第11話 まだ海も行ってないのに水着買うな
「なあ今年、クラスで海行かね?」
5限目が終わって、チャイムの音がまだ空中に残ってるくらいのタイミング。
窓の外はまっしろ。グラウンドは半分だけ濡れてて、ラインはにじんでる。
扇風機が「頑張ってます!」みたいな音で回ってるけど、教室の空気はぬるいまま。
そんな“まだ6月だよね?”って日なのに、春川が夏の話をした。
「行く〜♡」
一番後ろから、最初に声を出したのはやっぱり佐藤(仮)だ。
今朝から髪をサイドでゆるく結んでたけど、授業でうつ伏せになったせいでちょっと乱れて、耳の後ろにだけおくれ毛がくるんってなってる。
ああいう“わざとじゃないふわふわ”を、写真に撮ったら伸びるやつだ。
「ねえ蓮くん、いつ行く? 何人で行く? 担任の先生も呼ぶ?♡」
「決まってねえってば!! いま“行かね?”って言っただけ!!」
「じゃあ“行く”にしよ♡ いま決めた♡」
「お前の中で決まるの早すぎんだよ」
前のほうでノートを閉じてた安達ほのかが、椅子をくるっと少しだけ回してこっちを見る。
黒ボブがまっすぐで、窓からの光を受けるとツヤってなる。地毛きれいなやつ。
「梅雨明けてからにしようよ」
「えー」
「だって、海ってさ、雨のあとだと冷たいよ。あと風も強いし。」
「ほのかちゃん、そういうとこだけママみたい~♡」
「ママじゃない。高1の良識。」
クラスがくすっと笑う。
このメンツでもう3か月やってるから、笑いの位置が安定してきた。
美咲が「じゃあさ」と言って、鞄の中をがさごそやり始めた。
出てきたのは通販の水着カタログ(端っこだけ折れてる)。
しかも、ページに付箋。
つまり──
「もう買う気で見てるやつじゃんそれ!!」
「うん♡ もうほぼ決めてる♡」
「早いっつってんだよ!! まだ体育館で湿気ってんだよ俺ら!!」
美咲はパラパラっとページを開いて、机の上に広げた。
パステルカラーの水着がずらっと並んでるページ。
でも美咲が指で止めたのは、ほぼ真っ白に近い、ちょっとレースっぽいやつ。
「これかな〜♡」
「白!?」
クラスの女子の半分が「おお〜」ってざわつく。
男子の半分が「(見たい)」って顔する。
俺だけが「高1だぞ……」って顔。
安達が前の席から身を乗り出してカタログをのぞく。
こっちはネイビーとか黒とか、落ち着いたやつのとこに目が吸い寄せられてる。ほんとに対照的だ。
「白はさすがに……」
「さすがに?」
「1年で白は“やる側”だよ」
「やる側♡」
「喜ぶな」
美咲が、さらっと恐ろしいことを言った。
「でもね、蓮くんちのお母さんがさ〜」
「またお前か」
「“海はね〜、白とか黄色とか、写真に残ったときに明るく見えるのがいいのよ〜♡ 若いうちに着なきゃ損よ〜♡”って」
「いつ聞いたんだよそれ」
「昨日。LINEで。蓮くん寝てた時間♡」
「うちの母はなんで夜間に若い女と水着の話をしてんの???」
「だって話しやすいんだもん〜。“ほんとに佐藤さんになるんですね〜♡”って言われた〜♡」
「母親まで洗脳されてるのでもう手がつけられないなこれ」
安達がカタログを指して言う。
「私はこれくらいでいいや。紺。あと長袖ラッシュ着る。」
「え〜〜」
「日焼けするし。あと、水って予想より冷たいときあるから。」
「それはそう」
春川が黒板に向かって「7月海」「メンバー案」と大きく書く。
チョークの粉がふわっと舞って、窓からの湿った光の中で白く見える。
まだほんとに夏じゃないのに、黒板だけが夏っぽい。
美咲がそこでくるっと俺のほうに向き直った。
「ねえ蓮くん」
「ん」
「海のときってさ。
“公的なときは佐藤(仮)”って決めたじゃん?」
「ああ」
「じゃあさ、“水着見てるときは美咲”って呼んで?
なんか、“佐藤(仮)”で見られると、書類で見られてる感じするから♡」
「お前だけそういう感性持ってんだよ……」
「だってさ〜。名前で見てほしいじゃん、好きな人には〜♡」
「……まあ、呼ぶかもな」
言いかけて、教室の外を見る。
さっきまで真っ白だった雲に、ちょっとだけ青が覗いてる。
ああ、たぶんこのころに海行ったら、ちょっとまだ冷たいんだろうなって青。
安達もそれを見て、すぐに言った。
「じゃあ私のときも、“安達”ね」
「え?」
「海って、恥ずかしいじゃん。
だから“安達”ってはっきり呼んでくれたら、“これは私と蓮が今ここにいるやつ”って分かるから。」
「……わかった」
「うん」
そのやりとりを見ていた春川が、ニヤニヤしながら言った。
「お前らさ、名前だけで夏やるのやめろよ」
「うるせえ」
◇
帰りのホームルーム。
田所先生が、いつものゆるい声で言った。
「そういやお前ら、海行くって言ってたな?」
「なんで先生まで知ってるんですか」
「グループワークの声、職員室まで聞こえるんだよ」
「すみません」
「行くのはいいけど、学校の名前とか制服とかは写すなよ〜。あとSNS載せるときは“佐藤(仮)”も付けとけよ〜」
「学校のほうから“(仮)”定着させてくるのやめてもらっていいですか」
「いや〜、このまま高3までいったら伝説だろ〜?」
「そんな伝説いらないです」
でも先生が「高3まで」って言ったとき、
美咲がほんのちょっとだけ嬉しそうに笑って、
安達が「3年か……」って顔をしたのを、俺は見た。
──まだ梅雨だけど、たぶんこの夏もまた、呼び方でケンカしながら進むんだろうなと思った。
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