パッチ

伽墨

「犯罪者」のいない世界

 二十一世紀の半ば、科学はついに自由意志を否定した。

 人間の選択はすべて、脳内の電気信号と確率的演算による帰結であり、

 「自らの意志で選んだ」と感じる体験こそが最大の錯覚である──

 そう結論づけられたのだ。


 その発表をきっかけに、世界中の法体系が更新された。

 「責任」という概念が崩壊した。

 犯罪者は罪を犯したのではなく、神経的誤作動を起こした個体と再定義された。

 刑務所は姿を消し、代わりに設置されたのは

 “誤作動性ニューロン修正パッチ適正運用センター”――通称「センター」。


 センターでは、違法行為を行った者に「修正パッチ」が当てられる。

 それは脳のシナプスに介入し、特定の行動傾向や感情の強度を調整する微細な治療である。

 修正を終えた者は再び社会に復帰する。

 そこに“贖罪”はない。

 “再教育”もない。

 あるのは、ただ正常化という言葉だけだった。


 倫理学者たちは喝采を送り、メディアは“人類がようやく自らを制御した”と報じた。

 暴力も殺人も減り、世界はかつてないほど静かになった。

 しかし、その静けさの隅で、

 一つの家族が壊れた。


 その夜、男の娘が殺された。

 社会は言った。

 それは“悲劇的な誤作動”だったのだと。

 修正パッチが当てられれば、すべては正されるのだと。


 だが、男の中で何かが音を立てて崩れた。

 もしすべてが演算結果であるというなら、

 この怒りの行き場は、どこにあるというのか。



 娘が死んだ。

 いや、「殺された」という言葉は、いまの法ではもう正確じゃない。

 あいつのしたことは“自由意志に基づく行為”ではなかったのだという。

 だからあいつは「犯罪者」ではなく、「修正パッチを当てるべき患者」として扱われた。


 ニュースでその言葉を聞いたとき、俺は笑っていた。

 馬鹿げてる。

 だが同時に、恐ろしいほど整然としていた。

 誰の口からも反論は出なかった。

 理性が勝っていた。

 そういう時代になったのだ。


 それでも、俺の胸の中では理屈がひとつも通らなかった。

 あの夜、娘が帰ってこなかったときのあの空洞。

 冷蔵庫の中に残された半分のプリン。

 誰がそれを“決定された出来事”として片づけられる?


 俺は決めた。

 あいつに会う。

 会って、問いただす。

 なぜ、あんなことをしたのか。

 なぜ、俺の世界を壊したのか。


 修正パッチの当たる施設の場所は、すでに調べ終えていた。

 理性なんて言葉が、いまほど空虚に響いたことはない。

 俺は立ち上がり、準備を整えた。

 怒りと悲しみ、そのどちらにも名前をつけることができなかった。



 がらんどうの山奥の小屋。

 俺が縛り上げたあいつは、驚くほどちっぽけで、哀れで、どうしようもなく人間臭かった。


「ほんとうに……ほんとうに申し訳なかった……。死んで詫びることができるなら、そうさせてくれ」


 その声には、何かがこびりついていた。

 機械ではない。だが、演算のように正確だった。

 俺は思わずつぶやいた。

「なあ、そんなに反省できるんならよ、なんでやったんだよ」

「あのときの私は、どうかしていたんだ。自由意志がどうとか、そんなものとは関係がない。ただの――犯罪だ」


 泣きながらそう言う姿を見て、俺の中で怒りが別の形を取り始めた。

 もしこれが“演算結果”なら、いったい何が本物なんだ。



「お前を殺し、俺も死ぬ。それでいいか?」


 俺の声は、もう自分のものじゃなかった。

 誰かが俺の喉の奥で、勝手に喋っているようだった。


「ああ……私は死んでも構わない。けれど、あなたは違う。あなたは生きて、幸せになる権利がある」


「でもよ、お前を殺したら俺もセンター行きだ。そこでパッチを当てられて、お前を殺したことを詫び続けるんだ。

 ……俺の怒り、憎しみ、それが全部ウソだったみたいになっちまう。

 俺は今感じている“リアル”をなくしたくないんだ」


「ああ、どうか……。わたしを殺して、終わりにしてくれ……」


 あいつは泣いていた。

 俺は、その涙がどんなアルゴリズムの結果なのか、もう考えたくなかった。

 ただ、その泣き声の震えが、俺の心のどこかで何かを壊していった。



 俺は殺すのをやめた。

 小屋を出ると、山の風が冷たかった。

 夜空の星が、まるで何事もなかったように瞬いているのが、妙に腹立たしかった。


 その後、あいつは生き続けた。

 反省を続け、謝罪を続け、なけなしの慰謝料が機械的に振り込まれ続けた。

 その金を見て、俺はいつも息を呑む。

 数字は生々しくもなく、ただ「悔悛が作動している」ことを示す証拠のようだった。



 俺もまた裁かれた。

 誘拐の罪。

 センターは言った。

 > 「殺意を抑制する理性は機能していた。したがって修正パッチの適用は限定的にとどめる」


 限定的な修正。

 つまり、怒りは消されなかった。

 憎しみも、痛みも、まだ俺の中に残っていた。



 それから幾年も経つ。

 怒りと、憎しみと、悔悛と、空白の狭間で俺は揺れ続けている。

 ときどき夢に娘が出てくる。笑っても、泣いても、どちらも現実味がない。


 この世界は、誰かが設計したシステムなのかもしれない。

 だが、もしそうだとしても――

 この胸の奥で、いまだに燻るこの痛みだけは、

 誰のアルゴリズムにも書かれていない気がする。


 たぶん、それが人間というものなんだろう。

 揺れながら、生きるしかない生き物。

 自由意志があるかどうかなんて、もうどうでもいい。

 この痛みだけが、俺の“リアル”なんだ。

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パッチ 伽墨 @omoitsukiwokakuyo

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