2 本物の皇帝陛下

 赤みを帯びた黒い髪、炎のように揺らめく青い瞳、白い肌。単純な色味はタイヤンジーグァに多いと聞くが、髪が赤みを帯びるのも、瞳の色が炎のように揺らめくのも、皇帝となった者だけ。

 長身痩躯、精悍な顔立ちと鋭い目つき。

 もしやと思っていたが、目的の存在は本当に皇帝陛下だった。

 ホィエンシュエと瓜二つ──これまで目にしていた『ホィエンシュエ』は影武者なのだから、そっくりで当たり前かとフォロリタは改めて思う──その彼が、肩をすくめる仕草さえ。

 彼女を笑顔にさせる。可笑しくて楽しくて、笑いそうになる。


「本当に人間みたいですね。あの時とか神獣の姿と全然違いますし。ある程度は人間なんでしたっけ」

「力を受け継いだだけで、もともと人間だ。あの時の説明も一応しただろう。君も死んでしまったのかと思って、滅びの闇に呑み込まれるよりは食ったほうがマシかと、誤って食いかけたと」


 眉間を揉むホィエンシュエが、「それで」と疲れた声を出す。


「悪いが、あの時も含めて、今までの君の境遇に謝罪や同情は示さない」


 そんなものは必要ない。フォロリタが笑顔で礼を述べると、彼はまた疲れたようにため息を吐いた。


「……好きに動いていいと伝えた結果、本人に辿り着いた妃は今のところ君だけなんだが……皇后になる気はあるか?」

「ないですね。全く。全然。なれという命令なら、なります」


 笑顔で応えたら、ホィエンシュエは苦々しい表情になる。


「……では、今から君は『形式上』の皇后だ」

「かしこまりました。精いっぱい務めます」


 跪こうとして、止められた。


「わかっているのか? 形式上、形だけだ。権限も最低限のものしか使えない、お飾りの皇后だ」


 それに、と続けられる。


「君と同様に皇帝本人へ辿り着く妃が出ないとも限らない。その中から適していると判断された者を、最終的に『正式な皇后』として迎える。そういう規則で伝統だと、今この口で伝えたんだが。その辺りもわかった上での承諾か?」


 言われた言葉に、フォロリタはまた笑ってしまった。


「承諾するものではなく、命令として受けたはずですけど。あなたのためになるのなら、命令ではなく承諾として受けます」


 頭痛でもしているように顔をしかめた彼へ、


「私より適している方は山ほど居ますし、私が辿り着けたのは偶然だと思います。2年後、23歳で決めるのが『規則で伝統』なんですよね? 私が皇后になっている期間なんて、思い返したら一瞬ですよ」


 気を落とさないでくださいと笑顔で伝えたら、タイヤンジーグァの皇帝陛下は額へ手を当て、低く呻くように言う。


「君くらいだろ……呪われた廟所に居る『化け物』に臆することなく、笑顔で話しかけるのは……」


 化け物。人間のホィエンシュエや神獣姿ではない、あの時の姿。

 それらしい影を見つけたと喜んだ瞬間、彼女へ襲いかかる物真似を軽くしてきた、あの姿。


「そんなことないと思いますよ?」


 明るく応じたフォロリタに、ホィエンシュエが驚いたように目を見開く。


「化け物というより、可愛いと思います。事情を知らなくても、話しかける方は居るかと」

「……可愛くはない……化け物に見えなくても、可愛くはない……先行きが不安だ……」


 額に手を当て呻く彼が、壁に背を預ける。

 人間、神獣、彼が『化け物』と呼ぶ姿。それぞれが壁に描かれているこの廟所は、タイヤンジーグァを国として成立させた始祖王の霊廟だという。

 帝国になる前の王の墓だから、陵ではなく霊廟。

 その壁に描かれている姿も、先ほど見た姿も。──あの時も。

「可愛いと思いますし、どんな見た目でも『救う存在』なのは変わりないかと」


 本質がどうであれ、彼は救うために動いている。

 現に、自分は救われた。滅びに向かう世界も、彼が食い止めているから、まだ滅んでいない。

 世界に残る『秘宝の欠片』が、自分を救ってくれた彼が、世界を救うことを望むなら。

 固まったように動かず自分を凝視するホィエンシュエへ、フォロリタは笑顔を向けた。


「あなたのために、形式上の皇后として努力していきます」


 妃たちに序列はなく、全員が平等に扱われる。皇后だけが抜きんでている存在とされるが、家格や能力で見えない優劣の差は確実にあり、日頃から派閥争いが絶えない。

 先代皇帝が崩御し、彼は10歳で皇帝となった。現在、先代から引き取った女性たちも合わせ、妃の人数は2000人を軽く超える。彼が皇帝となってから生まれた皇子は10人以上、姫の人数は30人以上。

 幼くして不幸に見舞われ、亡くなった皇子や姫もいるが、生きている者もいる。彼は皇帝であり、皇子や姫は皇帝の子どもだ。

 皇子たちや姫たちのためにもと考える彼女は、笑顔でホィエンシュエを見つめる。


「……不安だ……」


 動き出したと思ったら、彼は顔を俯け、苦悶の雰囲気でため息を吐く。


「不安なのは同意しますが、私は形式上の皇后で終わると思いますよ? それほど思い悩むこともないのでは」

「そうではなく……いや、それに関することだが……なんにしても不安だ……こうなると思ってなかった……」


 俯いたまま重々しく息を吐く皇帝陛下を見て、フォロリタはまた笑う。


「世界だけでなく、私の今後も気にかけてくれるんですか? 本当に全然、化け物なんかに思えません」

「不安が増した……」


 額に当てていた手で目元を覆い、何かを諦めたように小さく呟いたホィエンシュエ。国や世界を憂う彼の脳内には、頭の足りない彼女では思い描けない苦悩が、それこそ山ほどあるのだろう。

 だからこそと、彼女は思う。

 だからこそ、彼の力になりたい。

 自分を救ってくれたあなたへ、あの時の感謝を伝えられた。

 感謝を伝え、満足した。あなたの好きにと言った自分へ、あなたは死や悪夢ではなく『役目』を与えた。

 彼女に生きる目的を与えた。

 形式上の皇后という役目を全うする。

 自分より『皇后』に適した存在が、あなたを見つけ出すまで。

 人間であり、神獣であり、あの時の姿を化け物だという彼の。

 刹那の間だろうけど、力になれる。


「私、今、とっても幸せです。他でもないあなたのために、少しでも何かできるなんて。救ってくれたあの時も夢のようでしたけど、上回るくらい夢のようで幸せかもしれません」


 フォロリタが喜びの笑顔で伝えると、僅かに顔を上げてうかがうように彼女を見ていたホィエンシュエは目を伏せて再び俯き、困り果てたように呻く。


「本当に……不安になるから……少し抑えてくれないか……」

「不安にさせて申し訳ありません。何をどう抑えればいいか、教えてください」


 頭の足りない彼女には、人間らしいやり取りは難しい。率直に聞くほうが、彼のためになると考えた。


「いや、もう……悪い……数秒ほど、喋らないでくれるか……」


 フォロリタは言われた通り、数秒──彼がいいと言うまで、黙っていた。

 生まれる前、滅びの闇に呑まれかけた彼女は、魂の一部が欠けた。魂の欠けを埋めるように、滅びの闇が彼女と混じった。

 彼女が生来持つ力──滅びを僅かながらに消し去る、幻影の青白い火花や灯火ともしび

 滅びの闇と混じり、日の届かない場所でしか力を使えない。魂が人間の枠から外れかけている彼女は、人間らしい思考や言動ができない。

 周囲から指摘されて初めて、おかしな言動をしていたと気づく。

 だからあの時、誤って食べてくれても、なんの問題もなかった。

 彼女にとっては可愛い姿──闇をまとう巨大で歪な黒い獣に、魂だけでなく体ごと丸呑みにされてもよかった。

 神々しい神獣姿の彼は美しいと思うが、化け物姿の彼は可愛らしいと思える。

 恵みを与えるのはタイヤンジーグァの神獣で、化け物は世界を食らい尽くす忌神だと伝えられる。

 神獣の美しさはともかく、忌神を可愛らしいと思う。そのように捉える感性は、やはり皇后として適していないだろう。


「……悪かった。喋ってくれていい」


 壁に背を預け、うつむき加減で腕を組む彼が、疲れた声でも発言を許可してくれた。


「ありがとうございます。形式上の皇后でなくなってからも、あなたのためにできることはないかと考えていました」


 弾かれたように顔を上げたホィエンシュエが、驚きと困惑の表情を見せている。

 人間味がある──人間なのだから当然か──彼の仕草を目にしたフォロリタは、楽しくて嬉しくて、笑顔になった。


「下働きでも奴隷でもなんでも、あなたのためにタイヤンジーグァで新しい役目を見つけられたらと、考えたりしました」


 形式上の皇后が正式な皇后にならない場合、妃へ戻るのが通例だと聞いた。形式上でも皇后としての経歴が残る妃になるので、本人が望むならその後の生き方にある程度の自由が利くとも。

 自分は正式な──本物の皇后には適さない。妃にも適さないだろう。

 下働き、奴隷。タイヤンジーグァに来る前に送っていた日々と似たような生き方のほうが、彼のためになると考えた。


「ですけど、ニシャーウや遠くへ行くのがあなたのためになるなら、そうします」


 生まれた国へ戻ったら、殺される未来が待っている。遠い異国で生きていく力を持っているなら、その力を使ってタイヤンジーグァに渡れていたはずだ。

 どのような結末でも、あなたのためになるのならと、フォロリタは笑顔で彼を見上げる。


「その時が来たら、あなたとの思い出を胸に眠ることを、許可してくれますか?」

「……悪い……少し時間をくれ……色々と考えさせてくれ……不安が増大した……」


 深く俯いて重々しく息を吐いた彼に、フォロリタは「かしこまりました」と応えて礼をした。

 彼の力になりたいが、彼の負担にはなりたくない。

 低頭に近い礼を取った彼女の耳に、ホィエンシュエの困り果てたような極小の呟きが届く。


「……あの時、掻っ攫ってしまえばよかった」


 何について言っているのかは理解したフォロリタだが、言葉の意味、込められた感情を、彼女は掴めない。

 頭が足りないと言われ続け、そういった感情とは縁遠い人生だったからだと、彼女はまだ気づけない。

 独り言らしい呟きに反応しないほうがいいだろうと、ホィエンシュエに立ってくれと促されたフォロリタは、何事もなかったように礼を解いた。


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