第7話 言語学者の疑問
五月二十日、午前十一時。
蓮は大学の研究室で、指導教授の田中隆史と向かい合っていた。
田中教授は五十歳。白髪交じりの髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけている。民俗学の第一人者で、特に「言葉と信仰の関係」を専門にしている。
「佐々木君、君の最近の研究、面白いね」
教授は、蓮が提出した「魔法検証ノート」のコピーを読みながら言った。
「ルーマニアの魔女との共同研究......こんな貴重なフィールドワーク、滅多にできないよ」
「ありがとうございます」
蓮は、少し照れくさそうに答えた。
「でも、まだ結論が出ていないんです。魔法が本当に効くのか、それともプラシーボなのか......」
「うん、それは難しい問題だね」
教授は、ノートの一ページを指さした。
「でも、僕が一番興味を持ったのは、この部分だよ」
そこには、蓮が書いた疑問が記されていた。
【未解決の疑問】
エリーザは「呪文の意味を理解していなくても、音として唱えれば効果がある」と主張している。
これは本当だろうか?
もし本当なら、言語の「意味」と「音」の関係について、新しい視点が得られるかもしれない。
「これ、言語学的にすごく重要な問いなんだよ」
教授は、興奮気味に続けた。
「言葉には二つの側面がある。『意味(シニフィエ)』と『音(シニフィアン)』だ」
「ソシュールの記号論ですね」
「そう。通常、言葉が力を持つのは『意味』を理解しているからだと考えられている。でも、もし『音』だけで効果があるなら——」
教授は、眼鏡を外して拭いた。
「それは、言語学の常識を覆す可能性がある」
蓮は、教授の熱意に押されて頷いた。
「教授、エリーザさんに会ってみませんか? 直接話を聞いてみれば、何かわかるかもしれません」
「ぜひ! 会いたい!」
教授は、即答した。
その日の午後、蓮は教授を連れて、井の頭公園の「呪文屋」を訪れた。
エリーザは、いつも通り看板の前に座っていた。隣には、新しい弟子のリナもいた。
「エリーザさん、紹介します。僕の指導教授の田中先生です」
「ハジメマシテ! ワタシ、エリーザ!」
エリーザは元気よく挨拶した。
教授は、エリーザをじっと見つめた。
「初めまして。田中と申します。佐々木君から、あなたのことを聞いて、ぜひお会いしたいと思っていました」
「ワタシのこと?」
「はい。あなたの使う『呪文』に、とても興味があります」
教授は、椅子に座った。
「早速ですが、質問してもいいですか?」
「ドウゾ!」
教授は、ノートを開いた。
「あなたは、ルーマニア語の呪文を使っていますね」
「ウン」
「では、質問です。もし、呪文の意味を理解していない人が、ただ音だけを真似して唱えた場合——その呪文は効果がありますか?」
エリーザは、少し考えてから答えた。
「効ク」
「本当ですか?」
「ウン。呪文、『音』、大事。意味、わからなくても、音、正しければ、効く」
教授は、興奮した様子でメモを取った。
「なるほど......では、なぜ『音』が重要なのでしょうか?」
「音、『振動』」
エリーザは、自分の喉に手を当てた。
「呪文、唱える。声、振動、作る。ソノ振動、世界に伝わる」
「振動......」
教授は、目を輝かせた。
「つまり、音波が物理的に何かに影響を与えると?」
「ソウ。デモ、ソレダケじゃナイ」
エリーザは続けた。
「呪文、唱える人の『心』、大事。信じる心、ナイと、振動、弱い」
「信じる心......」
教授は、眉をひそめた。
「でも、それだとプラシーボ効果と区別がつかないのでは?」
「プラシーボ?」
「ええ。『効くと信じているから効く』という心理的な効果です」
エリーザは、首を傾げた。
「ヨクワカラナイ。デモ、呪文、何百年も、使われてきた。効く」
教授は、少し考えてから言った。
「では、実験してみませんか?」
「実験?」
「はい。私が、ルーマニア語を全く理解していない状態で、あなたの呪文を真似して唱える。それで効果があるか、確かめてみましょう」
エリーザは、面白そうに笑った。
「イイヨ! ヤッテミヨウ!」
数日後、田中教授の研究室で実験が行われた。
参加者は、教授、エリーザ、蓮、そしてリナ。
テーブルの上には、しおれた鉢植えの花が二つ置かれていた。
「実験内容は、こうです」
教授が説明した。
「一つ目の鉢植えには、エリーザさんが呪文を唱える。二つ目の鉢植えには、私が同じ呪文を真似して唱える。一週間後、どちらの花がより元気になっているか、比較します」
「ワカッタ」
エリーザは頷いた。
「まず、エリーザさん、呪文を教えてください」
「ウン。コレ、『植物を元気にする呪文』」
エリーザは、ルーマニア語の呪文を唱えた。
「Plantă, ascultă-mă. Dă viață frunzelor tale. Crește puternică și sănătoasă.」
(植物よ、私の声を聞け。あなたの葉に命を与えよ。強く健やかに育て)
教授は、その音をICレコーダーで録音した。
そして、何度も聞き返しながら、発音を真似た。
「プランタ......アスクルタマ......」
「チガウ。『プランタ・アスクルタ=マ』。もっと、流れるように」
「プランタ・アスクルタ=マ......」
教授は、必死に発音を練習した。
三十分後、ようやく教授は呪文を暗記した。
「では、実験開始です」
エリーザは、一つ目の鉢植えの前にしゃがみ、呪文を唱えた。
その声は、優しく、温かかった。
次に、教授が二つ目の鉢植えの前に立ち、同じ呪文を唱えた。
発音は正確だった。
でも——
どこか、機械的で、感情がこもっていない印象だった。
「これで、一週間待ちましょう」
教授は、両方の鉢植えに水をやり、窓際に置いた。
一週間後。
四人は再び研究室に集まった。
結果は——
エリーザが呪文を唱えた鉢植えは、葉が青々として、花も少し大きくなっていた。
一方、教授が呪文を唱えた鉢植えは......ほとんど変化がなかった。
「......差がある」
教授は、驚いた顔で二つの鉢植えを見比べた。
「発音は正確だったはずなのに......なぜ?」
エリーザは、教授の肩を叩いた。
「教授、『音』、正しかった。デモ、『心』、ナカッタ」
「心......?」
「ウン。教授、呪文、信じてナイ。ダカラ、振動、弱い」
エリーザは、自分の胸を指さした。
「呪文、ココから出る。心、信じる。ソウスレバ、振動、強くなる」
教授は、深く考え込んだ。
「つまり......呪文の効果は、『音の正確さ』だけでなく、『唱える人の信念』にも依存する......?」
「ソウ」
蓮が、横から補足した。
「でも、教授。それって、科学的に説明できませんか? たとえば、信じる心が声の質を変え、それが何らかの物理的影響を与えるとか......」
「うーん......」
教授は、眉間にしわを寄せた。
「可能性としては、『声の周波数』が関係しているかもしれない。信じている人の声は、リラックスしていて、倍音が豊か。それが植物に良い影響を与えるとか......」
「倍音?」
リナが尋ねた。
「音の中に含まれる、複数の周波数成分のことだよ」
教授は、ホワイトボードに図を描き始めた。
「人間の声は、基音だけでなく、倍音も含まれている。リラックスした声は、倍音が豊かで、聞いていて心地よい」
「ソレ!」
エリーザが指を鳴らした。
「『心地よい声』、植物、好き。ダカラ、元気になる」
「なるほど......」
教授は、納得したように頷いた。
「では、『魔法』とは——」
教授は、ホワイトボードに大きく書いた。
【魔法=音の振動(周波数)+信じる心(心理的エネルギー)】
「この二つが融合したとき、『魔法』が生まれる......ということですね」
「ソウ!」
エリーザは嬉しそうに拍手した。
蓮は、その図を見て、何かが腑に落ちた気がした。
「つまり......科学と魔法は、対立しないんですね」
「そうだよ、佐々木君」
教授は笑顔で答えた。
「科学は『どうやって』を説明する。魔法は『なぜ』を感じさせる。両方が揃って、初めて世界が理解できるんだ」
その日の夕方、教授は提案した。
「エリーザさん、佐々木君、そしてリナさん。私、『魔女研究会』を設立したいと思います」
「魔女研究会?」
「はい。エリーザさんの魔法を、学術的に研究する会です。もちろん、エリーザさんの魔法を否定するためではなく、理解するためです」
教授は、真剣な目で続けた。
「魔法は、人類の知恵の結晶です。それを科学的に分析することで、新しい発見があるかもしれない」
「イイ! ワタシ、賛成!」
エリーザは即答した。
「ワタシの魔法、もっと知りたい人、増えて欲しい」
「ありがとうございます」
教授は、深々と頭を下げた。
一週間後、大学の一室で「第一回魔女研究会」が開かれた。
参加者は、田中教授、エリーザ、蓮、リナ、そして数人の大学院生たち。
教授が、ホワイトボードに議題を書いた。
【第一回魔女研究会 議題】
呪文の言語学的分析
ハーブの化学的成分調査
儀式の心理学的効果
今後の研究計画
「では、まず一つ目。呪文の言語学的分析から始めましょう」
教授は、エリーザに尋ねた。
「エリーザさん、ルーマニア語の呪文には、どんな特徴がありますか?」
「ンー......古い言葉、使う」
「古い言葉?」
「ウン。今のルーマニア語、違う。何百年も前の、古代ルーマニア語」
教授は、興奮した様子でメモを取った。
「古代ルーマニア語......それは貴重ですね。では、その古い言葉には、どんな意味がありますか?」
「大地、植物、水、火......自然の力、呼ぶ言葉、多い」
エリーザは、いくつかの呪文を紙に書いた。
教授は、それを見て考え込んだ。
「なるほど......呪文は、自然と対話するための言語なんですね」
次に、リナが質問した。
「先生、呪文って、どうやって作られたんですか?」
「イイ質問!」
エリーザは笑顔で答えた。
「呪文、昔の魔女、作った。自然、観察して、何が効くか、試して、言葉、作った」
「つまり、実験を繰り返して作られたんですね」
教授が補足した。
「それって、科学的方法と同じじゃないですか」
蓮が気づいた。
「そう! 魔法も、科学も、同じ。『試して、学ぶ』」
エリーザは力強く頷いた。
研究会の最後に、教授が言った。
「今日、私は大きな発見をしました」
みんなが教授を見た。
「魔法は、『非科学的』ではない。むしろ、『科学の先にあるもの』なんです」
教授は、ホワイトボードに図を描いた。
【科学】→ 観察・実験・理論化
【魔法】→ 観察・実践・伝承
「どちらも、世界を理解しようとする試みです。ただ、アプローチが違うだけ」
「ソウ! ソレ!」
エリーザは嬉しそうに拍手した。
研究会の後、蓮は一人で大学の図書館にいた。
ノートパソコンを開き、「魔法検証ノート」を更新していた。
【魔法検証ノート 第7回】
テーマ:呪文の言語学的考察
【実験結果】
田中教授による呪文の再現実験では、音の正確さだけでは効果が薄いことが判明。
エリーザの呪文と比較すると、明らかな差があった。
【考察】
呪文の効果は、以下の要素の組み合わせによって生まれる:
音の振動(周波数・倍音)
信じる心(心理的エネルギー)
儀式性(特別な行為としての認識)
これらが融合したとき、「魔法」が発動する。
【新たな理解】
科学と魔法は対立しない。
科学は「どうやって」を説明し、魔法は「なぜ」を感じさせる。
両方が揃って、初めて世界が理解できる。
蓮は、ノートを閉じた。
そして、窓の外を見た。
夕日が、キャンパスを赤く染めている。
「祖母が言っていた......『科学で説明できないものもある』って」
蓮は、小さく呟いた。
「でも、今ならわかる。科学で説明できないんじゃなくて——科学だけでは説明しきれないんだ」
蓮は、スマートフォンを取り出し、エリーザにメッセージを送った。
『今日の研究会、面白かったです。エリーザさんの魔法、少しずつ理解できてきた気がします』
数分後、返信が来た。
『レン、アリガトウ! レン、ワタシの魔法、一番理解してくれる人!』
蓮は、笑顔でスマートフォンをしまった。
その夜、エリーザは自分の部屋で、曾祖母の写真を見つめていた。
「曾祖母、今日、大学の先生、ワタシの魔法、研究シタイって言った」
小さく呟く。
「科学の人、魔法、理解しようとしてくれた。嬉しかった」
エリーザは、ペンダントを握りしめた。
「あなたの魔法、日本で、認められてる」
風が、優しく部屋を通り抜けた。
まるで、曾祖母が「よくやった」と言っているかのように。
【付録:呪文の言語学的分析】
呪文の構造と特徴
1. 音韻的特徴
ルーマニア語の呪文は、以下の音韻的特徴を持つ:
母音の豊富さ:a, e, i, o, u が頻繁に使われ、声に出しやすい
リズミカルな構造:多くの呪文が、3拍子または4拍子のリズムを持つ
繰り返しの多用:同じ単語やフレーズが繰り返され、記憶しやすい
例:
「Apă curată, apă vie, spală durerea, adună viața.」
(清らかな水、生きた水、痛みを洗い流し、命を集めよ)
2. 意味的特徴
呪文に頻出する単語:
自然の要素:pământ(大地)、apă(水)、foc(火)、vânt(風)
生命の力:viață(命)、putere(力)、energie(エネルギー)
動詞の命令形:ascultă(聞け)、dă(与えよ)、crește(育て)
3. 文化的背景
ルーマニアの呪文は、以下の文化的背景を持つ:
農村社会の反映:農業、牧畜に関連する呪文が多い
キリスト教以前の信仰:古代ダキア人の自然崇拝の名残
口承文化:文字を持たない時代から伝わる、音による継承
4. 現代科学との接点
最新の研究では、以下の可能性が指摘されている:
音響学的効果:特定の周波数が植物の成長を促進する可能性
心理学的効果:儀式行為が人の行動を変え、結果に影響を与える
プラシーボ効果:信じる心が、身体や環境に実際の変化をもたらす
【第七話 了】
次回、第八話「魔女税ニュースと故郷の友」へ続く。
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