第12話 波打ち際で“美咲”と“安達”

集合駅、午前9時。

ホームに上がった瞬間、潮と日焼け止めの匂いが混ざって、夏の予告編みたいな空気になった。


「おはよ〜♡」


改札を抜けてきた佐藤(仮)は、いつもより一段高めのポニテ。

白Tの下からのぞく白いワンピース型の水着の肩ひも、耳たぶには小さな貝殻のピアス。足元だけはスニーカーで、歩く気満々だ。


「おはよう」


安達ほのかは、黒のラッシュガードを羽織って、ボトムは紺のショート。

黒ボブはそのままだけど、今日はつば広の麦わらで顔半分が影に入っている。

どちらも、ちゃんと似合う。方向がちがうだけで。


春川がコンビニ袋をぶら下げて現れた。


「冷凍パイン買ってきたぞー。あと塩タブ!」


「健康管理完璧だな」



電車は海の手前で速度を落として、窓の向こうに銀色に平たく光る海が広がった。

「うわー!」って小さく歓声が起こって、車内の空気がいっせいに夏に切り替わる。


砂浜。

足の甲に砂がくっつく。踏むたびに、じゅっって小さく音がする。

風は思ったより涼しいけど、日差しはもう容赦がない。


「うあつ……」


春川がタオルを頭にかぶり、クラスの男子たちがポップテントを広げ、女子はレジャーシートの端を押さえる。

その横で、美咲がひそひそ声で近づいてきた。


「ねえ」


「ん」


美咲は白Tの裾をつまんで、ちょっとだけ、ためる。

ふわっと上げたら、白のワンピが日差しでほんのり透けて、レースが波みたいに見えた。


「見てるときは“美咲”で呼んでね♡」


「……はいはい」


わざと視線を逸らすと、美咲は満足げにTシャツを下ろした。

その仕草まで、ちゃんと“見せる側”。


反対側で、安達が日焼け止めを手のひらでのばしている。

柑橘っぽい匂い。真面目に、二度塗り。


「蓮」


「ん」


「背中、届かない。……ここ、だけ」


ラッシュガードの裾を指で少しだけ上げて、肩甲骨の上だけを見せる。

範囲はきっちり制限。線引きがうまい。


「……わかった。指で塗るぞ。全体は自分で頼む」


「うん」


タプッ。

指先に冷たいジェルを落として、骨の縁を避けるように、円を描く。

安達の背中は、ふつうに熱かった。

息が、少しだけ上がってる。


「……はい、終わり」


「ありがとう」


小さく礼を言って、すぐにラッシュを下ろす。

律義、ってこういうのを言うんだろうな。


横から白い影。美咲がうにゃっと伸びる。


「じゃあ私は〜?」


「自分で塗れ」


「けち〜♡」


「けちでいい」



波打ち際。

膝くらいの高さの波が、しゃわっ、しゃわっってくる。

砂の下で貝殻が擦れる音が、低く、細かい。


「冷たっ」


最初に足を入れた安達が、ピョンと一度だけ跳ねる。

麦わらの影から見える目が、子どもみたいに丸い。

その隣で、美咲は白いワンピの裾を押さえて、


「綺麗に写る角度はどこかな〜♡」


って、太陽と海の位置を真面目に確認している。

お前はもうモデルの脳みそだ。


「はいじゃあ入るぞー!」


春川たちの号令で、上の波へ。

バシャッと跳ねた水が、肌に刺さる。

声が、笑いが、波の音に紛れていく。


「蓮くん〜!」


振り返ると、美咲が両手を広げていた。

ワンピが水を含んで、身体のラインが柔らかい影になって透ける。


「美咲」


呼んだ瞬間、彼女の口角がきゅっと上がる。

“届いた”って顔。

それから、わざとらしくくるっと一回転して、白を水に馴染ませる。

ずるい。ほんとにずるい。


「蓮」


今度は反対側から。

安達が少し離れたところで、波のリズムに合わせて立っている。

麦わらは浜に置いてきたから、黒ボブが濡れて、頬に線を作ってる。


「安達」


呼ぶと、ほんの一瞬、目を細めて笑った。

声は届かない距離なのに、“ありがとう”って唇が言ったのが分かる。

これが“順番”の良さだよな、と思う。言ってすぐ、届く。



「写真撮るぞー!」


誰かが叫んで、クラスが半円に集まる。

背中側に海、前に先生役の春川(スマホ係)。


「そこで“夫婦”、もうちょい寄って〜」


「寄らなくていい!!!」


言いつつ、寄らないと波にさらわれる位置だったので、結果寄る。

美咲の肩が、肘に触れる。

安達は一歩後ろから、ラッシュの袖を指でつまんだまま、すこしだけ身を乗り出す。

三者三様、バランスが取れてるのが悔しい。


「はーい、笑って〜! “#佐藤仮さん”付けます〜!」


「付けるなって言ってるだろ春川ァ!!」


パシャ。


「もう一枚、“普通のやつ”ね〜」


安達が“普通のやつ”って言うと、全員が姿勢を正すの、なんか面白い。



ひとしきり遊んで、砂浜に戻って冷凍パインを齧る。

舌がきゅっと冷えて、塩タブがやたら美味い。


美咲が貝殻を拾ってきて、俺の手にのせた。


「ね、これ、“奥さんって言った日”に、なんかに貼ろ♡」


「事件の証拠品みたいにするな」


「じゃあ“記念日工作”♡」


「……まあ、取っとけよ」


安達は、ペットボトルのお茶を飲みながら、海を見ていた。

波の寄せ引きに、目のピントが合ってない。

たぶん、考えごとしてるときのやつ。


「なに見てんの」


「ううん。

“来年も、再来年も、同じとこで同じことできるかな”って」


「できるだろ。海は逃げない」


「人は逃げるよ」


その言い方が、ちょっとだけ寂しそうで、ちょっとだけ意地っ張りだった。

俺は返す言葉を一個だけ選ぶ。


「俺は逃げないよ」


安達は、こっちを見た。

夏の陽が黒目に入って、濃い茶色に見える。


「……うん」


返事は短いけど、十分だった。


「ねえ蓮くん〜!」


美咲の声。

顔を上げると、白いワンピの裾を片手で摘んで、もう片方の手で日傘をくるっと回してる。

日傘の影に入る白は、やっぱりよく写る。


「写真、二人も撮って〜♡」


「二人?」


「“美咲”と“安達”の。

今日の海の“呼び方写真”、並べて保存しよ?」


こいつのそういうところ、ずるい。

名前を、思い出に閉じ込めるのがうまい。


「じゃ、安達から」


「うん」


砂の足場が崩れるたび、安達は小さく笑う。

正面から、「安達」。

カメラのシャッター音が、波にすぐ飲まれていく。


次に、美咲。

日傘の影から覗く目が、最初から笑っている。

正面から、「美咲」。

白が、空に溶ける。


──海は全部を同じ色にしていくけど、

名前で呼ぶと、ちゃんと違いのまま残る。


それが今日、いちばん好きだった。

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