第2話 上がらぬ雨の降るときは


 今朝、僕が書庫に来ると、本棚のフックに紐で吊るした壁掛けカレンダーが床に落ちていた。

フックは壁にちゃんとくっついているし、紐もほどけていないのに、なんで落ちたんだろう。

僕はカレンダーを吊るし、まだ6月のページなのに気づいた。

もう7月に入ったのに替え忘れていた。



僕がここでバイトを始めてもう2ヶ月になるのか。

随分と業務には慣れたけど、この書庫の汚さには慣れたくないな、と思う。

書庫といっても、独立した部屋じゃない。

ゼミ室の右奥を扉のついたパーティションで仕切ってるだけ。そこに事務机と椅子を入れ、研究作業用の小部屋として使っている。


時々、たぶんなにかがぶつかっただけなんだろうけど、仕切りの壁がガタガタっと揺れて周りに積んであるものがバサバサ落ちる。

たいていゼミ室では講義中で、誰も立ち歩いてないのに、不思議だ。

よっぽど建て付けの悪いパーティションらしい。


ほかにも、仕事中に突然資料の山が崩れたり、本棚の本が落ちてきたりするんだよね。何か生き物がガサゴソするような気配を感じるから、ねずみでもいるのかもしれない。


嫌だな、ねずみ。


僕は軽く伸びをして、……少し机に突っ伏した。バイトの規定の就業時間まで、あと10分ほどある。

今は、ちょっとだけ寝てもいいかな。


梅雨も明けてじわじわと暑い日が増えてきたこの頃。

季節の変わり目のせいか、あるいは期末試験が近いせいか、体には疲れが残り、気持ちも重くだるい感じがする。授業中に起きているので精一杯な日すらある。何なら今日の午前中も。


そして、寝ちゃいけない時にうっかり眠ると、なんとも妙な夢を見るんだ。

ほんの一瞬のうたた寝で夢を見ること自体、今まではあんまりなかったのに。

夢の内容はいつも同じで

真っ暗な中で、ずっと豪雨の音がしているだけ。なのに、なんか嫌な感じがするんだ……



りん、と小さな鈴の音がして、僕ははっと目が覚めた。時計を見ると、あと1分でバイトの時間だった。

アラームもかけてないし、鈴なんて僕は持ってないのに。

でもお陰で起きられた、良かった。

しかも夢を見ずにお昼寝できた。


「ふわぁ、……」

僕が書庫であくびをしていたら、津田さんが戸口に来た。

「目を閉じ耳を塞ぎ、意識すらも朧にする」

津田さんは突然そう言った。


……えっと。

寝てるときは目は閉じてるし音聞いてないし意識がないのは当たり前だと思うけど。


しかも、僕ではなく、書庫の壁……ううん、もっとどこか遠くを見てから、

「……初めて出会ったときと同じだな、君は」

なんて呟いている。


何だよ、いきなり来て。

出会ったときって、2ヶ月前だし。

そんな遠い目をして振り返るような昔じゃないでしょうに。

大げさだなぁ。


「あの、どういうことですか?」

僕が聞き返すと、津田さんはひょいと肩を竦めた。

「なに、今日の、苅田教授の講義も、寝かかっていたとみえる」

え? 確かに今日のお昼前の講義は苅田教授だったけど。

「そして、君が眠れないのは、苅田教授の講義の前夜だ」

津田さんはそう言いおいて、ふらっとゼミ室を出ていってしまった。



苅田教授というのはうちの学部の名物教授で、僕の学年にもゼミ希望者が多い。

学部1年次や教養科目の講義も数多く受け持っていて、苅田教授を知らぬ学生はこの大学にはいないだろうと僕は勝手に思っている。


 かく言う僕は3年次から姫井ゼミに行くつもりだ。姫井ひめい揚照のぶとし先生は、ゼミ担当教員になって3年目の若い先生だ。

気さくな性格で、面倒見も良いので学生からの人気は高い。

僕に、佐倉教授の研究補助の話を持ってきてくれたのも姫井先生だ。

学内でのアルバイトは大学規則すれすれの危ういものだけど、どこをどうすり抜けたのか大学院側の了承も得ているので、実はあの優しい笑顔の下は、相当な策士なのかもしれない。

話が逸れた。

苅田教授は若手の先生、特に姫井先生が気に食わないのか、機嫌が悪くなるにつれて、自分の講義で姫井先生を悪し様に言うようになった。

苅田教授は、僕ら一年次の必修科目の色んな講義によくお出ましになるから、しょっちゅう姫井先生の悪口を聴く羽目になる。

ただでさえ人を悪く言う言葉を聞くのも疲れるのに、自分の将来の指導教授の悪評なんて聞かされて、僕はこのところ気が塞いでいるんだ。


 津田さんに言われるまで、僕はその、不眠と講義中のひどい眠気の法則に気付いていなかった。

振り返れば、確かに、眠れなかった翌日は苅田先生の授業があって、その日の中で一番眠いのも苅田先生の講義中だ。

 ……眠い日があるのはあくびでバレるかもしれないけど。

なんで僕の講義スケジュール、知ってるんだろう、津田さん。

やっぱり変な人だ。


それ以降僕は注意深く周りを観察してみた。

学科教員達によるオムニバス形式の講義で、苅田先生のご威光には逆らえないようで、他の先生方がたまに引き合いにだしてくさしているのは、名指しこそしないものの、たぶん姫井先生のことだ。

空席が目立つのは姫井先生の担当日だということにも、僕は気づいてしまった。


 あぁ、頭が痛いよ。しんどいよ。

もう何も聞きたくないよ。

目を閉じて、耳を塞いで。

ダンゴムシみたいに丸まっていられたらいいのに。

 

嫌なことに気づいた途端。

目は覚めているのに、外はお天気で明るいのに、あの夢で聞く激しい雨音が耳の奥で鳴りだした。

しかもその雨音に被るように、今までに聞かされた姫井先生の悪口が苅田先生の声で蘇る。

……あんな歳若い奴の薄っぺらな話など聞かなくていい!

……なんの根拠もない、定かでないことを賢しらに説く愚かな奴

……あんな奴、ここに相応しくない!


嫌だ、嫌だ……もう聞きたくない

嫌だ、嫌だ……思い出したくない


壇上の、姫井先生の声が遠くなる。

目の前が暗くなっていく。

闇が四方から迫ってくるような、狭苦しい場所に閉じ込められるような、

嫌な圧迫感が襲ってくる。


お願い、助けて。

誰か、僕を



気づけば僕は、佐倉ゼミ室の書庫に座り込んでいた。

どうやってここに辿り着いたのか分からない。

どうしてここを選んだのかも分からない。


僕は、子どもの時の記憶と同じように、その講義からここまでの記憶が飛んでしまっていた。


かちゃ、と書庫のドアが開く音がして、僕は振り返った。

「あ……津田さん」

見知った人がそこにいる、それだけで急にほっとして力が抜けた。

「おかえり」

津田さんが言って、僕を抱き留めるようにハグしてくれた。

僕を支える津田さんの腕が頼もしくて、気持ちがほどける。

僕は思わず、甘える猫みたいに津田さんに擦り寄っていた。

近づきすぎた僕を見下ろそうとした津田さんの唇が、僕の髪に触れた。


そして、ふた呼吸ほど、津田さんは僕の髪に鼻先をうずめるようにして、そっと離れていった。


僕が驚いて津田さんを見上げると

「……すまない、その……当たってしまった」

津田さんはちょっと焦った風に、腕を解いて一歩引いてしまった。


なんだ、身長差的に当たってしまっただけか。

びっくりした。

津田さんもきっと、驚いてフリーズしてたんだ。


でも、まるで……海外の人の、親しい人への挨拶みたいな、髪に軽く触れるだけの口付けみたいで。


大好きなペットやぬいぐるみにするような、

優しくて純粋で繊細な触れ合いのようで。


こんなことしてもらうのはたぶん初めてだけど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


ちりーん……

風鈴に似た爽やかな鈴の音が聞こえた気がした。



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