泣かない女優と、光みたいな君

桃神かぐら

第1話 白い光の下で

涙が落ちた。


客席の暗がりで、私はそれに気づいた。

自分の頬を伝ったのだと理解するまでに、わずかな時間が要った。


自分の頬を伝ったのだと理解するまでに、わずかな時間が要った。舞台上の少女は、泣いていない。泣き方すら、知らない顔をしているのに、こちらだけがじわじわと崩れていく。


白い光が、無音の雪のように舞台中央へ降りていた。

照明の境目で空気がゆらぎ、木目の床が浅く光る。客席は息をひそめ、背もたれが一斉にわずかだけ軋んだ。誰も咳払いをしない。音は、呼吸しかない。


少女——白波柚(しらなみ・ゆず)は、眠る母のベッドの横に立っていた。

顔は正面ではない。肩の線だけが見える位置取り。頬の影、まつ毛の端に光が沿う。表情は、ありふれた石の表面みたいに変わらない。だが、動かないのではない。動かす必要がないのだ、と観客は直感する。


彼女は、一度だけ呼吸を変えた。

吸う。止める。吐く。

吸う一拍が短い。止める一拍がわずかに長い。吐く音は喉の奥で消える。数字に換えれば0.7、1.1、0.9。そんな無意味な単位で測りたくなるほど正確で、正確なことが恐ろしくなるほど人間的だった。


柚は手を伸ばす。

眠る母の手へ、触れる軌道。薬指の第一関節に、光が一瞬だけ乗る。皮膚ではなく、爪の縁に反射が立つ。観客が息を飲むその瞬間、指先は静止した。


三センチ。

指と指の間に、息ひとつぶんの距離。

そのわずかな空白が、何年もの暮らし、飲み込めなかった言葉、言えなかった「おやすみ」をまとめて預かってしまう。距離が、時間になる。空間が、記憶の重さになる。説明は要らない。沈黙が、脚本の代わりをしている。


泣き方を知らない娘の役。

泣かせるためではなく、泣かなかった事実の重さだけを置く役。

柚は、まぶたを閉じない。閉じないという選択が、観客の涙腺をこじ開ける。まぶたの内側に逃げ道を作らない。それがこの舞台の残酷で、優しい礼儀だ。


袖の暗がりから、看護師役が一歩だけ覗く。音にならない足音。舞台の端で止まり、物語の邪魔をしない場所に沈む。柚は気づかない。気づかないように見せる演技ではない。ほんとうに、目の前しか見ていない。


呼吸がもう一段、深く潜る。

胸郭は動かさず、横隔膜だけをわずかに震わせる。吐息の温度が変わると、照明の中で白が薄く濁る。観客の頬を伝う涙にも温度があり、冷たさが遅れてやってくる。

舞台の上と下で、温度の地図が静かに重なる。


柚は、手のひらを反転させる。

握る形ではない。撫でる形でもない。受け取る形。

触れられなかった日の夜と、触れようとしなかった朝のすべてを、掌の「凹み」に置く。そのまま、置く。置きっぱなしにする。演劇は、動かすより置くほうが難しい。


観客席の七列目、端の男性が袖で目頭を押さえた。

四列目の女の子は、口を開けたまま涙だけをこぼす。五十代くらいの女性は、視界の焦点が合わず、白い照明が滲む。誰も声を出さない。声帯が、物語の外にいる。


柚の視線が、母の額から、口元へ、そして喉のくぼみへ順に降りていく。筋肉の起伏をなぞる医者のように、必要な箇所だけを見る。そこに愛はあるのか、と問われれば、観客はあるともないとも答えられる。

——だから泣く。


三センチが縮まらない。

舞台袖の黒い時間が一秒ずつ増えていく。

その一秒ごとに、観客の胸の底に砂利が一つ落ちる。音はしない。けれど重くなる。積み上がった砂利が心臓の鼓動に触れて、拍が少しだけ、遅れる。


柚は姿勢を崩さない。肩は上がらず、首は傾かず、背中はどこにも寄りかからない。自立して立っていることが、こんなにも痛い。

誰かを支えたいと願うより先に、支えられなかった自分の重さに向き合ってしまう。そこに台詞を入れれば、たぶん易しくなる。けれど、易しくしないことが、何よりの誠実だ。


暗転が、来る。

誰かが合図したわけではない。舞台監督のキューが正確で、正確すぎて、世界が消える音がしない。光がふっと失せる瞬間、柚の指先はまだ三センチを保っている。終わっても、届かないものは届かない。そこに救いがないからこそ、現実が入ってくる余地が生まれる。


沈黙。

心拍は舞台の外に追い出され、観客はそれぞれの胸で自分の音を聞く。


  拍手は、遅れて始まる。

 一つ、二つ。遠慮がちで、でも確かな音。やがて波になる。


 黒江日向は、袖の影に立っていた。

 観客ではなく、舞台の“外側”にいる人間として。


 ——気づいてしまった。


 白波柚は「泣かせていた」のではない。

 「泣かないこと」そのものが、観客の胸の形を変えてしまっていた。


 三センチの距離。

 触れられなかった指先。

 閉じなかったまぶた。


 あれは演技ではない。

 感情の模写でもない。


 生きているまま舞台に立てる人間だ。


 そんな人間は、滅多にいない。

 努力で届く場所ではないし、技術では制御できない。


 日向の胸の奥で、ひとつ呼吸が凍った。


 惚れたのでも、憧れたのでもない。

 これは——畏れだ。


 世界の方が、彼女に合わせて形を変えた。

 そう思った瞬間、もう元には戻れなかった。


 世界の方が、彼女に合わせて形を変えた。

 そう思った瞬間、もう元には戻れなかった。


一つ、二つ。遠慮がちで、でも確かな音。やがて波になる。どこかで鼻をすする音。どこかでハンカチが擦れる音。溶け出した時間を拾い集めるみたいに、音の粒が客席を往復する。


幕が下り切っても、まだ数人の手のひらは宙に残っている。

名を呼ぶ代わりに、音でしか「よかった」を渡せない人たち。

舞台は、その不器用を受け取る容器だ。


白波柚は、泣かない。

ただ、立っていた。

泣き方を知らない娘の役を、泣き方を知らない少女が演じていた。

それは欺瞞ではなく、偶然という名の真実だった。


やがて照明が現実の黄を取り戻し、幕が表情を失っていく。

観客が席を立つ。肩越しの視線が舞台へ戻る。置き忘れた何かを探すように。探しても見つからない。三センチが、客席まで伸びているからだ。


——物語は閉じた。

けれど、息はまだ、誰の胸の中でも続いている。


幕が完全に降り、照明が現実の色へ戻った瞬間——

空気が、ほんの少しだけ「固まった」。


舞台裏には、いつもならすぐに響くはずの声がなかった。

「おつかれ」

「よかったよー」

「次の段取りなんだけどさ」

そういう生活の音が、今日に限って出てこない。


白波柚は、舞台から下りたあとも、まだ舞台の呼吸をしていた。

肩が上下しない呼吸。

喉の奥で静かに吸って、静かに吐く。

それは「終わった後」ではなく、「まだ終わっていない」呼吸だった。

肩の高さも、指の角度も、役のままだった。身体だけが、まだ物語に残っていた。


肩が上下しない呼吸。

喉の奥で静かに吸って、静かに吐く。

それは「終わった後」ではなく、「まだ終わっていない」呼吸だった。


誰も、その空気の中へ不用意に言葉を投げ込まない。

共演者たちは柚を見ている。

敬意——だけではない。

畏れが混じっていた。


ヒロイン役の先輩女優が、手についた汗をタオルで拭きながら言う。


「……ねぇ。あれ、台本にそんな指示あった?」


声は小さいが、真っ直ぐだった。


音響スタッフが首を振る。


「ない。

“触れられない距離”までは書かれてたけど、

あんな“触れられない理由”を感じさせる演技じゃなかった。」


メイク担当がぽつりとこぼす。


「泣いてないのに、泣いちゃう子……本当にいるんだね。」


その言葉は褒め言葉ではない。

現象の報告だった。


柚は、それらの声を聞いていない。

聞こえないのではない。

ただ、意味として受け取っていない。


彼女の視線は、まだ「舞台の中」を見ていた。

現実の線に戻ってくる途中の瞳だった。


(……終わった。)


そう気づくのに、十数秒かかった。


ふと、指先を見下ろす。

まだ三センチの空白の感覚が、そこに残っていた。

触れなかった手は、触れなかったまま、掌に形を残す。


——そのとき。


空気を変える声が、舞台袖に滑り込んできた。


「やっっっば。今日の君、天才か?」


明るい。

けれど、その明るさは雑ではなかった。

照明の後ろに隠れていた「光の粒」がそのまま人型をとったような声。


黒江日向(くろえ・ひなた)。


映像志望。裏方でも表に立つでもない。

立ち位置は曖昧なのに、空気にだけは輪郭がある男。


彼は舞台袖の縁に寄りかかりながら、柚を見ていた。

驚きの顔ではない。

理解しようと目を開けて見ている顔だった。


柚はゆっくりと首だけを向ける。


「……天才、とは?」


その声音には、誇りも照れも受容も拒絶もない。

ただ、意味を確認しているだけの、透明な声。


日向は笑った。

口角だけが上がる軽い笑いではない。

胸の奥で息が震えてから、やっと外に出た笑い。


「そのまんまの意味。

心、掴まれた。

なんで? なんで泣いてないのに泣かせるの?」


共演者たちが息を止める。


この問いは、本当は全員が喉まで出かけていた言葉だった。

でも、怖かったから言えなかった。


柚は一拍だけ考える。


「泣かせようとは、していません。」


「そこなんだよ!! そこがヤバいんだって!」


日向の声は明るく弾んでいるのに、

目は、まっすぐだった。


「で、“あれ”はなに?」


“演技”でもなく、

“表現”でもなく、

“才能”でもなく。


柚は、静かに言った。


「……観客の方々の、悲しみを見ていました。」


ざわり、と空気が揺れる。


言葉は優しくない。

残酷でもない。

ただの事実として落ちる。


他人の悲しみを“見る”という行為は、普通はできない。

感じる、共感する、寄り添う。

そこまでは人間の領域だ。


でも、“見る”は違う。


日向は、震えなかった。


むしろ、瞳の奥が光った。


「——じゃあさ。」


一歩。

日向は柚との距離を詰める。


間合いに迷いがない。

光は影へ踏み込むのを恐れない。


「これから、俺にも見せてよ。」


舞台の余韻ではなく、現実の中で言った言葉だった。


柚は、まばたきを一度。


「……あなたの感情は、明るすぎて。

まだ、うまく模写できません。」


日向は、微笑んだ。


「じゃあ、ゆっくりでいい。

俺、明るいの得意だから。」


その笑顔は、ただの元気ではない。

人を照らすためではなく、

隣に立つための光。


柚は、まだそれを“優しさ”とは呼べない。


ただ、胸の奥の水面が、すこしだけ揺れた。


それは、自分では気づけない揺れだった。


劇場を出ると、夜風が肌の上をすべっていった。

街灯の光は白でも黄でもなく、曖昧な橙色で溶けている。

都市の夜は、舞台と違って“意味のない明るさ”で照らされている。


日向はポケットに手を入れながら言った。


「さっきの……やばかったな。」


歩幅は大きい。

リズムは軽い。

呼吸は表で吐いて、表で吸う。

“外の人間”の呼吸。


柚はとなりを歩く。

歩幅は日向に合わせているのではない。

日向の歩幅を“なぞっている”。


テンポ差がちぐはぐにならず、

呼吸のリズムが勝手に同期していく。


「何が“やばい”のでしょう。」


柚の声は、夜風とは逆向きに吹く。

音が柔らかく広がるのではなく、

真っ直ぐ日向の耳まで届く。


「“触れられない”ってさ、いちばん泣けるじゃん。」


日向は笑いながら言う。

それは分析ではなく、実感としての言葉。


柚は横顔を見上げた。

距離——近い。


ほんの数十センチではなく、

声が触れられるくらいの距離。

日向の呼気が肌に届いてもおかしくない。


日向は一歩、自然と後ろに下がる。


「ちょ、近くない?君さ、距離感って概念ある?」


「あなたの表情は、近いほうが見えます。」


「いや、見るなとは言わないけど……物理のほうね!?パーソナルスペース!!」


柚は静かに瞬きをする。


「……“心の距離”と“身体の距離”は、同じではありませんか?」


日向は言葉を止めた。

声ではなく、表情で。

驚いたわけでも、困ったわけでもない。


ただ——


「君、すげぇな。」


と、心底から言った。


それは呆れではなく、賛辞だった。


信号待ち。

赤の光が二人の影を足元に落とす。


日向はポケットからガムを取り出し、口に放り込む。


「柚ってさ、普段はどんな感じなん?」


「普段……?」


問われて、柚はほんの少しだけ考える。

“普段”という概念を、言葉では説明できない。


「わたしは、いつも、同じです。」


「あー……そっかぁ〜……」


日向はガムを噛みながら空を見上げる。

夜空は、ビルの光に奪われている。

星はほとんど見えない。


「なぁ、柚。」


「はい。」


「演技、好き?」


質問は軽い。

けれど、答えは軽くない。


柚はゆっくりと呼吸を整える。

胸ではなく、腹で呼吸する。

舞台上と同じ、無駄のない息。


「……“好き”という感情の形を、まだ知りません。」


日向は笑わない。

馬鹿にもしない。

否定もしない。


ただ、受け止める。


「じゃあさ。」


信号が青に変わる。

歩道を渡りながら、日向は言う。


「“わかるまで”一緒にやろうよ。

演技も、現場も、感情も。

全部。」


柚の足が止まる。

日向は、止まったことに気づいて振り返る。


街の音が遠のく。

夜風が、柚の髪の端を揺らす。


柚は、まだ言葉の形にならない感情を、

喉の奥に置いたまま、ゆっくり息を吸う。


「……あなたは、わたしに感情を“教える”のですか?」


日向は首を振らない。

頷かない。

ただ、前に出て、柚との距離をそっと縮める。


三センチの逆。

近づきすぎない、けれど離れない距離。


「教えるんじゃなくて、隣にいる。」


柚のまばたきが一回。


それは、理解ではない。

ただ——受け取った証。


「……それは、未知です。」


「未知、いいじゃん。面白い。」


柚は、気づかない。

自分が今、小さく笑ったことに。


日向は、気づいていた。

普通なら戸惑いに使う時間を、彼は“理解”に使える人間だった。

驚かず、指摘せず、奪わず、ただ見守る。


夜風が通り抜ける。

影が二つ、並ぶ。


重なりはしない。

でも、同じ方向へ伸びている。


部屋に戻ると、窓の外はまだ夜だった。


冷たい空気が残る部屋。

蛍光灯の白が、壁に硬い影を作っている。

舞台のライトは暖かかったのに、現実はいつも冷たい。


鞄をベッドの上に置きながら、柚は思った。


(……本当に、終わったのだろうか。)


舞台の幕が降りても、

心の内側にはまだ“役”の残響が残っている。


しかし、今日は違う。


心に残っているものは——

共演者でも、観客でも、台詞でもない。


(……黒江さん。)


胸の奥が、水面みたいに すこしだけ揺れる。


その揺れに、柚は気づいていない。

だが、身体は反応していた。


鞄の中。

公演パンフレットの裏表紙。

そこに書かれた「演出助手:黒江日向」の文字に、

指先がそっと触れていた。


なぞるでもなく、掴むでもなく。

ただ、“触れて”いる。


なにも考えていない。

なにも理解していない。


けれど、離れない。


そのとき、スマホが小さく震えた。


一通のメッセージ。


《今日の君、すげぇ綺麗だった。》


文末に絵文字はない。

軽くも重くもない。

ただ、まっすぐだった。


柚はそれを三度読み返す。

意味を解くためではなく、

感情を“探す”ために。


しばらくして、指が動いた。


《……そう、ですか。》


送信。


それだけ。

それ以上は、なにも書けなかった。


しかし、画面を伏せようとしたとき——

胸の奥が、また すこし揺れた。


理由は、まだない。

言葉にもできない。


ただ、確かにそこに 変化があった。


柚は、窓の外の夜を眺める。


街灯の光が遠い。

星は、見えない。

けれど。


(……明るい人。)


思わず、心が名前を呼んだ。


そのとき。


初めて、ほんの一瞬だけ。

唇の端が、ごく小さく、丸く上がった。


自分では、気づいていない。


けれど確かに、それは——


“始まり”の笑みだった。

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