2.国家生命倫理観察庁

白い壁と蛍光灯の光が、静かに息を潜めていた。


ここは国家生命倫理監理庁――**NBOB(National Bioethics Oversight Bureau)**の観察区画。


獅堂は簡素なベッドの上に腰を下ろし、周囲を見回した。

天井には監視カメラ、壁にはセンサーと電子ロック。

医療施設のようでいて、どこか「収容所」に近い。


ドアが開き、玲那が入ってきた。

黒のスーツに、首元の識別プレート。

彼女の声は落ち着いていたが、その奥には熱があった。


「改めてだけど、ここは“転生庁の研究所”でも、あなたを拉致した“テロリストの本部”でもないわ。

 国家生命倫理監理庁――通称“倫理庁”。

 あなたを“保護”したのは、名目上この庁。……でも実際には“保護”というより、“確保”に近い。」


玲那はベッドの脇に腰を下ろし、タブレットを開いて一枚の古い写真を映した。


白黒の写真。防寒服を着た男たちが氷原に立ち、その奥に凍った遺体。


「これは第二次世界大戦中の関東軍防疫給水部本部、いわゆる“731部隊”の記録よ。」


獅堂の表情が固まる。


「極寒実験、毒ガス、感染症、出血量――人体実験。

 戦後、記録は焼却されたとされたけれど、実際には一部のデータがアメリカに渡り、

 “免責”と引き換えに冷戦期の人間拡張研究へ再利用された。」


画面が切り替わる。

70年代の白黒写真。電極をつけられた兵士が椅子に縛られている。


「アメリカではMKウルトラ、ソ連では神経支配研究、ヨーロッパでも“意識転送”の初期実験が極秘に行われた。

 そして日本も例外じゃない。731の残滓と戦後の医療工学が結びつき、

 “人間の脳と記憶を数値化する”という発想が生まれた。――それが転生技術の原点。」


獅堂は息を呑んだ。

玲那の声は講義のように淡々として、しかし鋭かった。


「高度経済成長は倫理より技術を信じさせた。

 臓器移植、クローン羊、遺伝子編集、AI……“できること”が“やってはいけないこと”を追い越した。

 政府は歯止めとして90年代に生命倫理委員会を設けたけれど、委員会には限界があった。

 利権と政治に呑まれ、監視は“監視を装う儀式”になっていった。」


タブレットが閉じられる。


「そこで内閣直属の独立監理機関――国家生命倫理監理庁(NBOB)が設立された。

 医療、クローン、脳インターフェース、意識転写。生命操作技術の監理・立入・停止命令を担う、理念上の防波堤。」


玲那は小さく間を置く。


「でも、十数年前に国家転生技術管理庁(NRTA)――転生庁ができて、状況は変わった。

 表向きは“福祉としての転生”。実際には、莫大な金と影響力。

 倫理庁は正面から止められないところまで押し下げられた。」


獅堂は小さく息をつく。


玲那の視線が、まっすぐに獅堂を射抜く。


「今の倫理庁の“表の仕事”は、暴走個体の捕獲・隔離・治療。

 ……けれど、私たちはその原因も知っている。

 そして――君にも、知っておいてもらう必要がある。」


玲那は椅子の背にもたれ、静かに息を整えた。


「――君に、すべてを話す。」


その声は静かだったが、室内の空気を確かに揺らした。


獅堂は唇を震わせながら、かすれた声で言った。


「全部……って、どこまでですか?」


玲那は頷き、再びタブレットを開いた。


「まず最初に言っておく。表で流れている“転生事業”のイメージと、現実は別物だ。

 今や“転生”は娯楽でもあり、保険でもあり、ビジネスでもある。アニメも、ラノベも、それを煽る役割を果たしている。

 人々は“死後の選択”を夢見ている。だが、その裏側で何が行われているかを、君は知らない。」


「アニメ……?」


玲那は苦い笑みを浮かべる。


「うん。話術としての“転生”が社会を洗脳している。

 国家は“物語”を利用した。国民に“転生=希望”を刷り込むために。

 画面の向こうで、プロジェクトは“需要”を喚起し、金を集めた。

 だが技術的には、真っ当に動く“バイオクローン”の量産は実現していない。

 君の父――東條博士も、その現実を知っていた。」


画面が切り替わり、白黒の資料と写真が並ぶ。実験ノート、搬送記録、祈り人とされる施設の地図。


「バイオクローンの制作は技術的に頓挫している。理想的な“クローン体”はコストも時間もかかる。

 国家上層部は『永遠の命』という名の金脈を見つけた。

 そこで取られた手段は、ずる賢く、そして残酷だった。

 バイオクローンを装って、実際の“人間”を――転生の素材として使ったの。」


獅堂の顔が引きつる。


「人間を……使う、って?」


「“人間の養殖”よ。

 宗教法人を装った施設では、“祈り人”と呼ばれる集団が空の肉体を整形し、転生の“器”を作っている。

 死にたがる者、行方不明者、死刑囚――使えるものは何でも使った。

 『希望』という言葉で包めば、誰も真実を見ようとしない。

 テレビは祝福を流し、統計は美しい数字を示す。」


獅堂の手がシーツを握りしめる。


「――でも、そんなの……」


「近年の行方不明者の増加、転生を題材にしたコンテンツの氾濫。

 それらは“偶然”じゃない。

 転生を夢見る人間が増えるほど、その“素材”が足りなくなる。

 国家は市場を税に変え、祈り人は素材を供給する。

 ――東條博士はそれを見越して姿を消した。」


獅堂の脳裏に、父の笑顔が断片のように浮かぶ。


玲那は静かに続けた。


「博士は、自分の研究が『兵器』として使われることを恐れた。

 だから極秘裏に“全体データ”を残した。

 ただし、それを扱えるのは博士だけ。

 博士は知っていたの。複合転写体の鍵が“幼少期”に宿ることを。

 つまり――君は狙われる“標本”だった。」


「……俺を狙った? 父さんは、俺を――何のために?」


玲那の手が、かすかに震える。


「止めるためよ。

 博士は、自分の罪を世界に繰り返させないために君を作った。

 君は“矛”。この国の“倫理”を貫くための唯一の存在。」


獅堂の唇が震える。

沈黙の中、煙草の火が弾ける音。


鷹村が煙を吐き、低く言った。


「で、選択だ。」


獅堂は顔を上げた。


「選択って……何が選べるんですか?」


玲那は二つの封筒を取り出し、テーブルに置いた。

片方には「保護(隔離)」、もう片方には「観察官(監督と処罰)」とある。


「一つ目。倫理庁に幽閉される道。

 君の身体とデータは国家生命倫理監理庁の管理下に置かれる。

 安全だが、自由はない。」


「……もう一つは?」


「倫理庁の観察官として働く道。

 “倫理に背いた事業”を取り締まる。

 暴走個体を捕獲し、被害者を救う。だが力は足りない。

 国の上層部と戦うことは、ほとんど不可能。君は標的にもなる。」


鷹村が背を向けたまま言う。


「それにな、複合転写体は適性外の技能を入れれば暴走する。

 脳が変形し、身体が崩れ、理性を失う。

 国は“事故”と報じ、真実を消す。」


玲那の声が静かに落ちた。


「それでも――君に選んでほしい。」


獅堂は拳を握る。胸の奥で別の声が囁く。誰かの訓練映像、誰かの記憶。

自分のものか、他人のものか分からない。


「……父さんが俺に託したのが“矛”なら。

 矛は、振るうためにあるんじゃないですか?」


玲那と鷹村の表情に、一瞬だけ動揺が走る。


鷹村は短く笑い、立ち上がった。


「分かった。観察官としての初期訓練を手配する。

 忘れるな。人を守るために戦うんだ。」


獅堂は封筒を手に取り、深く息を吐く。


「……行きます。父さんのためじゃない。俺自身のために。

 誰かがやらなきゃ、また誰かが犠牲になる。」


玲那は静かに頷いた。


外では、明るいニュースの声が流れていた。


> 「今夜放送の異世界転生アニメ、シリーズ続編の放送が決定しました――」




室内の光がわずかに揺れ、

獅堂の決意は、静かに燃え始めていた。

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