 昨日、怖くて逃げた。

 今日、仲間に守られて、ようやく立った。

 でも、今、選ばなきゃいけない。


 どっちの側に立つか。

 この瞬間の言葉が、たぶん世界を動かす。


「俺は——」


 喉が焼けるみたいに熱い。

 でも、迷わずに言った。


「俺は、“この世界”の人間だ。

 壊れてるなら、俺たちで直す。

 だから、お前たちの“守る”なんて、いらない」


 エリシアは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 そして、静かに微笑む。


「……残念。でも、そう言うと思ってた」


 女の足元の空間が、静かに歪む。

 風もないのに、床が波打つ。

 薄い光の幕が広がり、彼女の姿がゆっくりと消え始めた。


「神谷蓮。あなたは選んだ。

 ——なら、覚悟して。世界は、選んだ者に牙を向けるわ」


 最後に、かすかに聞こえた声。


「次に会うとき、敵として——ね」


 光がはじけ、空気が戻る。

 フロアに残ったのは、俺たちと、冷たい静寂だけ。


 黛が小さく息を吐く。「……接触完了。情報レベルA。記録確保」


 黒瀬が笑う。「なぁ、リーダー。これ、俺ら完全に戦争コースじゃね?」


「……ああ。世界そのものが敵になったな」


 アイが俺を見た。

 その瞳には、涙と笑いが混ざってた。


「……バカ。でも、かっこよかったよ」


「ありがとよ。バカに“かっこいい”って言われるの、複雑だけどな」


「うるさい」


 ふたりの会話に、ほんの少しだけ笑いが戻る。

 でも、その空気の裏で——黛の通信機が赤く点滅した。


 〈神域干渉反応:レベル5〉

 〈地点:桐生東 高等部 上層区〉


 黛が顔を上げる。


「……来るぞ」


 俺たちは、同時に息を吸った。


(第5話 終)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る