第4話 光に触れた日(セリア視点)

セリア視点


 朝靄の中、鐘の音が響く。

 王都から遠く離れた小さな辺境の村――この地で私は、今日も祈りを捧げていた。

両の手を胸の前で組み、言葉を紡ぐ。


「神よ、この地をお守りください」

それが、小さな教会のシスターである私の一日の始まりであり、全てだった。


 村の人々は私を“聖女さま”と呼ぶ。

 本当はまだ王都の大聖堂から派遣された見習いの身で、奇跡らしい奇跡も起こしたことはない。


 それでも、祈るしか術がないこの地では――たとえ“形だけの聖女”でも、何かを信じていなければ心が折れてしまうのだ。


そのために私は微笑む。 たとえ自分の信仰が少しずつ薄れていくのを感じつつも。


「……今日も、神は何も答えてくれませんか」

吐き出した独り言は、誰にも届かず朝靄に溶けた。

 

 大聖堂で教わった奇跡の言葉。 祈りの姿勢。 献身の意味。 すべて覚えている。 けれど、誰かが苦しむたびに思う。


――どうして神は、ただ見ているだけなのですか。

それでも私は祈る。 

それが、自分にできる唯一のことだから。








 遠くで叫び声が上がった。

空を裂くような獣の咆哮。 血の匂いが風に混じって届く。


「巨大な魔獣が出たぞ!!!」


 村の男たちが慌ただしく武器を手にする。

私は聖印を握りしめ、祈りの言葉を唱える。

けれど胸の奥で、何かが震えていた。 恐怖か、それとも――諦めか。

 

 神よ、どうかお守りください。 どうか、村の人たちを…子供たちを……

そう願っても、返ってくるのはただの沈黙。 もう何度目だろう、この無力な瞬間は。


「神は、きっと試練を……」

そう呟く声は震えていた。 自分に言い聞かせるための言葉だ。 信じたい。信じるしかない。


 でも――その祈りの合間に、かすかな悲鳴が聞こえた。

視線を向けた先。 路地の向こうで、小さな影が泣いている。 まだ幼い少女だ。

その背後に、狼のような魔物。


「――だめっ!」

牙が光る。 足がすくむ。――動けない。

助けたいのに、体が動かない。 祈りの言葉が出てこない。


どうして。 神よ、今こそ――


 その瞬間、風が走った。

私の目の前を、何かが駆け抜けた。

 

 黒髪の青年だった。

粗末な外套を羽織り、手には鈍ら光る古びた剣。

彼は子どもを抱き寄せ、そのまま魔物に背を向けた。


 魔物の爪が彼の背を裂く。 血が飛び散る。

けれど青年は一歩も退かず、むしろ笑っていた。


「大丈夫。君は、もう大丈夫だよ。」


 低く、穏やかな声だった。

その瞬間、私の中で何かが大きく変わる音がした。


 魔物が再び飛びかかる。

青年は少女を庇うように体をひねり、鈍い光を放つ剣で一閃を放った。


 刃が走り、咆哮が止む。 黒い血が地面に散った。 全てが終わるまで、ほんの数秒。 けれど、私には永遠のように長く感じられた。

 

 地面に膝をついた青年の背中から、血が滲んでいる。

私は駆け寄り、震える手で彼の体を支えた。


「待って……あなた、血が……」

「平気だよ。子どもが無事なら、問題ないさ」


 その声はあまりにも静かで、あまりにも温かかった。

この世界に、まだこんな人がいたのか。


いや――違う。 これは、神の導きだ。

信仰を失いかけた私に、神が授けてくれた答え。 それがこの人なのだと、心の底から思った。


“人の姿をした光”。


「あなたは……神が遣わした方なのですか?」

問いかけると、彼は困ったように笑い、頭をかきながら首を振った。


「いやいや、ただの通りすがりさ。……あんまり立派なもんじゃないよ」

その笑顔に、胸が熱くなる。 私が信じ続けた“光”があった。


 それは奇跡でも祝福でもない。――たった一人の、優しい人間の意志。

私は無意識に手を合わせた。 祈りの言葉が、久しぶりに自然に口をついて出た。


「……神よ、ありがとうございます。この方と私をめぐり合わせてくれて」


「あなたのお名前を、伺ってもよろしいでしょうか。」

「俺は天城レンだ。 気軽にレンと呼んでくれ」


静かな陽の中で、その名が光に包まれたように響いた。










 旅は長く、静かに続いていた。 果ての山脈を越え、魔の森を抜け、幾つもの村を救った。

 彼はいつも前を歩き、背中だけを見せて進んだ。 その背中は、どんな闇の中でも見失うことのない光だった。 私は、その光を追いかけるだけだった。


 焚き火の炎に照らされる横顔を、こっそり見つめる。 

彼は疲れているはずなのに、どんなときも誰かのために笑う。 誰かが倒れれば迷わず手を伸ばす。 それが彼にとって当然のことのように。


――この人は、神ではない。

けれど、私の知る誰よりも尊い人。 いつしか私は、祈るときに彼の顔を思い浮かべるようになっていた。


「神よ、この方をお守りください」

その祈りの中で、気づけば言葉が変わっていく。


――どうか、この方の笑顔が続きますように。

――どうか、この方の隣にい続けられますように。


 祈りではなく、願い。

聖女を目指す人間の言葉ではなく、一人の女の心。


 ある夜、傷を癒やすために彼の手に触れた。

温かい。 荒れているのに、不思議と安心する手だった。 胸が痛くなり、思わず目を伏せた。


 この手は、何人もの人を救ってきた手。 そして私は、その一人に過ぎない。

それでも、欲しくなってしまう。 

この手が、自分のためだけに伸ばされる瞬間を。


 そんな願いを抱いてしまう自分が、恐ろしかった。

私は神に仕える身。 だけどもうこの身も心も、彼に救われた瞬間から彼に捧げた。


そんな彼を私が独り占めするなど考えることすら間違っている――なのに、私は。


 彼に微笑まれるたび、顔が熱を帯びていく。

その瞳の中に、ほんの少しでも私を見ていてくれるなら―― そう思うだけで、胸の奥が焼けるように痛んだ。


「セリア、どうかした?」

焚き火越しにレン様が覗き込む。


 その瞳に映る自分が、あまりにも小さくて、それでもはっきりと写っているのを見て、泣きそうになった。


「……いいえ。なんでも、ありません」


 そう言って微笑んだ。

本当は、あなたに触れたかった。 けれど、この想いは罪だから。


 だから私は祈る。

この恋が罪であるなら、どうか――罰など与えないでほしい。 この心の痛みだけで、もう十分だから。


 夜空を見上げる。

星が瞬き、風が頬を撫でた。レン様の笑い声が遠くで響く。

その声に、私はまた祈る。


――どうか、この人が明日も笑っていますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る