第2話

第2話 「特防課(とくぼうか)という教室」


 翌朝、俺はもう学生証を持っていた。


 いや、正確に言うと“こっちの世界”の桐生東高校・特防課 2-Bの生徒証だ。昨日まで存在しなかったはずの俺の名前「神谷 蓮」が、当たり前みたいに印刷されている。写真まである。寝癖もなく、やたらキリッとした顔の俺。いつの間に撮ったんだよこれ。修正まで入ってんじゃねぇのか。


 そして何より問題なのは、生徒証のIC部分に書かれた小さな赤い印字。


 【管理対象:神殺し候補(仮)/保護ランクS】


 保護ランクSってなんだよ。なんか聞こえはカッコいいけど、同時に「狙われるから常に監視するね♡」って意味しかない気がする。いやだわ。


 「緊張してる?」


 隣を歩いていた月城アイが、小声で聞いてくる。


 俺とアイは、今まさに校門をくぐろうとしていた。

 鉄の門柱。朝のチャイム。昇降口に向かう制服の生徒たち。見た目だけなら、どこにでもある普通の公立高校の朝。それなのに、じっと生徒を見張っている大人が数人いて、その腰には警棒みたいなものと、見覚えのある対神域用デバイスが下がっている。あと、校舎の壁面に「警戒度:レベル3」とか普通に表示されてるの何。防犯カメラの次元を越えてるだろ。


「いや、別に?」


 強がって返した俺の手は、汗でびっしょりだった。


 アイは少し笑って、「それ緊張してる人の手の色」と言いながら、自分の手の甲で俺の手をコツンと叩く。軽い接触。なんでもないようなその仕草が、やけに生きてる感じを連れてきた。


 こっちには、ちゃんと人がいる。

 笑うやつも、震えながら立ってるやつもいる。


 俺はそれを確認して、ようやく息がしやすくなった。


「いい? まず職員室で担任に挨拶して、それからクラスに顔出す。形式だけね。君の場合はちょっと特殊だから、あんまり目立ったことはさせないって大人は言ってたけど」


「言ってたけど?」


「——たぶんバッチリ目立つ」


「だよな!!」


「うん。だって“時空ズレ転送者”なんて、今年初だもん」


 時空ズレ転送(ディスプレイスメント)。

 アイが昨日使った言い方だ。


 元の世界の俺たちのクラスごと、この並行世界に引きずり込まれた。全員無事なのかは、まだはっきりしない。俺以外のやつらは保護下にあるとか、調整中とか、眠らされてるとか、そういうふんわりした言い方しか聞かせてもらえなかった。


 だから俺は正直、まだ安心できていない。


「……なぁ、アイ。昨日も聞いたけどさ、俺のクラスメイトってどうなってるんだ?」


 アイの足が半歩だけ止まった。

 一瞬だけ、彼女の瞳が揺れる。


 あ、この話はまだ地雷なんだ、とすぐにわかる。


「生きてる。ちゃんとシェルター区画に保護されてる。——少なくとも、私が今朝聞いた時点では」


「“少なくとも”って便利な言葉だよな」


「ごめん」


 アイは素直に頭を下げた。

 俺は慌てて手を振る。


「いや、謝らなくていい。わかってる。アイのせいじゃない」


「でも、あなたはたぶん誤解してる。あなたがここに引き出されたのは、たまたまじゃない」


「……どういう意味?」


「あなた、“管理局”に登録された。最優先の確保対象として」


「管理局って昨日も聞いたけど、何なんだ? 政府の人たち、でいいのか?」


「半分だけ正しい。あれは“この世界を守るための組織”を名乗ってる。でも実際は『神と人間の間のバランスを調整する』側。だから、神に歯向かいそうなものについては排除する。生け捕りして研究して、最終的に危険なら消す」


「研究して消すってわりとサラッとサイコワード出したけど!?」


「神谷くんは“危険”に振り分けられる可能性が高いってこと」


「なるほど俺の扱いひどいな!?」


「……だから、君を“生きたまま”この学校に押し込んだの。ここは、一応“民間側の管轄”だから」


 そこでようやく理解した。


 ここ、桐生東高校・特防課は、ただの学園じゃない。

 “管理局”側じゃなく、“市民側”の戦力育成機関。


 つまり、ギリギリのところでアイたちは俺を「こっち側」に引っ張ったわけだ。


 命がけで。


 そう思った瞬間、俺の喉が詰まった。何も言えないまま、二人で昇降口に入る。靴箱の列は普通。だけど、ロッカーの一部には「対神域用携帯装備は登録後、自己管理」とか貼り紙がしてある。部活の部室割りの隣に「特防課装備庫」。現実と非現実が同じ校内地図に並んでるの、本当に頭がおかしくなる。


「ねぇアイ」


「ん?」


「その、ありがとな」


「……なにが?」


「俺を“こっち”にしてくれたこと」


 アイは、少しだけ肩をすくめた。


「べつに。うちの課、ずっと人手不足だから」


「うわぁ雑なごまかし」


「本当だもん。去年なんて、対神域戦闘の年間死傷率が——」


「待ってやっぱ今その数字は聞きたくないやめて」


「うん、やめとく」


 二人でちょっとだけ笑った。

 たぶんお互い無理やりだ。でもそれでも、確かに笑えた。


 ◇


 特防課の教室は、普通科の教室と同じ棟の三階にあった。

 ただしドアの上に「2-B」って普通に書いてあるのに、その下に「特防課」と赤文字で印字された金属プレートがネジ止めされてるのは、なかなか物々しい。


「ここが、君のクラス」


「……俺ほんとにここ入るの?」


「入る。君の席も用意した。っていうか昨日の夜のうちに机が増えた」


「もう既に“いたことにする”編集入ってないそれ?」


「うん。記録上は転入生。時空ズレ由来はクラス内には非公開。“遠方から戻ってきた幼なじみ”って扱い」


「幼なじみって誰だよ」


「私」


「俺いつから君の幼なじみに」


「今から」


「即決かよ」


 いや待てそれけっこう俺には嬉し……いやいや落ち着け蓮。


 アイはコホンとわざとらしく咳払いして、ドアに手をかけた。


「いい? 基本ルールを伝える」

「頼む」


「一つ、ここのクラスメイトは全員“戦闘適性あり”。つまり君と同じか、それ以上にヤバい状況に何度か身を置いてる。だから普通科ノリで『ゲームみたいだなー』とか言わない」


「言ったら殴られる系?」


「たぶん刺される」


「物騒さの基準がおかしいこの学校」


「二つ、“神域寄生型”が紛れ込んでる可能性は常にある。つまり見た目が人間でも中身が神域側の監視だったりするから、初対面で迂闊に能力の詳細をしゃべらない」


「今なんて言った? 寄生?」


「“神側の人間”って昨日言ったでしょ。あれはただのたとえじゃなくて、文字通りそういう現象があるの」


 アイの顔がちょっとだけ強張った。


「三つ。これは一番大事」


「うん」


「“ステータス編集”は、誰にも言わない」


 空気が、一瞬だけ重くなる。


 俺は、無意識に息をのんでうなずいた。


「わかった。絶対言わない」


「いい子」


「子扱いはやめろ??」


「はい行くよ幼なじみ」


「幼なじみ押すな???」


 そんなやり取りをしていると、少し緊張がほどけた。ドアを開ける前にこれをやってくれたの、たぶんわざとだ。アイなりのケア。そういうところがずるい。助かるけど、ズルい。


 そしてドアがスライドして開いた。


 ——一瞬で、視線が突き刺さる。


 わかった。これは目立つ。ものすごく目立つ。


 教室は普通の教室とだいたい同じだが、ところどころに違和感がある。窓ガラスの一部には防護フィルムではなく、何か魔法陣じみた封印パターンが刻まれている。後ろの棚には教科書と、救急キットと、折りたたみ式の大型シールドが並んでいる。黒板の端には「次回の防災訓練:対人/対神域どっち?」って落書きがある。笑えねぇ。


 で、問題は人だ。


「あー、アイだ」「おはよー特防の姫ー」「死んでないー?」


「死んでません! あと姫じゃありません!」


 教室に入るやいなや、アイはあちこちから軽口を投げられる。けど、その軽口の奥には“よかった、本当に帰ってきた”って安堵がちゃんと混じっていた。彼女はこのクラスで、ちゃんと大事にされてるんだとわかる。


 そして次の瞬間、その視線が一斉に俺に集まる。


「で? そいつは?」


「新入り? 転入? スカウト?」


「管理局っぽくない服だな。民間側の拾い物か?」


 ……拾い物はひどくない?


 アイが一歩前に出て、腕を組む。声がほんの少しだけ強くなる。


「紹介する。今日からうちのクラスに入る、神谷 蓮。私の——」


 一瞬だけ、アイが俺を横目で見る。

 そして、言い切った。


「幼なじみ」


 教室の空気が、ピキッと固まった。


 あーーーこれ微妙に地雷踏んだやつ!?と思った瞬間、左側の窓際から手が上がった。


「はい質問! 月城さん、今さら幼なじみとか急に生やすのずるくなーい?」


「うるさい黒瀬。黙って」


 黒瀬と呼ばれたやつは、黒髪を無造作に束ねた長身の男子だった。制服の上着はだらしなく開いてて、ネクタイはゆるい。目は眠そう。だけど、その目の奥はものすごく鋭い。飄々としてるけど、視線の動かし方だけが獣みたいっていうか。危ないやつだろこれ。


 黒瀬は顎をクイッと上げ、俺を一瞥してニヤッとした。


「ま、よろしくな新人くん。黒瀬 迅(くろせ・じん)。二年。同じ特防課。役割は前衛アタッカー兼囮。趣味は生還」


「趣味が重いな」


「死ぬと怒られるんでね、大人に」


「わかる」


「わかるのかよ」


 ちょっとだけ教室に笑いが漏れる。


 次に声をかけてきたのは、真ん中列の女子だった。おさげ気味の髪にメガネ。机の上には通常の教科書と、見たことない灰色のマニュアルが積まれている。表紙には「応急再生プロトコル:市民版」とある。市民版ってなに。非市民版は何。


「私は槙村(まきむら) ユイ。支援と後衛。回復も一部カバーできる。あと記録係。あなたのことも記録するからよろしくね」


「記録って何を?」


「あなたが死にかけた回数とか」


「重いわ!!」


「安心して。ちゃんと生きてたら“生還おめでとうスタンプ”押してるから」


「どんな明るい地獄の運用ルールだよ特防課」


 教室の空気が、少し柔らかくなる。

 ……が、その中でひとりだけ、まったく笑っていないやつがいた。


 教室の一番後ろ、窓際。

 腕を組んで、座ったまま俺を観察している男子。


 目が冷たい。

 冷たいというより、温度がない。評価してる、測ってる、そういう目。


 そいつは口を開いた。


「で、お前のレベルはいくつだ」


 ザリッと、教室の空気が変わるのがわかった。


 ああ、これが“本題”なんだなって、すぐに理解した。


 ここの連中にとって、名前や出身よりも先に確認すべきもの。それは“戦力”だ。「一緒に戦場に立つ価値があるか」「足手まといか」「守るべき対象か」。多分それを決めるための質問。


 俺は一瞬、アイを見る。

 アイは小さく首を振らなかった。ただ、何も言わなかった。任せる、ってことだ。


 じゃあ、言うしかない。


「……レベル1だ」


 教室に、はっきりとしたざわめきが走った。


「1でここ連れてきたの?」「保護枠?」「いや保護枠でも1はさすがに——」


 冷たい目の男子は、そこで一度だけ小さく笑った。けどそれは、馬鹿にする笑いじゃない。逆に、妙に楽しそうな笑いだった。


「へぇ。面白いの入れてきたな、月城」


「うるさい黛(まゆずみ)。あとそんな言い方するならちゃんと自己紹介しなよ」


「はいはい」


 男子はようやく腰を上げ、立ち上がった。椅子の音がきしむ。細身。無駄がない。動きに無駄がないタイプって、正直怖い。


「黛 凌央(まゆずみ・りお)。このクラスの臨時リーダー。役割は制圧と指揮。ステータスは見せない。質問あったら後で聞け」


「いや最後情報くれよ」


「そのうち」


「そのうちって言葉便利すぎだろこの世界!」


 黛は一歩だけ近づくと、俺の肩を軽く叩いた。軽い、けど逃げ道を塞ぐみたいな位置取り。


「いいか神谷。ここは“生徒だから安全”な教室じゃない。『育成場所だからこそ実験される』場所だ。わかるか?」


 喉が、勝手に鳴った。


 わかってるよ。昨日の夜から、嫌になるほど。


 俺がもし「使える」と判断されれば、戦力として前線に並べられる。

 「使えない」と判断されたら……?


 管理局に引き渡される可能性がある。

 アイがそう言ってた。


 つまり、ここでの立ち回りは、イコールで“生存ルート選び”だ。


「わかる」


 俺がそう言うと、黛はほんの少しだけ満足そうにうなずいた。


「なら一つだけ教えといてやる。ここでは“自分の上限”を隠すやつも危険だが、“自分の下限”をごまかすやつはもっと危険視される」


「下限……?」


「見栄張って『大丈夫』って言って死なれると、横にいるやつも死ぬからな。お前が本当にレベル1なら、それを堂々と名乗ったのは逆に正解だ。少なくとも俺はそう思う」


 ……一応、安心された。のか? これは。


 でも、黛はそのまま声を落として、俺の耳元で囁いた。


「で、ほんとはどれだけできる?」


 心臓が跳ねた。


 コイツ、気づいた。


 昨日の戦闘。神域体の腕に触れて“編集”をかけたときの感覚。アレは「レベル1じゃ絶対にできない動き」だって、俺でもわかる。少なくとも、初日の凡人がやる動きじゃない。


 だから——。


 俺は、軽く笑ってごまかすしかなかった。


「今んとこ、本気でレベル1です」


「……そうか」


 黛はそれ以上は追及してこなかった。ただ、その目だけは俺から外さないまま席に戻った。たぶん、完全には信じてない。けど、いまはそれでいい、という判断。


 いやほんと、こいつ指揮官の目してるな。


 ◇


 ホームルームは、担任の「命を大事に。あと英語の小テスト返すぞー」という、命と英語が同列に扱われるカオスな宣言から始まり、あっさり終わった。


 そのあとすぐ、アイが俺の袖を引く。


「行こ」


「どこに?」


「特防課の訓練フロア。今日から神谷くんも登録するから」


「いやちょっと待って俺まだ朝一で出席取っただけなんだけど!?」


「大丈夫大丈夫、うちスピード感が命だから」


 うさんくさい営業トークかよ。


 廊下に出ると、少し後ろから足音が追ってきた。振り返ると、槙村ユイがタブレットを抱えてついてきている。


「見学兼ログ取り。先生に言われた」


「先生の判断早いな!?」


「うちの担任、“死者ゼロで卒業出したい”って個人目標持ってるから」


「え、すごいじゃん」


「まだ誰も叶えたことないらしいけど」


「重いわ!!!」


 そんな会話をしていると、廊下の空気がふっと変わった。


 ——冷たい。


 さっきまで普通の校舎の匂いだったのに、今この先だけ、空気が冷蔵庫みたいに冷えてる。生き物の匂いがしない。音もない。静かすぎる。


 俺は無意識に足を止めた。


 アイも同時に止まり、眉を寄せる。


「……来た。早い。警戒レベル、2段階引き上げ」


「なにが来たの?」


 その瞬間、非常扉の影から、人影がふらりと現れた。


 一見すると、ただの男子生徒に見える。学ラン。ネクタイなし。髪は長めで顔にかかっている。血色はやけに白い。ただ、歩き方がおかしい。膝からじゃなくて、足首から先だけが無理やり引っ張られるみたいに動いてる。関節の順番が逆だ。


 そして——その目。


 黒目の中心が、ガラスみたいに割れていた。

 その割れ目の奥から、薄い金色が覗いている。


 槙村が、息をのんだ。


「やばい。寄生型だ。学校の中にもう……!」


 寄生型。

 昨日アイが言っていた、“神側の人間”。


 アイは即座に前に出た。俺と槙村をかばうように、腕を広げる。


「——特防課所属、月城アイ。ここは生徒区域。神域干渉は規定違反。即時退去して」


 男の口が、ゆっくりと開いた。

 笑っているのかと思ったら、違った。口角が、ちぎれたみたいに裂けていく。


「……確保対象、発見」


 それは、昨日のあの機械音に酷似していた。

 本人の声じゃない。喉をスピーカーにされてる。


「神殺し権限、神谷 蓮。移送プロトコル、即時実行」


 俺の名前。


 ——狙いは最初から、俺。


 アイが歯を食いしばる。


「神谷くん、後ろ下がって! 槙村、拘束フィールドの準備!」


「了解、展開まで6秒!」


「6秒ももたない!」


「無茶言うなよアイ!?」


 俺の脳内にステータスウィンドウが浮かぶ。


 ────────────────

 【クエスト:校内緊急対応】

 対象:寄生型(人間ベース)

 制約:致死攻撃は原則禁止

 報酬:SP+3

 ────────────────


 いやいやいやいやいや待て。

 “致死攻撃は原則禁止”って、こっちは殺しに来てるのにこっちは殺しちゃダメとかハンデおかしくない!? 世界、俺にだけ高難易度モード押しつけてない!?


 でも、わかってる。これはただの縛りじゃない。“神側に乗っ取られてるだけ”の可能性がある以上、中の人間を殺しちゃったらもう取り返しがつかない。だから止めろ。救え。そういうことだ。


 つまり——ちゃんとやんなきゃいけない。


 俺は一歩踏み出した。


「神谷くん!? 下がれって言ったでしょ!」


「アイ、昨日のやつ。まだ使えるかわかんないけど、試す」


「まさか“編集”——っ、バカ! あれは昨日たまたま——!」


「たまたまでも、やるしかねぇだろ!!」


 走る。

 足が軽い。昨日よりさらに、違和感のないスピードが出る。AGI7の感覚が、もう少し自分の体に馴染んできてる。


 相手は俺に気づいて、指先を伸ばしてくる。爪が黒く長く変形してて、金属みたいに光る。あれ当たったらただじゃ済まないって本能が叫んでる。避ける。腰をひねる。通り抜けざま、相手の手首に右手を押し当てる。


「——《編集》ッ!!」


 白いカードが、目の前に瞬間展開した。


 ────────────────

 対象部位:人間組織+神域寄生構造

 現在タグ:制御権=外部/宿主意識=抑圧

 変更可能タグ:[制御権:宿主側に一時移譲]

 ※副作用:宿主ショック

 ────────────────


 ……これ、いけるのか?


 いや、いけ。今考えてる時間はない。


「返してもらうぞ——!」


 俺は「[制御権:宿主側に一時移譲]」を叩いた。


 ドン、と見えない衝撃波が走ったような感覚があった。寄生型の男の体がビクンと大きく跳ねる。目の中の金色が一瞬だけバチッと明滅したかと思うと、まるで海に沈められていた誰かが一気に水面に引き上げられたみたいに、男の喉から濁った息が吐き出された。


「っあ、ああ、あああああっ、っが……っ、やだ、やだやだやだやだやだやだやだ……!」


 それは機械音でも怪物の声でもなく、ただの人間の悲鳴だった。


 俺の背筋を冷たいものが走る。


 こいつ、生きてる。まだ中にいたんだ。

 奪われかけてただけなんだ。


 俺は歯を食いしばってアイに叫んだ。


「今!! 動き止まってる!」


「——了解!」


 アイは跳んだ。体勢が低くて、無駄がない。真横に滑り込むみたいに相手の死角に入り、対神域用デバイスを肩口に押し当てる。


「特防課・拘束プロトコル:起動!」


 ビリッ!という音とともに、青白い拘束フィールドが展開された。電撃ではなく、圧縮された空気と光が絡みつく感じ。男の体がぐぐっと床に押しつけられる。それでも暴れるけど、さっきみたいな無機質な動きじゃない。ぜぇぜぇと必死に呼吸している、生きた人間の暴れ方。


 槙村がすぐに駆け寄り、タブレットを操作する。


「意識レベルB。寄生率62%。まだ戻せる。管理局呼びたくないけど医療班は必要。アイ、搬送どうする!?」


「裏ルートでいく。管理局に渡したら“検体扱い”される」


「了解。じゃあ私が先回りして隔離室開けて——」


 そこまで言って槙村は、ふっと俺のほうを見た。


 タブレットの画面越しじゃなく、ちゃんと俺を見て。

 その目には、さっきまでと違う色があった。


 驚きと、安心と、それから——少しの敬意。


「神谷くん」


「な、なに」


「今の、ありがと。マジで助かった」


 真正面からそんなことを言われた経験、俺の高校生活ではほぼない。

 脳が一瞬フリーズした。


「い、いや俺はただ、手当たり次第で、なんか、押しただけで……」


「それでも結果は結果。命ひとつ分。ね?」


 ぐさぁ、と心に刺さる。刺さるけど、悪い刺さりじゃない。なんだこれ。誇らしいってこういう感覚なんだろうか。正直ちょっと泣きそうなんだけど。だめだろ高校2年男子が初日で泣くの。


 アイも肩で息をしながら、俺に笑いかけた。


「やっぱり連れてきて正解だった。……ありがとう、蓮」


 蓮。


 なんの前触れもなく、アイは俺の名前を呼び捨てにした。今まで「神谷くん」だったのに。


 心臓がドクンと跳ねた。

 やめろその破壊力は反則だ。


「べ、別に俺は、その、当然のことをだな、して、いて、えっと」


「うん、わかった。かわいい」


「かわいくないからな!? 男だぞ俺!?」


 アイと槙村が小さく笑う。

 笑い合える空気が、ちゃんとまだあることに、俺は本気でホッとした。


 ……と、そこでウィンドウが開いた。


 ────────────────

 【クエスト達成】

 報酬:SP+3

 現在SP:10


 副次効果:自己編集・開放率 10%→15%

 新規アラート:管理局監視レベル上昇(区域内での不正介入が検知されました)

 ────────────────


 背筋が冷える。


 「管理局監視レベル上昇」。


 つまり、今の“寄生から宿主に制御を戻す”って行為、普通は許されてないんだ。下手すれば「神の権限に干渉した」とみなされる。俺がやったことが、この世界のルールそのものを書き換える行為だから。


 アイも同じウィンドウを見ているのか、顔をしかめた。


「……やっぱり。管理局、もう気づいた」


「マジで?」


「この学校、しばらくでかいのが来る。表向きは“安全確認”って名目で。でも本命は、蓮の確保」


 喉が、かすかに鳴る。

 逃げなきゃ、って直感的に思った。でも同時に、それはもう無理だってこともわかってる。こっからひとりで逃げたって、今よりもっと雑に捕まるだけだ。


「じゃあ、どうするんだよ」


 俺が問うと、アイはきっぱりと言った。


「決まってるでしょ。——特防課で守る」


 その言い方に、躊躇はなかった。

 重さもあった。冗談じゃないやつだ。


 それだけじゃない。アイは続ける。


「神谷 蓮は、桐生東特防課2-B所属。うちのクラスメイトで、私の幼なじみ。そういうことにする」


「いやそこまで幼なじみ推すの!? あと幼なじみ設定ってそんな強いカードなの!?」


「強いよ。めちゃくちゃ強い。私個人の“保護案件”として押し通せるから」


 ……。


 ……。


「それもうほぼ、彼氏彼女の『私のだから触るな』宣言じゃない?」


 ぽろっと本音が口から落ちた瞬間、アイの顔がカッと赤くなった。


「ち、ちちちちちがうし!? べ、別にそういう意味じゃないし!? ただ管理局うるさいから、対外的にわかりやすい鎖つけとく必要があるっていうか!? あの!!! 誤解しないで!?!?」


「いやそんなに慌てられると逆に刺さるんだけど俺の心に!?」


「違うの!! これは戦略!! 超実務的なやつ!!」


「はいはい青春だ青春だ」と槙村がメモりながら言う。「このくだりもログに残しておくから、将来的な証言にも使えるし。あと卒業アルバムの裏に載せよ」


「やめろ槙村あああああ!!」


 廊下に、ばかみたいに元気な声が響く。


 でもその少し奥では、さっき拘束した寄生型の生徒がまだ震えている。

 俺たちの立っているこの場所は、ほんの一歩バランスを崩せば血の匂いに染まる現実の、真ん中だ。


 それでも、笑うことをやめないやつらがいる。


 そして今、俺はそこに正式に入った。


 神谷 蓮。レベル1——いや、現状は1だけど、SPは10。

 固有権限ステータス編集、自己編集開放率15%。


 管理局にマークされて、神にもマークされて、

 それでも教室に席がある。


 居場所って、こういう形でも成立するんだな、って正直ちょっと驚いてる。


「蓮」


 アイが、もう一度だけ俺の名前を呼ぶ。今度は迷いのない目で。


「あなたは、このクラスの一員。——だから、ひとりで死のうとしたら殺すからね」


「脅迫の仕方どうなってんだよお前……」


 でも、わかったよ。


 俺は、ゆっくりとうなずいた。


「了解。“死なない”を最優先に動く」


「うん。それでいい」


 その瞬間、学校中に冷たい警報音が鳴り響いた。


 ——ウウウウウウウウウウウ。


 赤い非常灯が天井で回転する。廊下の照明が戦闘モードの低い光に落ちる。頭上のスピーカーから、無機質なアナウンスが流れた。


『警告。管理局・監査班が本校に接近中。特防課生徒は配置につけ。繰り返す——』


 アイは息を呑んで言った。


「来た。早すぎる」


 俺は、ごくりとつばを飲み込んだ。


 初日からもう“こっち側とあっち側の正面衝突”かよ。

 チュートリアル短ぇなこの世界。


 でも、もう逃げない。


 ——だって俺は、ここで生きるって決めたから。


(第2話 終)

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