第42話 “前の席”からのホワイトデー

朝、昇降口のガラスがいつもより少しだけ白っぽく曇っていた。三月十四日、ホワイトデー当日。外の空気はまだ冬寄りなのに、校舎の中だけ妙にそわそわしている感じがする。


靴箱を開ける前に、一応覚悟を決める。中身が増えてても減ってても、今日はもう「返す側」だ。文句を言える立場じゃない。


そっと扉を開ける。


今日は何も落ちてこなかった。奥のほうに、メモ付きの小さな袋が一つ挟まっているだけだ。


『バレンタインの件、お返し不要です

 でも勝手に「真ん中係さんの働き」は応援してます

 1年どこかの誰かより』


誰だよ、と思いながら、苦笑いしてポケットに突っ込む。こういう“真ん中匿名枠”みたいなのは、もういちいち数えないことにした。


今日は、数えるべきものが別にある。


 


教室に入ると、いつもより早く来ているやつが多かった。机の上に紙袋を置いたまま、友達と中身を覗きこんでいる女子。わざと何もないふりをして、スマホだけいじっている男子。


席につくと、前からすぐに声が飛んできた。


「おはよう、蓮」


安達が振り返る。今日の前髪は、いつもよりきっちり整っていた。小さいピンで留めてあるところまで、妙にきれいだ。


「おはよう」


右からも、ひょいと顔が出てくる。


「おはよう真ん中

 今日は“真ん中返しの日”ってことでいいんだよね」


「その呼び名やめろって先週から言ってるよな」


「だって、そうでしょ」


美咲は、いつものポニーテールをゆらしながら笑う。


「“真ん中に乗せた分だけ、ちゃんと返ってくるのか”確認する日」


「確認される側の気持ちも考えろ」


そう言いながら、カバンから小さな紙袋を二つ取り出す。花柄と星柄。中身は、昨日買ったクッキーの缶と、それぞれの手紙。


まずは、前の席のほう。花柄のほうを指先でつかむ。


「……あのさ」


「うん」


安達の肩が、ほんの少しだけ固くなったのが分かった。こっちを向く動きが、いつもよりゆっくりだ。


「先に渡しといていいか」


「先に?」


「今日、多分いろいろ騒がしくなるから」


昨日、安達がバレンタインで言っていたのと、ほとんど同じセリフを口にしている自覚があった。


「“いつものお礼”的なやつだし」


安達は、一瞬だけ目を丸くしてから笑った。


「そうだね

 “いつものお礼”は、早めに済ませておいたほうがいいかも」


花柄の紙袋を、前の席の端にそっと置く。安達は、両手でそれを受け取った。持ち上げるときの仕草が、予想より慎重で、こっちまで変な緊張がうつる。


「開けていい」


「いや、その……あとででも」


「そう?」


「ここで見られるの、ちょっと」


言いながら、自分で言っていて恥ずかしくなってくる。安達が、ふっと小さく笑った。


「じゃあ、あとでゆっくり開けるね

 “真ん中の前線”が落ち着いたころに」


「前線ってなんだよ」


口ではそう言いつつ、少しだけほっとする。花柄の袋は、そのまま安達のカバンの中へ消えていった。


 


ホームルームが始まる直前。田所先生が教室に入ってきて、教卓の上に透明な袋を置いた。中には個包装されたクッキーがぎっしり詰まっている。


「はい、なんかね、“1-B一同へ”って形でクッキーを預かりましたので、ホームルーム終わったら後ろのほうで配ってください。代表者は……」


「はい、真ん中でーす」


春川が、勝手に俺の名前を出した。


「なんでそこで俺を指名する」


「“1-Bの真ん中経由で全員に行き渡るように”ってメモ付いてたんで」


「誰だよそれ書いたやつ」


先生が、苦笑いしながら袋を持ち上げる。


「まあ、たぶん善意なんだろう

 じゃ、佐藤、ホームルーム終わったら後ろで配ってくれ」


「はい」


クラスの視線が、一瞬だけ集中してきた。甘い匂いと一緒に、変な期待と面白がりが混ざっている感じがする。


結局、ホワイトデーの午前中は、その「クッキー配布係」として過ぎていった。


 


本番は、放課後だった。


帰りのホームルームが終わって、人が少しずつ教室から出ていく。今日に限って、女子がいつもより長く残っている気がする。廊下からも、甘い匂いと笑い声が聞こえる。


「じゃあ、私先に帰るね」


安達が、教科書をカバンに入れながら言った。いつものテンポで動いているように見えて、指先の動きがほんの少しだけ慎重だ。


「今日の帰りは、“外”のほうに譲る日ってことで」


「譲るとか言うな」


「三角形の分担、大事だから」


そう言って安達は、花柄の紙袋の持ち手を軽く持ち上げてみせた。


「……ありがとう」


「ううん、こっちこそ」


そこで一度、言葉が切れる。安達が何か言いかけて、少しだけ迷うように視線を落とした。


「ねえ」


「ん」


「ひとつだけ、今のうちに聞いてもいい」


「何を」


安達は、前の席で振り返ったまま、少しだけ真面目な顔になる。


「“これからも前線で頼りにさせてください”って、どういう意味で書いた」


胸の奥がヒヤッとした。缶の中身、もう読んだのか、と一瞬焦る。


「……もしかして、もう開けた?」


「開けてないよ」


「え」


「でも、蓮の書きそうなこと、大体想像つくから」


驚いていると、安達は肩をすくめた。


「“前線”って言い方、蓮っぽいし

 “頼りにさせてください”ってフレーズも、すごく蓮っぽい」


完全に読まれている。ノートを勝手に見られたみたいな、妙な居心地の悪さと嬉しさが混ざる。


「それでさ

 どういう前線にいるイメージで、あの缶をくれたのか、知りたくなった」


安達の声は、静かだけど、まっすぐだった。


「勉強の前線

 クラスの前線

 それとも、三角形の前線」


「三角形に前線あるのかよ」


「あるよ、たぶん」


即答だった。


「ほのかは、どこにいるって思ってる」


そう聞かれて、少しだけ言葉を探す時間が必要だった。安達の目が、真剣すぎてごまかせない。


「……全部

 どれも、前のほうにいるなって思ってる」


「全部」


「勉強の前線は、前の席でノート取ってるお前だし

 クラスの前線は、カードに“真ん中が一人で抱えすぎないように”って先に書いたお前だし

 三角形の前線は、文化祭とか体育祭のときに、真っ先に俺のほう見てくるお前だし」


言いながら、自分でも何を言っているんだろうと思う。でも、一度口に出してしまったら、戻れなかった。


「だから、あの缶は

 どこか一個じゃなくて、ぜんぶまとめて“前線にいるほのかへ”って感じ」


安達は、しばらく黙ってこっちを見ていた。目をそらしたくなるくらい、真っ直ぐに。


「……ずるいね、それ」


「ずるい?」


「全部って言われたら、“じゃあどこで距離置けばいいんだろう”って迷うじゃん」


そう言いながら、口元だけ少し笑う。


「でも、嬉しいほうのずるさだった」


「それは、よかった」


安達は、ゆっくりと立ち上がった。花柄の紙袋の持ち手を、ぎゅっと握る。


「蓮が“前線で頼りにする”って言うなら

 私は、“真ん中が倒れそうになったときは、前から引っ張る役”でいる」


「前から?」


「後ろから支える人もいるだろうし、横から支える人もいるでしょ

 私は、前から引っ張る人でいたい」


「……頼もしいな」


「頼ってね、ちゃんと」


それだけで、安達はカバンを肩にかけた。


「じゃあ、先に行くね

 外のほう、がんばって」


「がんばるって言うな」


「“真ん中返し・後半戦”でしょ」


振り返らずに、手だけひらひら振って教室を出て行く。前の席の椅子が空いたあと、そこに残った温度だけが、妙にリアルだった。


 


家に帰ってから、ノートを開く前に、一通のメッセージが届いた。


 【adachi】

 『さっきはありがとう

  帰り道で、ちょっとだけ開けた』


すぐに、続きのメッセージ。


 『“前線にいるほのかへ”って

  勝手に書き足していい?』


花柄の缶の中身を、まだ直接見ていないのに、もうその一部が書き換えられそうになっている。


少しだけ迷ってから、こう返す。


 『書き足していい

  ていうか、多分最初からそういうつもりだった』


少し間をおいて、返事が来た。


 『じゃあ、しばらく前線にいるね

  高2になっても、そのつもりで』


そのメッセージを読みながら、机の上に置いてあったノートを開く。真ん中LVのページの端っこに、小さく書き足した。


 ・ホワイトデー前半戦

  “前線”の意味を説明した

  前の席が、ちゃんと前線に居続けてくれると言ってくれた


数字は、まだ動かさない。今日は、まだ半分しか終わっていないからだ。


星柄の缶は、机の右側。

今日の“後半戦”は、そっちのほうがメインになる。


そう思うと、少しだけ心臓がうるさくなった。

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