『床にカルピス飛ばしちゃって』りる 第五話

 席から立ち上がった月名心音さんは巾着型のバッグを席の横に置いていた。彼女は白いセーターに黒のふわりとしたロングスカートを履いていた。


 「ごめんね、待たせて」

 「いえ、私もいま来たところですから」

 「食事は?」

 「まだなんです」 

 「何か食べてく?」

 「はい、お腹空いちゃって」

 僕らはメニューを広げた。月名さんはドリアとサラダを、僕はとんかつラーメンを頼んだ。

 「珍しいものを頼みますね」

 「わりと美味しいよ。トンカツにラーメンのスープがしみしみで」

 「あ、私サクサクのとんかつが好きで」

 「まあフツーそうだよね。なら、お茶漬けとんかつとかも食べられないね」

 「お茶漬けとんかつ?」

 「ご飯の上にとんかつを乗せて、出汁の効いた温かい汁をかけるんだ。お酒を飲んだ後の締めとかにいいよ」

「無理。私、無理です。カツ丼も無理ですから。カツがしっとりしてて」

 「そうだろうね」

 僕は苦手なミミズを見たような、月名さんの渋い表情を見て、笑ってしまった。でも、手のひらに太陽をの歌詞は、ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、と生物のチョイスがちょっと変だ。


 いや、僕は何を話しているのだ。

 

 月名さんはサクサクのとんかつが好きなのに、スープにしみしみで、ひたひたのとんかつラーメンを頼んだ挙句に、しみしみでひたひたのお茶漬けとんかつの話までしてる。彼女にとって気が遠くなるくらい、気持ちの悪い話をしているのだ。スープの上でぐちゃぐちゃになったとんかつ。彼女にとって、それは吐瀉物と変わらないくらい気持ちの悪い物かもしれない。


 僕は月名さんに気持ちの悪い思いをさせてしまった。それも嬉々として。


 相手の嫌がることを言う。これはモラハラだ。もし月名さんが、これから来るとんかつラーメンのぐちゃぐちゃなとんかつを思い浮かべて、吐き気をもよおしたとしたら、パワハラだ。会社の後輩が断れないからと、目の前で彼女が苦手なぐちゃぐちゃなとんかつを口に入れて、ぐちゃぐちゃと食べるなんて、口に入れた時点でセクハラだ。 


 僕はまたセクハラをしてしまった。

 ぐちゃぐちゃなとんかつを口に入れて。 


 これは挽回しないといけない。なんて言えばいい? 一語間違えたたけで、ズルズルとセクハラのアリジゴクに沈んでいく。ヤバい、アリジゴクがもう僕の右足をつかんでる。砂に沈めようとして。


 僕は話を変えようと、

 「さっき言ったことって、本気?」月名さんは私のことを世界で一番好きになってと言った。僕はそのことをさりげなく訊いたのだ。


 「さっきのことって、なんですか?」

 ヤバい。アリジゴクに足を引っ張られ、もう鼻までまで砂に沈んでしまった。鼻で息をすると砂が飛ぶ。


 なんですか? と聞かれて、だってさっき私のことを世界で一番好きになってと言ったじゃないですか、それって違うんですかー? と聞き返せるほどおバカになれる僕ではいない。


 彼女のなんですか? で、さっきの話を蒸し返すことが不可能になった。彼女が思い出してくれるまで。


 「いや、ごめん。なんでもない」

 僕はそう言って、「あ、ドリンクバー行くけど、何か取って来る?」と話をごまかした。


「私はまだ大丈夫です」

 僕はドリンクバーに向かった。グラスを手に取るが、動揺してるからか、手からすべって床に落ちてしまった。


 このグラス使いたくない。


 もし、そっとこのグラスをグラスの置いてある場所に戻して、新しいのを使ったら人の道をはずれてしまう。モラハラして、パワハラして、セクハラして、その上、人の道をはずれるって。マジで外道だ。


 やっぱりこのグラスを使おう。

 

 僕はグラスに氷を少し入れ、カルピスを入れた。が、思いのほか入れてしまい、表面張力で盛り上がるくらいの量になってしまった。


 なんでそんなに入れてしまったのだ? 

 

 動揺してるのか?モラハラ、パワハラ、セクハラと、まるで三拍子のように両手を叩いて鳴らしてる、その音に驚いたのか? 誰がそんな三拍子で手を鳴らすのだ。ただの幻聴だ。  


 いや、三拍子の音が聞こえる。


 確かに聞こえる。足元だ。見ると小さな子どもがトイレから出て両手を三拍子で叩きながら、歩いている。洗った手を叩いて乾かそうとしてるのか?


 だとしても、なぜあんな小さい子供が三拍子で両手を叩きながら歩いてなきゃいけないのだ! 僕は表面張力のカルピスに口をつけて飲んで減らそうとした。床に表面張力分の液体を飛ばしてしまった。


 床にはカルピスのシミがついている。


 カルピスを飛ばしてしまった。


 僕は歩いてきた女性の店員さんに「ごめんなさい、あの、床にドリンクこぼしたので、何か拭くものありますか?」と訊いた。


 その10代くらいの店員さんは、そのシミと僕を見て、「あ、拭いておきますから大丈夫ですよ」と笑顔で言った。 


 飛ばしたカルピスを、知らない女の子に拭いてもらう。そんなこと出来ない。


 「いや、自分で処理しますから」

 「いえいえ、大丈夫ですから」

 

 この女の子に、あのカルピスが僕の1回の分量だと思われたくない。自分で後始末したかった。そうだ、ティッシュで拭けば良かったのだ。5枚くらい使って。


 あの子はどんな思いであのカルピスを拭くのだろう。


 ああ、もうダメだ。帰ろう。席に帰ろう。

 僕は精神的にボロボロになりながら、席に戻った。 


 「遅かったですね」

 「うん、床にカルピス飛ばしちゃって」

 月名さんは僕の手に持ったグラスを見た。僕のカルピスを見られた。それを床に飛ばした。彼女は思考を巡らせる表情をした。


 セクハラではないか。

 完全なセクハラではないか。


 カルピスを飛ばした。聞く人によっては看過できないほどのパワーを持つフレーズだ。なぜドリンクをこぼしたと言えなかったのだ? 悔いが残る。


 「ごめん、本当、ごめんね。セクハラだよね。これってセクハラだよね」 

 月名さんは困った顔をして、  

「どの部分がですか?」

 「飛ばした部分」

「どうやって飛ばしたんですか?」

 

「ごめん、飛ばしたっていうのは言葉のあやで、カルピスを床にこぼしただけ。それだけ。それを店の女の子に拭いてもらっただけ」 

 言った途端に気がついた。飛ばしたカルピスを店の女の子に拭いてもらうなんて。


 月名さんもそこに食いついてきた。


「カルピスを女の子に拭いてもらった?」 

「違う違う、そうじゃない。床にこぼしたカルピスを女性の店員さんに拭いてもらったってこと」 

「自分が飛ばしたカルピスを、女性の店員さんに処理させたんですか?」

 処理。その言葉は今はキツイ。

「いや、拭くものありますかって、その女性店員に聞いたら、拭いておきますから大丈夫てすって、言われて」

「それで、他人任せにしたんてすか? 自分のカルピスを」

「えっ?」

「自分のカルピスを飛ばしといて、放置したんですね」彼女の言葉は詰問調だった。

「飛ばしたというか、実際はこぼしたんだけど」

「同じです。あなたがカルピスを飛ばしたことと、

多彩玲奈が死んだことは同じことなんです」


 多彩、玲奈。


「玲奈が死んだ時もあなたは何一つ責任を取ろうとしなかった。あなたはなぜ玲奈が一緒に死のうって言った時に、止めなかったんですか? なぜあの時止めずに、一緒に死のうなんて言ったんですか? あれで玲奈はブレーキが効かなくなったんですよ。もう死ぬ方へ死ぬ方へと舵を切ってしまった。大人のあなたがなぜそれを止めずに、世界で一番好きな人の隣で死にたいなどと子供みたいなことを言ったんですか? それが大人のすることですか? 玲奈はあなたがいなかったらまだ生きていたんですよ。玲奈はあなたとの最後の通話を録音していた。それが復元されたんですよ。あなたは玲奈の自殺を止めたんじゃない。僕が行くまで待ってて、一人で死なないでって言っていた。一緒に死のうってことでしょう! あなたがただ、玲奈の自殺を止めていれば、こんなことにはならなかったんですよ。あなたが玲奈がいるビルまで行くとか言い出したから、あなたを巻き沿いにしたくないから、死ぬのを早めたんですよ。あなたが殺したんですよ、あなたがビルから飛ばしたんですよ、多彩玲奈を。今カルピスを飛ばしたみたいに。そして後は人任せにした。本当に最低ですね」


僕は言葉も出なかった.。


「玲奈と私は友達だった。だからお祭りの時も玲奈の姿をスマホで撮った。そこにあなたも映ってた。あなたとクリスマスにオーバードースで死ぬってことも聞いてた。止めましたよ。私は必死に止めた。でもダメだった。玲奈はあんたのことが本当に好きだったんだよ!」


 僕は何も言えなかった。2人が注文したドリアとサラダととんかつラーメンが来た。それらがテーブルに置かれてる間、彼女は何もしゃべらなかった。


「それを私が玲奈と同じ髪色と同じ赤い眼鏡をかけて、世界で一番好きになって、とか言ったら、すぐ会いに来てる。おかしくないですか? それって!」


 もうアリジゴクに砂の奥の奥まで引きづり込まれて、僕は言葉を発せない。


「佳純さん。あなたの世界で一番好きな玲奈は一人で死んだんですよ。かわいそうに、あなたと奥さんを巻き込みないように。あなた玲奈と同じことして下さいよ」

「えっ?」

「死ねってことです。一人で死んで下さい。玲奈と同じことをして。そうじゃないと私は許さないですから。あなたが心中用に薬を大量に用意していたことも、この電話の会話の本当の意味も、警察に伝えますから」


 僕は月名さんの目が見られなかった。

 世界で一番好きな多彩さんに似ている、僕を責め続ける月名さんの目が。

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