第39話 バレンタインで“真ん中チョコ”を偏らせるな
二月に入って、校門のところの掲示板に「私立入試のため自習」の紙が増えてきたころ、昇降口の空気もなんとなくそわそわしてきた。
バレンタインが近い、らしい。
とはいえ一年男子としては、そこまで期待するほどのイベントでもない。
そう思いながら、いつものように靴箱を開けた。
中から、チョコの箱が二つ落ちてきた。
「……」
一瞬、時間が止まる。
足元で、カランと小さな音がした。
一個目の箱には、シールが貼ってある。
『1-Bのみんなで食べてください、真ん中係さん経由で』
二個目の袋には、ちょっとだけ見覚えのある丸い字。
『真ん中係さんへ、“いつもバランス取りありがとう”』
「誰だよこれ考えたやつ」
思わず声が漏れた。
隣の列でちょうど靴を履き替えていた男子がちらっと見る。
「お、朝からチョコ落ちてきた真ん中係じゃん」
「うるさい」
二つとも制服のポケットに突っ込んで、急いで階段を上がる。
胸ポケットの中で、変な重さだけが主張していた。
教室のドアを開けると、いつも以上に女子の声が高めだった。包み紙がいくつか机の上に並び、リボンの付いた袋がちらほら見える。
「おはよ、真ん中」
右から、美咲の声。
いつもと同じポニーテールだけど、今日はシュシュがハート柄になっていた。細かいところだけ全力でバレンタイン仕様だ。
「おはよ」
「なんか、昇降口で落ちてきてなかった?」
「見てたのかよ」
「見てた。靴箱開けた瞬間、ポロッて」
美咲は、やけに楽しそうだ。
「で、どこからの“真ん中チョコ”?」
「知らない。送り主書いてない」
「やっぱ“真ん中係さんへ”とか書いてあった?」
図星だった。
前の席の安達が、ゆっくりと振り返る。
「もう“真ん中係”が敬称になってるよね」
「やめてほしいんだけど」
「でも、靴箱に落ちてきたんでしょ」
安達は、ペンをくるくる回しながら言う。
「“真ん中”って、たぶん靴箱の位置のことじゃないから」
「知ってるよ」
クラスの男子が何人か、ニヤニヤしながら寄ってきた。
「で、俺らには回ってくるの?」
「『1-Bのみんなで食べてください』って書いてあったのは、ホームルームで出す」
「さすが真ん中係」
「係じゃないからな」
そう言いながら、ポケットを押さえる。もう一つの袋の存在だけは、まだ誰にもバレていない。
一限目と二限目のあいだの休み時間。
バレンタイン当日ではなく、その前日。つまり今日は、予告編みたいな日だ。
そんな日に限って、田所先生がこう言い出した。
「明日、学校からの公式アナウンスとしては“持って来るな”と言わなきゃいけないんだけどな」
ホームルームの最初で、先生はわざとらしくため息をついた。
「現実問題としては、毎年なぜか職員室にも甘い匂いがしてくるんだよ」
教室に笑いが起きる。
「完全禁止は無理だと思うから、一応言っておく。ホームルーム中に机の上に山盛りになってるやつは没収する。廊下でやり取りしてるやつは、見なかったことにする」
「ゆるい」
誰かが小声で言う。
「それと。教室の真ん中で“公開渡し会”を始めるのはやめろ。やるならこっそり、迷惑をかけない範囲で」
先生の視線が、一瞬だけ俺のほうをかすめた。
「“真ん中比較会”は、ブログだけで満足してくれ」
「先生、それ完全にうちの話ですよね」
春川が笑いながら手を挙げる。
「名前出してないからセーフだ」
先生は、適当なことを言ってプリント配りに戻った。
昼休み。
購買から戻ってきたところで、前の席からちょん、という小さな声がした。
「蓮」
安達が、自分の机の端を指さす。
ハート柄の小さなシールだけ貼られた、シンプルな四角い箱が一つ、ちょこんと置いてあった。
「これ、先に渡しておくね」
「……先に?」
「明日は、いろいろ騒がしくなりそうだから」
安達は、わずかに視線を落としながら続ける。
「勉強会とか、ノート見せてもらったりとか、そういう“いつものお礼”的なやつ。だから、中身もそんなに重くないやつ」
「軽いとか重いとか、チョコに概念追加しないでくれ」
「“真ん中に負荷をかけすぎないバレンタイン”を目指してみた」
「そのスローガンやめろ」
ふたを開けると、小さめの板チョコが一枚入っていた。どこかの店で売ってるやつだろうけど、包み紙には手書きで一言メモが貼られている。
『数学のノートと、いろいろの調整、今年もありがとう。来年度もよろしく』
「年度をまたぐ前提なんだな」
「うん。二年になっても、どうせ真ん中にいるでしょ」
安達は、少しだけ笑った。
「私は、前とか隣とか、どっかの席の近くで」
「座席表決まる前から告知するな」
気づけば、箱を制服の内ポケットに入れていた。
さっきの“真ん中係さんへ”の袋とは別の場所に。
午後の授業が終わって、帰りのホームルームが始まる前。
右から、やけに真剣な声がした。
「ねえ真ん中」
「なんだよ」
「明日の話、していい?」
嫌な予感しかしない。
「バレンタインの?」
「うん」
美咲は、いつもみたいにふざけた顔じゃなくて、ちゃんとこっちを見ていた。
「私も、渡したいやつがあってさ」
「そうだろうな」
「で、明日、教室で派手にやると、先生にも迷惑かかるし、真ん中にも変なプレッシャーかかるじゃん」
「分かってるならやるなよ」
「だから、外でやろっかと思って」
「外」
「昇降口の横のベンチとか。帰り」
さらっと言われた単語が、思ったより重かった。
「“真ん中の人にバレンタイン渡してる現場”、あんまりギャラリー付けたくないから」
「……」
「“佐藤(仮)”じゃなくて、“美咲”として渡したいやつだからさ」
その言い方が反則だった。
「分かった」
気づいたら、口が先に動いていた。
「じゃあ、明日の放課後」
「うん。いつもの帰りの時間でいい」
そう言って、美咲はわざとらしく声のトーンを戻した。
「はいこれ、“バレンタイン前日アンケート”」
「なんだよそれ」
「好きなチョコのタイプ」
プリントの裏紙に、雑に四択が書いてある。
A:甘いだけのやつ
B:ちょっとビター
C:ナッツとかクランチ入り
D:とりあえず量
「雑だな」
「真ん中はどれ」
少し迷ってから、ボールペンで丸を付ける。
「C」
「はい、調査完了」
「ほんとに反映されるのか、それ」
「多分ね」
美咲は、その紙を丁寧に四つ折りにして自分の筆箱にしまった。
そして当日。
二月十四日の朝。
昨日よりも空気が冷たい。吐いた息の白さだけは、やたらとはっきり見えた。
昇降口の靴箱を開ける前に、一度深呼吸をする。
今日は、落ちてこなかった。
代わりに、誰かがこっそり差したらしい小さな封筒が一枚、奥のほうに挟まっていた。
『真ん中係殿、義理です。たぶん』
送り主の名前はない。けれど、角のところにちょっとだけハートが描いてある。
これはこれで、あとでこっそり開けることにする。
教室に入ると、予想通り少しだけ甘い匂いがした。机の上にチョコを並べているやつはさすがにいないけど、紙袋の膨らみ方がいつもと違う。
席に座ると、前から紙袋が一つ回ってきた。
「はい、これ“1-Bで食べてください”のやつ」
安達が持ってきたのは、昨日靴箱から落ちてきたやつだった。
「ホームルーム終わったら、後ろのほうで開けようね」
「了解」
右からは、美咲がじっとこっちを見ていた。
「真ん中、今日はちゃんと帰り残ってね」
「分かってるよ」
「途中で逃げたら、真ん中LV強制的に下げるから」
「そんな権限どこで取ってきたんだよ」
いつもの調子の会話に、変な緊張だけが混ざっていた。
一日、妙に長く感じた。
授業中、先生の声が左耳から入ってきて、右耳から出ていく。ノートは取っているのに、中身が頭に入っていない。
昼休み、男子のグループチャットにこんなメッセージが飛んだ。
【春川】
『真ん中チョコ、現在何個』
【俺】
『数えるな』
【誰か】
『ブログの続編は“真ん中から見えるチョコ”で決まりだな』
【俺】
『やめろ』
そんなふざけたやり取りをしながら、ポケットの数を増やしていく。
クラスからの「みんなで食べてね」系が二つ、普通に友達として渡されたやつが三つ。
安達の箱は、授業中に一度も触らないように、ジャケットの一番奥にしまってある。
そして、放課後。
「じゃ、俺ちょっと残ってくから」
男子グループにそう言うと、すぐにニヤニヤした視線が返ってきた。
「昇降口、覗きに行っていい?」
「来たら殴るからな」
「“真ん中のバレンタイン現場”は押さえときたいんだけど」
「カメラ持ってきたレイ先輩呼ぶぞ」
「それはやめろ」
雑な脅し文句で、なんとか全員を自習室のほうに流し込む。
教室に残ったのは、俺と、美咲と、安達と、数人の女子だけになった。
「じゃ、私も先に帰ってるね」
安達が、教科書をカバンに入れながら言う。
「今日の帰りは、譲る日ってことで」
「譲るとか言うな」
「明日以降、またいつもの三角形に戻るから」
安達は、それだけ言って笑った。
「お疲れさま、“真ん中LV”上げイベント」
「やめろ、その名前」
そうして前の席の幼なじみは、いつもより少しだけ軽い足取りで教室を出ていった。
昇降口横のベンチは、まだ冷たかった。
夕方の光が、ガラス越しに床のあたりをオレンジ色にしている。
「おまたせ」
美咲が、手袋を外しながらやってきた。制服のポケットから、小さな箱を取り出す。
見慣れた文房具店のラッピング紙。でも、リボンだけは、昨日アンケートで丸を付けた“C”みたいに、ザクザクした模様になっていた。
「はい、“真ん中用”」
「用ってつけるな」
受け取ると、箱は思っていたより軽かった。
ふたの隙間から、ナッツっぽい影が見える。
「ちゃんと“ナッツとかクランチ入り”にしたよ」
「アンケートがここで生きてくるのか」
「一応、調査は活かすタイプなんで」
美咲は、少しだけ息を吸ってから続けた。
「中身は、普通に買ったやつ。手作りは、まだ勇気がないから」
「十分だろ」
「その代わり」
美咲は、箱の側面を指でトントンと叩く。
「ここだけ、ちょっとだけ勝手していい?」
そこには、小さなシールが一枚貼ってあった。
『佐藤 蓮 宛(送り主:佐藤 美咲)』
「……」
「“苗字が先に合ってるバレンタイン”、一回やっときたかったんだよね」
顔が、勝手に熱くなる。
「“佐藤(仮)”とかじゃなくてさ」
美咲は、目線を少し下に落として言う。
「ちゃんと、佐藤同士として」
しばらく言葉が出なかった。
代わりに、箱をもう片方の手で支え直す。
「重くない?」
美咲が、冗談みたいに聞く。
「真ん中に乗せすぎたら、さすがに折れちゃうから」
「……折れないように、持つよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そっか」
美咲は、いつもの“勝った”顔じゃなくて、少しだけ力の抜けた笑い方をした。
「じゃ、このへんで解散しよっか」
「え、もう終わり?」
「長居すると、どっかの広報先輩に撮られそうだから」
それは本気でありえるから怖い。
「あと、ほのかにも一応、“ちゃんと渡したよ報告”しなきゃいけないし」
「報告義務があるのかよ」
「“三角形の会議”があるから」
そう言って、美咲はいつもの調子に戻った。
「じゃ、また明日。真ん中」
「……蓮で呼べよ」
自分で言ってから、ちょっとだけ後悔する。
美咲の目が、一瞬だけ大きくなった。
「じゃ、また明日ね、蓮」
名前で呼ばれた音が、余計に冷たい空気に響いた。
家に帰ってから、机の上にチョコの箱を並べる。
クラスみんな用の大袋
友達からの義理チョコ
安達からの板チョコ
美咲からの“佐藤同士チョコ”
どれも同じ「チョコ」なのに、重さがぜんぶ違って見えた。
ノートの“真ん中LV”ページを開く。
今日一日で増えたことを、端のほうにメモしていく。
・靴箱に“真ん中係殿”封筒
・クラス用&友達用いろいろ
・安達:勉強会といつものお礼チョコ
・美咲:“佐藤同士チョコ”名指し
下に、小さく書き足す。
真ん中LV.2.0 → 2.3(バレンタイン偏り補正込み)
上げすぎかもしれないけど、今日くらいは許してもいい気がした。
スマホを開くと、グループラインに春川からメッセージが入っていた。
【春川】
『で、真ん中チョコ何個』
【俺】
『数えるなって言ったよな』
個人チャットにも通知が一つ。
【adachi】
『お疲れさま
ちゃんと“折れないように持てた”?』
少しだけ笑ってしまう。
『とりあえず今のところ
折れてない』
送ると、すぐにスタンプが返ってきた。
【misaki_s】
『“苗字先に合わせバレンタイン”
無事完了』
『勝手にイベント名付けるな』
『来年度のバレンタインは
“真ん中じゃなくて蓮に渡す回”にしたいね』
さっき昇降口で聞いた名前が、もう一度画面の中で呼ばれる。
ノートを閉じながら、少しだけ思う。
“真ん中”に乗ってくるものはたくさんあって、たぶんこれからも増えていく。
でも、その真ん中に立っている自分を、ちゃんと「蓮」として呼んでくれる声があるなら――
まだ、もう少しだけなら。
ここに立っててもいいかもしれない。
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