『その最奥に潜むもの』妖しい彼との怪異(おかし)な日々①
日戸 暁
出会いの夏〜神の招く山〜
第1章 つかれたときは癒やしのみっくん
第1話 そこに居着く謎のもの
ふわふわ天然パーマに黒縁の丸眼鏡。
くたびれたジャケットに黒いジーパン。
見慣れた格好の男性が、給湯室のスツールに腰掛けてぼんやりしている。
ほぼ毎朝、この人は僕よりも先にこのゼミ室に来て、ゼミ室と間続きの給湯室でこんな風に過ごしている。
今朝、いつものように、僕が教授よりも先に部屋へ入って窓開けをして、部屋を換気していたら、
「またキミか」
珍しく声をかけられた。
本棚の裏のスペース“鰻の寝床”から顔を出して僕を見ている。
長い前髪が顔にかかって、その目元もこちらからは見えないけれど。
あの御簾みすのような髪に隠れた双眸が、
琥珀色なのを僕は知っている。
それはさておき、教授室の鍵を守衛室で今朝一番に借りたのは僕だ。
それなのに僕より先に部屋にいるなんて。
昨晩も合鍵を使ってここで寝泊まりしたな。
本当は合鍵の所持は駄目だけど、佐倉教授が許しているのを良いことに、津田さんは週に二度はそれを使って何故か夜に部屋に入り、そのまま泊まっていくのだ。いったい何をしてるんだろう、もしかして夜に修論書いてるのかな。でもなんで佐倉教授のゼミ室で?
とも訊けず、
「おはようございます、津田さん」
「ん」
僕が挨拶するとその変な人、いや、津田さんは、僕の頭にぽんと手を置いて、給湯室にふらりと入っていった。
そして今に至る。
ずっと給湯室でぼーっとしてる。
彼は大学院生らしいけど、講義を受けている姿も、パソコンに向かう姿も、僕はまだ見たことがない。いったい、いつ勉強し、いつ論文を書いているんだろう。
本当に院生なのかな。不思議な人だ。
ちなみに僕は、丹波雲斗もと、大学一年生。この部屋、大学院の佐倉教授のゼミ室で、研究補助のアルバイトをしている。
業務は研究データの入力が主な内容。他にも、教授に頼まれて校外にお使いにいくこともあるけど難しいことは特にない。でも時給が良く、しかも空いた時間には大学の勉強をしても構わないし、給湯室の飲み物は自由に飲んで良いって言われて、僕は迷うことなくこの話に飛びついた。
もっとも、バイト中に一番時間を割いているのは部屋の掃除だ。
このバイトを僕に斡旋して下さった学部の姫井先生に案内されて初めてこの部屋に来た時は、あまりの乱雑さに絶句した。
学部にまでその名が聞こえてくるほどの汚部屋は僕の想像を超えていた。
僕の初仕事は、ゼミ室の書庫(僕の仕事スペースだよ)のどこかに埋もれたデータ入力専用のノートパソコンを探すことだった。
……その時に書庫を綺麗に片づけたのに。既に、机にも床にも、研究資料や空箱が山となっている。僕の居ない間に、佐倉教授が荷物を放り込んだのだ。
だから僕は、かれこれ一ヶ月の間、一生懸命書庫を掃除しているのだけど、もう、研究の手伝いよりお掃除のほうがメイン業務な気がしてるよ、全く。
せっかく僕がいくら片付けてもすぐに元通りに散らかる教授室の中で唯一、常に整頓された場所がある。
書庫の壁と教授室の本棚の間にできた、細長いスペース。通称、“鰻の寝床”だ。
そこに居着いているのが、最初に言った、巻き毛に黒縁眼鏡の彼だ。
名前は津田光研二みつとじさん。
佐倉教授は津田さんのことを時々、“みっ君”と呼ぶ。
噂で聞いた感じだと、どうやら津田さんは、佐倉教授のご友人の息子さんらしい。
“鰻の寝床”と給湯室を行ったり来たりするだけの、佐倉ゼミに居ついている謎の人。
それが僕の、津田さんに対する印象だ。さらに言うなら、無口で愛想がなくて、行動がいちいち変な人。
書庫で仕事をしている間に、教授室で講義や論文指導が急に始まることがある。
さすがに授業中の教授室を通り抜けにくくて、僕は給湯室やトイレに行くのを我慢する。でも、津田さんは、ゼミが行われていようが全くお構いなしに、すたすたと部屋を横切る。講義中はホワイトボードの前を避けて通るので、ゼミ生達には津田さんの存在は黙認されているようだ。ただ、ふと足を止め、教授の背や肩を叩いたり、誰かの方を見て「失せろ」と呟くことがあって、かなり不思議な人だ。他にも彼の奇行は沢山あるけど、今は割愛する。
ここでバイトを始めたばかりの頃は、僕は津田さんの言動に驚いたり焦ったり、とにかく彼の挙動に気を揉んでばかりいた。
いつだったか、顔見知りになった修士2年生の八戸さんに、「講義中に津田さんがうろついたら、邪魔じゃないですか?」と僕は聞いてみた。そうしたら「ゼミ室の妖精さんがまた通ったな、と思うだけだ」との答えが返ってきて、僕は思わず吹き出した。
ゼミの皆さんが気にしていないなら、それでいいや。それ以来、僕も彼が何をしていようが気にしなくなった。
だから、今朝もこれから津田さんが、愛用の織部色の歪な湯呑みにコーヒーを一杯淹れ、それをさっさと飲み干してから丸々一時間ここを動かなくても、それはいつもの事で、僕はきっと少しも驚かない。
電気ポットの、こぽこぽとお湯の沸く音が止んでほどなくして、ドリップコーヒーの良い香りが漂い始め、僕は小さく笑った。ほら、朝の一杯を準備している。
僕が給湯室を覗くとスツールに座っている津田さんは一瞬こちらを見遣って、でも何も言わずに、また窓の外へと視線を戻した。これもいつもと変わらない。
だけども僕は、いつもと違うことに気がつき、驚いた。
テーブルの上に見慣れないマグカップ。鮮やかな山吹色がとても綺麗だ。
その傍らに、インスタントスティックの空き包装。それも、僕が気に入って、給湯室の飲み物からちょくちょく失敬していたちょっと高級なココアじゃないか。早めのお中元として佐倉教授へ届いたもので、つい先日、最後の一本を教授に飲まれてしまった。
黄色のマグカップの中には濃いココアがたっぷり入っている。飲みたい。
「もしかしてそれ、僕が頂いていいんですか」
だって、ここには今、既にコーヒーを飲んでいる津田さんと、何も飲んでいない僕しかいない。
「飲みたいなら」
僕のちょっと厚かましい問いに短く答えが返る。空いているスツールに浅くお尻を置いて、僕がいそいそとそのマグカップに口を付けたところへ
「丹波ァ、居るかァ?」
と教授のだみ声が僕を呼んだ。
まだ木曜なのに、なんでもう、そんな酒焼けした声になっているんですか、教授。
「はい!」
返事をした僕を津田さんがちらりと見た。
どうしたんだろう、僕に何か言いたげだ。でも今は教授に呼ばれているから急がなきゃ。
僕は津田さんを無視して、高めのスツールから慌てて降りようとした。
床に右足をついて、一歩踏み出した途端。変に体が傾いだ。僕は左の足首を思いっきり捻り、そのまま前へつんのめる。
人は、危険な目に遭遇すると周りの物事がスローモーションに見えるものらしい。
テーブルに乗せたままの僕の左手が、山吹色のカップを勢いよく払った。マグカップがココアをまき散らしながら、テーブルの端から落ちる。
それにすっかり気を取られた僕は、どうしてか反射的に手をつくこともなく、直立不動の姿勢のまま倒れていく。目の前に迫る、ココアで濡れた床。
僕の鼻がココアの水たまりにくっつきそうになった瞬間。ぐいっと体が持ち上がった。
辛うじて両足のつま先が床についているけれど、浮いた上半身があまりに不安定で、手近にあった棒状のものに僕は思わずしがみついた。つまり、津田さんの脚に。
「丹波、居るかぁ?……どういう状況だ?」
給湯室にひょいと顔を出した佐倉教授が問うのも無理もない。
でも、どうしてわざわざもう一回、僕が居るかを確認するんだろう。僕もちゃんと返事をしたのに。聞こえなかったのかな。それに教授の声、いつものバリトンボイスに戻ってる。あのだみ声は何だったんだろう。
「見ての通りです。……おはようございます、教授」
淡々と答える津田さんの声が頭の上から聴こえる。
僕は今、傍らに立つ津田さんにシャツの後ろ襟をぐいと掴まれ、半ばぶら下げられている。首が締まって息が苦しい。顔を上げれば服の襟元に隙間ができて、苦しくなくなるのは分かっているけれど、転んだことがそもそも恥ずかしいのに、助けられた挙げ句、脚に抱きつくなんて。気まずくてまともに津田さんの顔を見られない。俯く僕の視界の端に、津田さんの綺麗に手入れされた黒い革のスニーカーがチラッと映る。
僕はココアの水たまりができている床を見つめたまま、ゆっくりと両脚を動かして、そろりと横座りした。
僕がきれいな床にお尻を落ち着けるまで、津田さんは僕の後ろ襟を離さず、僕がしがみつく脚も動かさず、じっと待っていてくれた。
やっと安定した姿勢になった僕にいつもより少し冷たい一瞥をくれ、
「カップは無事だ」
津田さんはそれだけ言い置いて給湯室を出て行く。ほんとだ、山吹色のカップがテーブルのど真ん中に置いてある。津田さんが受け止めてくれたのか。あの一瞬で、僕もカップも救ってくれるなんて。すごい身体能力だ。
あ、その前に、言わなきゃ。
「本当に、すみませんでしたッ」
ワンテンポ遅れて僕は叫んだけれど、津田さんは無言のまま。こちらを振り返りもせずに、乱暴に教授室の戸を開けて何処かへ行ってしまった。
「佐倉教授……ごめんなさい。津田さん怒らせちゃった……」
教授も難しい顔をする。
「お前がセクハラするとはな」
セクハラ。はっきり言われるとショックが大きい。
たとえ変な意図が無くたって、誰だっていきなり脚に触られたら不快だ。まして相手が親しくもない奴だったら、冗談では済まされない。頭を抱える僕に教授が大笑いする。
「なぁに、冗談だ。気にしちゃいねぇよ、あいつは」
「でも、ドア、ばぁんって」
まともな文章で話せない僕を宥めようとしたのか、佐倉教授が黄色のマグを渡してくれた。少しだけカップに残ったココアを舐める。やっぱり美味しい。
……ココアを床にぶちまけてしまったのが、今更ながらとても悲しい。
それにしても、教授ったら。わざとセクハラって言うなんて。冗談で言っていいことじゃないだろ。
ただ、津田さんが脚に抱きつかれてどう思っているか分からないけど、やっぱり嫌な気分にはさせてしまっただろうと思う。津田さんがあんなに音を立ててドアを開けるところなんて見たことないもの。
「いや、あれは焦ってるだけだ。お前が怪我したんでな。さっきのイチャイチャは、すっ転んだお前を津田は支えようとした、お前は急に首根っこ持ち上げられて、ビックリして何かに掴まってみりゃ奴の脚だったってだけだろ」
よくお分かりで……いや、イチャイチャしていたわけじゃありませんッ。
そこへ、津田さんが救急箱を持って帰ってきた。
床にへたり込んだままマグカップを抱えている僕と、その傍らでニヤニヤしている中年の教授を見てため息をついた。
「床ぐらい拭いたらどうなんです、教授」
教授に何をやらせる気だ。
捻った左足首が鈍い痛みを訴えてくるけど、それは無視して、僕は慌てて口を挟んだ。
「あ、僕がやります、僕がこぼした」
「いい。キミは怪我人だ」
あっさり僕を抱き上げて、教授室のソファへ運んでくれる。
僕が小柄とはいえ、こんな簡単に男性一人を運べるなんて。見た目はひょろっとしている津田さんだけど、結構力持ちなんだな。
僕を応接ソファに座らせ、津田さんは僕の靴下をさげて左足首を検める。
そこには、小さなもみじの形の痣がくっきり浮かんでいた。
何の痕だ。捻っただけなのに。
僕はぞっとして身震いする。
でも、津田さんは痣の形など気にしてないようで、黙々と僕の足首に手当をしてくれる。湿布を丁寧に貼り、サポーターで固定までしてくれた。
「甲斐甲斐しいな、お前」
雑巾を片手に、教授がソファに座って津田さんに言う。津田さんは、大袈裟に首を傾げ、なんのことか分からないと仕草だけで伝える。それから津田さんはちらりと雑巾を見て
「ところで、床はちゃんと拭けたの?」
やっと喋ったと思えば、今度はそんな口の聞き方を。普段は教授に対しても、一応の礼節を保って話すのに。
だけど、そんな態度を咎めもせず教授は津田さんに、あぁと頷いて
「まさか本当にあのマグカップ買ってくるとはな」
にやけながら津田さんの脇腹をつつく。そんな教授を振り払い、こほんと咳払いをすると
「千萱。それ以上なにか言ったら怒るよ」
津田さんは佐倉教授を名前で呼び捨てた。それから、教授から雑巾をさり気なく受け取り、救急箱を持って部屋を後にした。今度は扉を静かに閉めて。
「あの、黄色いマグカップ……津田さんが?」
僕があっけにとられていると、教授が教えてくれた。
「週末に、あいつと買い物に行ったらよ、あの黄色のマグ、お前にどうだろうって言うんだ。どこだっけ、XX社のココアも。お前、あいつの弱みでも握ってるのか?」
わざわざ僕のために買ってくれたというのか。僕は、津田さんに物を贈られるほどのことは何一つしていない。もちろん、弱みなんて握っていない。それなのに、一体どうしてだろう。でも、嬉しい。いつも無愛想で僕に関心の欠片もなさそうな津田さんが、週末の買い物の時に僕を思い出してくれて、僕に選んでくれた折角のカップだ。割れなくて本当に良かった。津田さんが咄嗟に受け止めてくれていなかったら、きっと粉々に割れていただろう。
……いや、待てよ。さっきの教授の言葉が今になって引っかかる。
「ちょっと待って下さい、佐倉教授」
ん? とこちらを見る教授に、僕は身を乗り出して聞いた。
「津田さんと教授、一緒にお買い物ですか……?」
一体どういうことだろう。大学院の教授と、そのゼミ生でもない修士2年の男性。普通なら、週末に一緒に買い物へ行くような関係ではないと思うんだけど。いくら旧知の間柄だとしても。
「あぁ。俺の買い物の荷物持ちにな」
そんなことで院生を呼び出しているの? とはさすがに聞けない。
教授はニヤニヤしながら付け加える。
「なぁに、家が近いからなんてことない。今は同じアパートの上下で暮らしてる」
「今は?……じゃあ、昔は?」
いひひ、と笑って教授が僕の耳に囁く。
「あいつは、俺と同棲してたんだぜ」
ばしぃ。
津田さんったら、戻ってくるなり、教授の頭を平手打ち。
「誤解を招くでしょう、教授」
今朝の津田さんはいちいちリアクションが大きい。珍しい。
叩かれた教授は、ひひひ、と意地の悪い笑い声をあげる。
なんか嬉しそうなんですけど。大丈夫かな、この人。
「津田さんと教授は」
二人の関係を聞こうとしたら、津田さんは人差し指を唇にあてた。秘密ということか。
むしろ謎が深まる。お父さんと教授が知り合いという他に何か繋がりがあるのかな。
僕の問いかけには答えないまま、津田さんは僕の隣に座った。そして、そっと僕の捻挫に指先で触れ、
「ツキモノマガモノムシバムモノスミヤカニサレ」
抑揚もつけずに不思議な言葉を述べる。
ソファの下から、こそこそと何か小さなもふもふした黒い生き物が走り出ていった。
「ねずみ?」
僕の呟きを聞き拾ったのか、津田さんが言った。
「キミが鼠だと思うなら、あれは鼠でいい」
それから「もう8時だ」と言って津田さんは立ち上がり、いつものスペースに消えた。
衣擦れの音が止み、やがて出てきた津田さんは癖毛を大雑把に結わえ、晴れた日だというのに真っ黒なロングコートを羽織っている。そして僕らに軽く会釈をして、急ぎ足で部屋を出て行った。
佐倉教授も津田さんを見送ると僕に今日の仕事を言いつけて、講義室のある本館へ行ってしまった。
……独りになった僕は、そっと靴下とサポーターを捲ってみた。
左の足首には普通の青あざが広がっているだけ。小さな手の痕は残っていなかった。
どこかで、りぃんと、鈴が鳴った。
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