第12話 波打ち際で“美咲”と“安達”
集合駅、午前9時。
ホームに上がった瞬間、潮と日焼け止めの匂いが混ざって、夏の予告編みたいな空気になった。
「おはよ〜♡」
改札を抜けてきた佐藤(仮)は、いつもより一段高めのポニテ。
白Tの下からのぞく白いワンピース型の水着の肩ひも、耳たぶには小さな貝殻のピアス。足元だけはスニーカーで、歩く気満々だ。
「おはよう」
安達ほのかは、黒のラッシュガードを羽織って、ボトムは紺のショート。
黒ボブはそのままだけど、今日はつば広の麦わらで顔半分が影に入っている。
どちらも、ちゃんと似合う。方向がちがうだけで。
春川がコンビニ袋をぶら下げて現れた。
「冷凍パイン買ってきたぞー。あと塩タブ!」
「健康管理完璧だな」
◇
電車は海の手前で速度を落として、窓の向こうに銀色に平たく光る海が広がった。
「うわー!」って小さく歓声が起こって、車内の空気がいっせいに夏に切り替わる。
砂浜。
足の甲に砂がくっつく。踏むたびに、じゅっって小さく音がする。
風は思ったより涼しいけど、日差しはもう容赦がない。
「うあつ……」
春川がタオルを頭にかぶり、クラスの男子たちがポップテントを広げ、女子はレジャーシートの端を押さえる。
その横で、美咲がひそひそ声で近づいてきた。
「ねえ」
「ん」
美咲は白Tの裾をつまんで、ちょっとだけ、ためる。
ふわっと上げたら、白のワンピが日差しでほんのり透けて、レースが波みたいに見えた。
「見てるときは“美咲”で呼んでね♡」
「……はいはい」
わざと視線を逸らすと、美咲は満足げにTシャツを下ろした。
その仕草まで、ちゃんと“見せる側”。
反対側で、安達が日焼け止めを手のひらでのばしている。
柑橘っぽい匂い。真面目に、二度塗り。
「蓮」
「ん」
「背中、届かない。……ここ、だけ」
ラッシュガードの裾を指で少しだけ上げて、肩甲骨の上だけを見せる。
範囲はきっちり制限。線引きがうまい。
「……わかった。指で塗るぞ。全体は自分で頼む」
「うん」
タプッ。
指先に冷たいジェルを落として、骨の縁を避けるように、円を描く。
安達の背中は、ふつうに熱かった。
息が、少しだけ上がってる。
「……はい、終わり」
「ありがとう」
小さく礼を言って、すぐにラッシュを下ろす。
律義、ってこういうのを言うんだろうな。
横から白い影。美咲がうにゃっと伸びる。
「じゃあ私は〜?」
「自分で塗れ」
「けち〜♡」
「けちでいい」
◇
波打ち際。
膝くらいの高さの波が、しゃわっ、しゃわっってくる。
砂の下で貝殻が擦れる音が、低く、細かい。
「冷たっ」
最初に足を入れた安達が、ピョンと一度だけ跳ねる。
麦わらの影から見える目が、子どもみたいに丸い。
その隣で、美咲は白いワンピの裾を押さえて、
「綺麗に写る角度はどこかな〜♡」
って、太陽と海の位置を真面目に確認している。
お前はもうモデルの脳みそだ。
「はいじゃあ入るぞー!」
春川たちの号令で、上の波へ。
バシャッと跳ねた水が、肌に刺さる。
声が、笑いが、波の音に紛れていく。
「蓮くん〜!」
振り返ると、美咲が両手を広げていた。
ワンピが水を含んで、身体のラインが柔らかい影になって透ける。
「美咲」
呼んだ瞬間、彼女の口角がきゅっと上がる。
“届いた”って顔。
それから、わざとらしくくるっと一回転して、白を水に馴染ませる。
ずるい。ほんとにずるい。
「蓮」
今度は反対側から。
安達が少し離れたところで、波のリズムに合わせて立っている。
麦わらは浜に置いてきたから、黒ボブが濡れて、頬に線を作ってる。
「安達」
呼ぶと、ほんの一瞬、目を細めて笑った。
声は届かない距離なのに、“ありがとう”って唇が言ったのが分かる。
これが“順番”の良さだよな、と思う。言ってすぐ、届く。
◇
「写真撮るぞー!」
誰かが叫んで、クラスが半円に集まる。
背中側に海、前に先生役の春川(スマホ係)。
「そこで“夫婦”、もうちょい寄って〜」
「寄らなくていい!!!」
言いつつ、寄らないと波にさらわれる位置だったので、結果寄る。
美咲の肩が、肘に触れる。
安達は一歩後ろから、ラッシュの袖を指でつまんだまま、すこしだけ身を乗り出す。
三者三様、バランスが取れてるのが悔しい。
「はーい、笑って〜! “#佐藤仮さん”付けます〜!」
「付けるなって言ってるだろ春川ァ!!」
パシャ。
「もう一枚、“普通のやつ”ね〜」
安達が“普通のやつ”って言うと、全員が姿勢を正すの、なんか面白い。
◇
ひとしきり遊んで、砂浜に戻って冷凍パインを齧る。
舌がきゅっと冷えて、塩タブがやたら美味い。
美咲が貝殻を拾ってきて、俺の手にのせた。
「ね、これ、“奥さんって言った日”に、なんかに貼ろ♡」
「事件の証拠品みたいにするな」
「じゃあ“記念日工作”♡」
「……まあ、取っとけよ」
安達は、ペットボトルのお茶を飲みながら、海を見ていた。
波の寄せ引きに、目のピントが合ってない。
たぶん、考えごとしてるときのやつ。
「なに見てんの」
「ううん。
“来年も、再来年も、同じとこで同じことできるかな”って」
「できるだろ。海は逃げない」
「人は逃げるよ」
その言い方が、ちょっとだけ寂しそうで、ちょっとだけ意地っ張りだった。
俺は返す言葉を一個だけ選ぶ。
「俺は逃げないよ」
安達は、こっちを見た。
夏の陽が黒目に入って、濃い茶色に見える。
「……うん」
返事は短いけど、十分だった。
「ねえ蓮くん〜!」
美咲の声。
顔を上げると、白いワンピの裾を片手で摘んで、もう片方の手で日傘をくるっと回してる。
日傘の影に入る白は、やっぱりよく写る。
「写真、二人も撮って〜♡」
「二人?」
「“美咲”と“安達”の。
今日の海の“呼び方写真”、並べて保存しよ?」
こいつのそういうところ、ずるい。
名前を、思い出に閉じ込めるのがうまい。
「じゃ、安達から」
「うん」
砂の足場が崩れるたび、安達は小さく笑う。
正面から、「安達」。
カメラのシャッター音が、波にすぐ飲まれていく。
次に、美咲。
日傘の影から覗く目が、最初から笑っている。
正面から、「美咲」。
白が、空に溶ける。
──海は全部を同じ色にしていくけど、
名前で呼ぶと、ちゃんと違いのまま残る。
それが今日、いちばん好きだった。
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