第2話「嬉しい」という名前をまだ知らない
朝の光は、舞台の照明とは違っていた。
柔らかくもなく、暖かくもない。
ただ、窓ガラスの表面に傾いて張り付いているだけの光。
白波柚は、制服の襟を正しながら鏡を見る。
表情はいつもと同じ。
目の奥に揺れはない。
髪の分け目も乱れていない。
(……これでいい。)
“整っている”という感覚ではない。
“変化がない”という確認だった。
家を出て、学校へ向かう道。
街路樹の葉が風にそよぐ音。
誰かが自転車のベルを鳴らす音。
遠くで犬の吠える声。
音は全部、ただの情報として流れていく。
校門。
クラスメイトたちの声が重なり合う。
「昨日の公演やばかったって聞いたんだけど!見たかったー!」
「先輩泣いて帰ったらしいよ」
「白波さんって普段あんまり喋らないけど、舞台だとやっぱ違うんだな」
話題に、自分の名前が含まれている。
しかし、柚は立ち止まらない。
声は、感情ではなく、空気の波だ。
席につく。
机に影が落ちる。
教室は舞台と違って、光の方向が定まっていない。
前の席の少女が振り返る。
三つ編みに小さな花型のヘアピンをつけた子。
「あの……白波さん、本当にすごかったって……」
言葉の途中で、彼女は目を伏せる。
言いたいことがあるのに、うまく言語化できないときの呼吸だ。
「……“泣けた”って言うと、なんか違ってて……でも……」
柚は首を少し傾ける。
「言葉にならない感情は、言葉にしなくても構いません。」
少女は、息を飲んだ。
泣きそうではなく、救われたみたいな顔だった。
「……ありがとう。」
返礼の文脈なのに、
なぜ少女が涙の気配を帯びたのか、柚にはわからない。
ただ、胸の奥が かすかに温かい。
それが “嬉しい” だとは、まだ知らない。
チャイムが鳴る。
黒板にチョークが走り出す。
日常は、いつもと同じ音で始まる。
なのに胸の奥だけが、
ほんの少しだけ、
舞台の光の温度を覚えていた。
昼休みのチャイムが鳴った。
ざわ、と教室の空気がほぐれる。
椅子が引かれる音と、机の上をノートが滑る音。
昼休みは、教室が最も「生活の音」になる時間帯だ。
柚は鞄から弁当を取り出す。
小さなタッパーに、白米と卵焼き。
彩りは少ない。
食べ物に強い興味があるわけではないので、
必要な量を、必要な形で。
「……ねぇ、白波さんさ。」
前の席の三つ編みの少女がそっと声をかける。
昼休みは、声が静かに通る。
「一緒に、食べてもいい?」
柚は、すぐに頷く。
断る理由がないからだ。
拒むという選択肢がそもそも立ち上がらない。
机を寄せる。
昼の光が机の端に落ちる。
舞台照明とは違う、不均一で雑な光。
三つ編みの少女は、少し照れくさそうに笑った。
「……なんか、ごめんね。私、全然しゃべるの得意じゃなくて。」
柚は小さく首を振る。
「わたしも、です。」
少女は驚いたように目を丸くする。
「白波さんって、もっと……こう……感情とか、わかってる人だと思ってた。」
「……理解している、ように見えますか?」
「うん。というか、演技であんなに……」
少女は言葉を探す。
口数が少ない人は、「言葉を選ぶ時間」が丁寧になる。
「……あれは、痛かったのに綺麗で……綺麗なのにさみしくて……」
「“さみしい”という感情は、強いです。」
柚は、当たり前の報告のように言う。
少女は頷いた。
「わかる……」と、息の温度で答える。
その瞬間、
柚の胸の奥が すこしだけ、やわらぐ。
それは——
自分の言葉が、誰かに届いたという事実。
まだ「嬉しい」と名付けられない。
でも、確かにそこに 温度差 が生まれていた。
そのとき。
教室の扉が「ガラッ」と軽く開いた。
「白波さーん、迎えにきましたー。」
声だけで空気が変わる。
光が入ってきた、のではなく、
光の方向が変わった。
黒江日向だ。
教室の数人がざわつく。
「え、知り合い?」「あの舞台の人?」
日向は手をひらひらと軽く上げる。
ふざけたように見えるが、目は真剣だ。
「ちょっと時間もらっていい?失敬〜。」
三つ編みの少女は小さく肩をすくめる。
「……友だち、いるんだね」と言いたげな目。
柚は立ち上がる。
鞄は持たない。
行く理由はわからない。
でも、止まる理由がない。
日向は廊下へ歩き出す。
柚はその後ろを追いかける。
歩幅はまた、自然に同期する。
「弁当、ちゃんと食べた?」
日向が言う。
「半分は。」
「生きていくにはギリギリって感じだな。」
「必要な量は摂りました。」
「そういう意味じゃねぇんだけどなぁ〜〜。」
日向は笑う。
からかっているわけではない。
ただ、空気に“呼吸の余白”を作っているだけ。
地下へ降りる階段。
黒い扉。
舞台練習用の小さなミニシアター。
照明は落とされているが、
舞台の匂いは残っている。
ここには、昨日の残響がある。
日向は振り向く。
「やってみようか。」
「……何を、ですか。」
「“嬉しい”、の練習。」
柚はまばたきを一つ。
その一つが、
胸の奥に 波紋を作った。
「……わたしは、まだ、その形を知りません。」
日向は、笑わない。
真剣だ。
「じゃあ、今から“作る”んじゃなくて、見つけるんだよ。」
それは、指導でも教育でもない。
共犯の宣言だった。
柚は息を吸う。
舞台の呼吸。
胸ではなく、腹で。
ゆっくり、静かに。
そして。
胸の奥で、何かが
ほんのすこしだけ、明るくなった。
名前はまだない。
でも。
それは確かに、ここにある。
ミニシアターの空気は、教室のものとまったく違った。
音が少ない。
埃の粒が光に乗って見える。
床板はまだ昨日の舞台の熱をうっすらと覚えている。
柚は舞台中央に立つ。
立ち方は自然で、無駄がない。
癖がないのではなく、余白で立っている。
日向は舞台の端に腰を下ろしたまま、柚を見ていた。
「じゃあさ、まずは“普通に笑ってみて”」
「……笑う、とは。」
「ほら……口角をこう、上げるやつ。」
日向は自分の口元を指で軽く持ち上げて見せた。
柚はそれを観察する。
唇の形、頬の角度、目の縁の弛緩。
そして、模倣する。
口角を上げる。
頬を、少しだけ緩める。
表面上は、正しい。
しかし日向は首をゆっくり横に振る。
「それは“笑顔の形”で、“笑ってる”じゃない。」
柚は息をひとつ吸う。
失敗、という感情もない。
ただ、情報として受け取る。
日向は次に、舞台の中央へ歩み寄る。
距離が縮まる。
呼吸が交差するところまで。
「じゃあ……こうしてみよう。」
日向は、自分のスマホを取り出した。
柚の手のひらをそっと取って、スマホをその上に置く。
触れ方は軽い。
奪わない。
押しつけない。
ただ、乗せる。
画面には——
昨日の公演の客席の写真があった。
観客が泣いている写真。
頬を覆う人。
袖で目元を拭う人。
息を止めて見つめている人。
柚の手が、ほんのわずかに動いた。
落とさないようにではなく、触れようとして。
日向は言う。
「これ、柚が“やったこと”なんだよ。」
柚は画面を見つめる。
理解ではなく、観測。
「……わたしが……?」
「そう。
誰かの中の、なにかを動かしたんだ。」
“動かした”——その単語が、胸の奥に触れた。
柚は、観客席ではなく、自分の指先を見た。
(……どうして。)
自分は、泣いていない。
感情を動かす意図もなかった。
ただ、
そこに「いた」。
それだけで——
涙が落ちるという現象が起きた。
それは、柚にとって理解できないはずのことだった。
なのに胸の奥が、
あたたかい。
喉の奥に薄い膜が張る。
息が、ほんの少しだけ、浅くなる。
日向は気づいていたが、言わない。
ただ一歩、柚から視線を逸らす。
追い詰めないように。
余白を保つために。
柚はスマホを胸元にそっと引き寄せる。
理由は、わからない。
でも、手放したくなかった。
「それ……」
日向が柔らかい声で言う。
「それが、たぶん——“嬉しい”に近い。」
柚は、目を瞬いた。
涙ではない。
震えでもない。
ただ、胸の奥で、
水がすこしだけ 光った。
「……これが、“嬉しい”……?」
「まだ名前はつけなくていいよ。」
日向は笑わない。
ただ、見守る。
笑うことは、状況を軽くする。
でも今は、軽さはいらない。
「嬉しいってね、
“心が前に動く”ときのこと。」
柚は言葉の意味ではなく、
その呼吸の温度で受け取った。
(心が……前に……?)
自分の胸の奥に、
小さな、透明な波が生まれる。
それは、痛みではなかった。
悲しみでもないし、寂しさでもない。
ただ——
近づきたい。
そう思った。
理由はない。
だからこそ、本物だった。
日向は舞台の端へ戻る。
「……じゃあ、今日はここまで。」
柚は静かに頷く。
けれど、足がすぐには動かなかった。
胸の奥の水面が、
まだ、ゆっくり 揺れている。
ミニシアターを出ると、昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで鳴った。
校舎に戻る廊下は、少しだけ暗い。
窓から射す光が、床に細長い帯をつくる。
柚は歩きながら、胸のあたりに手を置いた。
(……鼓動が、速い。)
運動をしたわけでも、驚いたわけでもない。
なのに、胸の奥が淡く熱い。
温度が、ほんのすこし上がっている。
呼吸が浅くなる。
声が出ないのではない。
ただ、出す必要がない。
日向は階段を上りながら、いつもの調子で言った。
「なぁ柚、今日の帰りさ。
ちょっと寄り道してもいい?」
問いかけは軽い。
けれど、選択肢ではなく“提案”として差し出されている。
柚は、少しだけ考える。
考える、というよりも、胸の揺れを確かめる。
「……はい。」
その返事は、いつもの無機質ではなかった。
音の高さが、半音だけ上がっていた。
日向は気づいていた。
けれど、振り返らない。
気づいたことを言葉にすれば、壊れてしまう瞬間があることを知っている。
廊下の端まで歩いたところで、日向が立ち止まる。
「じゃあまた、放課後。」
手を振る。
軽い動作。
でも、そこに“雑さ”はない。
柚はただ、頷いた。
たったそれだけの会話。
けれど——
教室に戻ると、
三つ編みの少女が机に頬杖をつき、こちらを見ていた。
「あ。おかえり……」
控えめな声。
でも、声に“揺れ”があった。
「白波さん、なんか……さっきと顔が違う。」
柚は瞬きする。
鏡を見なくても、自分の表情が変わっていることはわからない。
「……そう、でしょうか。」
「うん。なんか……あたたかい感じ。」
柚は胸にそっと手を置く。
(あたたかい……)
言われた瞬間、
胸の奥にある波紋が、ふわりと広がった。
言葉はまだない。
名前はまだない。
ただ——
心が、前に動いた。
放課後。
校庭には、夕方の光が散っている。
橙色でも赤でもなく、柔らかい灰色を混ぜた色。
柚はカバンを肩にかけたまま、空を見上げた。
舞台には照明がある。
世界の色は、演じるために用意される。
でも——
今日の空は、演じられていない。
ただそこにある光が、
胸の奥の温度と、静かに呼応していた。
(……これは。)
言葉にならない。
まだなってはいけない。
「嬉しい」だと理解するのは、もっと先でいい。
今はただ、
胸に、小さな光がある。
それだけで充分だった。
校門の外は、夕方の灰色に橙が混ざっていた。
日向はコンビニの袋を片手にぶら下げ、もう片方の手でミニペットボトルを振る。
「喉、乾くでしょ。はい。無糖。」
「ありがとうございます。」
日向は、気づいていた。
白波柚が、感情を言語で処理するのではなく、“観測”で処理する人間だということに。
普通なら戸惑いに費やす時間を、彼は“理解”に費やせる。
驚かず、焦らせず、奪わず、ただ横に立てる人。
その姿勢が、柚にとって「安全な場所」になりつつあることを、日向だけが知っていた。
受け取る指先が、ペットボトルの冷たさでわずかにすぼむ。
柚はキャップを回す。回す音がやけに大きい。
校門の外は車の音が行き交っているのに、耳の手前で静かになる。
「寄り道、こっちね。」
連れられて辿り着いたのは、昨日のホールの隣にある小さな練習館。
観客席が三十ほど、木の匂いが残っている。
舞台は黒い箱。照明は点けない。
「今日は“観客席側”から始めよう。」
日向は最後列の席へ腰を落とす。
柚は隣に座る。
座面が少しだけ軋む音。
空気は乾いている。
「ねぇ柚。昨日、ここから“泣いた”人たちがいた。
君は舞台の“中”で呼吸してた。
今日は“外”で、彼らの呼吸を観る。」
「観る……」
柚は前方の空白を見つめる。
舞台の中央には誰もいない。
けれど、昨日の残像だけが立っている。
日向が小声で続ける。
「舞台上の君は“触れられない三センチ”で客席を揺らした。
外から同じ距離を作れる?」
柚は呼吸を整える。胸ではなく、腹で。
吸う、止める、吐く。
客席の影が、呼吸に応じて少しだけ濃く見える——気がする。
「昨日、七列目の端で袖を押さえた人がいました。」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出る。
視線は空白の座席の一点に落ちている。
「その人は、まばたきが遅い。
涙が落ちるのを止めるためではなく、“落ちる時間を確かめるため”。」
日向は頷く。
声にせず、頷きだけで肯定する。
「四列目の女の子は、口が少し開いていました。
言葉が出なかったのではなく、“言葉が入ってきて欲しかった”。」
「……なんで、わかる?」
「わかりません。見えただけです。」
即答。
日向は笑わない。
笑わないことで、今ここにある感覚の輪郭を壊さない。
柚は前を向いたまま、そっと自分の胸の上で指を組む。
呼吸の拍が少しだけ上ずる。
視界の隅が、淡く明るい。
「——いま、どう感じてる?」
「……胸が、寒くないです。」
「それ、わりと良い言い方だ。」
日向が足元の袋を開ける。
メロンパン。
袋の端を少しだけ開け、半分に割る。
甘い匂いが広がる。
演技でも台詞でもない、生活の匂い。
「食べる?」
「はい。」
半分を受け取る指先がふるえない。
柚は小さく齧る。
舌にのる砂糖の粗い粒、空気を抱いた生地の軽さ。
“うまい”の構造が、舌の上で分解されていく。
——その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
音はしない。
けれど、拍が半拍、前へ転がる。
(……前に。動いた?)
自分の感覚に驚くのではなく、ただ観測する。
“嬉しい”に近いものは、喉の奥に薄い光を置いていった。
日向が座面に肘を置き、斜めに柚を見る。
「ね、柚。」
「はい。」
「君が“外”にいるときのほうが、俺は好きかもしれない。」
柚は横を向く。
距離は近くない。
けれど、視線が触れる。
「——それは、どういう意味ですか。」
「舞台上の君は、刃みたいに綺麗だ。
外にいる君は、刃の鞘が見える。
俺は、鞘ごと好きだって意味。」
柚は一度だけ瞬く。
頬の内側が、気づかないほど僅かに熱い。
「……鞘は、役に立たない物です。」
「鞘がなかったら、刃はどこにも持っていけないよ。」
沈黙。
座席の布が乾いた音で軋む。
光は少しずつ、夜の方へ傾く。
柚はメロンパンをもう一口だけ齧った。
口の中の甘さが、胸の温度とゆっくり混ざっていく。
その混ざり方が心地いいと、はじめて思った。
名前はまだつけない。
——つけられないのではなく、つけない選択をした。
外へ出ると、風は昼よりやわらかかった。
街灯がひとつ、またひとつ点く。
人の話し声、遠くのブレーキの擦れる音、信号の電子音。
日向は歩き出す。
柚は半歩遅れて、同じ拍で歩く。
靴底が地面を押す圧のリズムが、自然に揃っていく。
「このあと少しだけ回り道するけど、いい?」
「はい。」
返事の高さが、ほんの半音だけ上がる。
日向は気づく。
けれど、気づいたことを言葉にしない。
「さっきの“寒くない”って表現さ、すごくいい。
嬉しいって、必ずしも“熱い”じゃない。
“冷えが抜ける”感じの嬉しさもある。」
「……冷えが、抜ける。」
柚は胸の上に軽く手を置く。
肺の動きが浅く早くなる——のではなく、浅くも深くもない“均一”に近づく。
ゼロに戻るのではなく、プラスの地平に着地する感覚。
「黒江さん。」
「ん?」
「今日、わたしは、何かを“上手く”できたのでしょうか。」
歩道の白線を踏みながらの問い。
呼吸は乱れていない。
ただ、確かめたいという意志が、声に滲む。
日向は歩幅を少しだけ狭め、横に並ぶ。
「できたよ。
“できた”って言葉が嫌なら、
“見つけた”でもいい。」
「見つけた……」
柚は空を仰ぐ。
まだ青が残っている。
深い藍ではなく、薄い群青。
そこに、街灯の橙が少し流れ込む。
(見つけた。)
胸の奥で、その言葉がゆっくりと沈む。
沈んで、底に届かず、浮力を持ったまま留まる。
沈殿ではなく、滞在。
横断歩道。青に変わる。
二人で渡る。
風がふっと抜け、柚の髪が頬に触れる。
その髪を耳に掛ける仕草が、これまでより少しだけ柔らかい。
「ところでさ。」
日向が思い出したように言う。
「明日の放課後、客演の現場見学があるんだ。
行く?行かない?選べるようにしたい。」
選べる、の言い方。
押し付けない。
けれど、差し出されている手は確かにそこにある。
柚は足を止めない。
止まると、いま胸にある温度が形を失う気がしたから。
「……行きたい、です。」
その声はいつもの平坦さとは違っていた。
わずかに、音が前へ出ている。
柚はまだ気づかない。けれど身体は、もう“誰かの声に応える”温度で動き始めていた。
“行く”ではなく“行きたい”。
欲求の文法で言えたのは、初めてだった。
日向は横顔を見て、なにも言わずにひとつ頷く。
それは「正解」の合図ではない。
同行の合図だ。
駅前の広場に出る。
噴水の水音が、低く丸い。
子供が走る音、ベビーカーの軋む音、夕飯の油の匂い。
日向が立ち止まる。
「じゃ、今日はここまで。
帰り道、気をつけて。」
「黒江さんは?」
「俺は映像資料返してから帰る。
また明日。」
手を軽く上げる。
“バイバイ”ではなく“またね”の高さで。
柚は頷く。
別れの合図を受け取ってから、数歩だけその場に残る。
胸の拍が、ゆっくり落ち着く。
それでも完全には元に戻らない——戻らなくていい。
ポケットの中でスマホが小さく震えた。
画面を見ると、メッセージがひとつ。
《さっきの“寒くない”って表現、メモった。
言葉としてすごく綺麗だった。》
読むだけで、胸の中の光がすこしだけ強くなる。
頬の内側が、ほんの僅かに温い。
表情は大きく変わらない。
それでも、身体は反応している。
柚は打つ。
指が、まっすぐに動く。
《……ありがとうございます。
明日、行きたいです。》
送信。
すぐに返事は来ない。
来なくていい。
来ない時間が、胸の中の温度をそっと育てる。
帰り道、足取りが少しだけ軽い。
靴の底が地面から離れるタイミングが、半拍だけ早い。
それは誰にも見えない差——だけど、本人の身体には確かだ。
(……寒くない。)
言葉にしてみる。
声には出さない。
出さないまま、胸の内側だけで鳴らす。
嬉しいという語を、使わない。
嬉しいを、いまはまだ借りない。
ただ、寒くない。
それで、充分。
これは恋ではない。
まだ名前を与えてはいけないもの。
けれど——
心というものはいつだって、
こうやって、
静かに、静かに、
誰かの方へ“傾き始める”ところから始まる。
柚は小さく息を吸い、吐いた。
舞台の呼吸ではない。
生活の呼吸。
自分自身の呼吸。
夜が、やわらかく降りてくる。
街灯の光が道に落ち、靴がその上を踏む。
影は重ならない。
けれど、同じ方向を向いている。
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