第2話 宮廷医は願いを数える

翌朝、城はまだ眠っているのに、封だけが目を覚ましていた。


 胸の“疼き”は、目を開ける前からもうそこにあった。

 石の下から上がってくるあの微かな拍。掌の古い傷が、目覚まし時計みたいに内側からカチカチ鳴らしてくる。


 詰所の窓は白く曇っていて、外の空気はまだ冷たい。

 同室のニコは布団を蹴飛ばし、寝癖のまま靴を履こうとしていた。


「起きてるか、レヴ」


「起きてる」


「なら、起きろ」


「起きてる」


「じゃあ顔を洗え」


 最小限の会話で、朝が始まる。

 水で頬を叩くと、疼きは少しだけ鈍くなった。けれど消えはしない。


 今日の持ち場は北棟の回廊。

 封具室へ降りる階段の手前までが管轄だ。

 鐘が鳴る前に集合し、配られた巡回板に印を入れる。中隊長が簡潔に言う。


「昨夜、封の拍(はく)が一度。記録は神官経由で上がっている。——騒ぐな。見張れ。以上」


 “騒ぐな”。

 それはこの城の合言葉みたいなものだ。

 俺は頷き、配された二人組の先頭で歩き出す。



 北棟の回廊は、朝いちばんの光が一番きれいに通る。

 壁の石が薄く光って、窓ガラスの歪みが床に細長い模様を投げている。

 角を曲がる手前で、先行の衛士が手を上げた。


「宮付き、通過」


 白い幕だ。

 幕の内側にいるのは誰か、説明はいらない。

 俺たちは壁に寄り、視線を落とす。幕は音を立てない。

 ただ、近づく息だけがゆっくり、こちらの頬に触れていく。


 掌の傷が熱を帯びる。

 まただ。

 幕の端が膝にかすめるほど近くを過ぎ、ほとんど同時に、柔らかい声が聞こえた。


「——脈は落ち着いている。今日は検分だけでいい」


 低く、よく通る声。

 俺の視線の先、幕と並んで歩く細身の男がいた。黒髪を後ろで束ね、白衣の裾を乱さない。

 膝から下がほとんど揺れない歩き方をする人種——学者か、医者。


 ニコが小声で言う。


「オルフェ・ラング。宮廷医。王族延命官だ」


 名前だけで、回廊の空気がわずかに硬くなる。

 “延命官”はこの城であまり声に出さない言葉だ。

 王は短く生きる。

 ——それが国の秩序の前提で、宗教の根っこでもある。

 そこに「延命」を仕事に掲げる人がいる。それは、常識と常識の継ぎ目みたいな存在だ。


 白い幕が通り過ぎ、石に吸われていく気配を追うように、俺の掌の熱もゆっくり引いていった。



 午の少し前、詰所に呼び出しの使いが来た。

 用件は短い。


「宮廷医殿が、北棟詰所へ」


 中隊長は眉を上げ、俺とニコを見る。


「同行者二名」


 俺は“はい”と言い、背筋に走った冷たい線を懐に押し込んだ。



 オルフェ・ラングは、壁の座図を一瞥しただけで、詰所の空気の温度を変えた。

 冷たい、というより澄んだ。

 目線が静かで、声は必要な量だけ届く。


「封具室・北塔根の拍動。昨夜一度。今朝方なし。周辺の回廊に滞留は?」


 中隊長が答える。


「ありません。巡回記録、異常なし」


「よろしい。候補生の巡回路、見せてください」


 指先は細いのに、図の読み方は迷いがない。

 俺とニコの巡回線に指が滑り、螺旋階段の踊り場に小さく印が追加された。


「ここで、何か感じましたか」


 唐突だった。

 俺はどう答えるべきか一瞬迷い、規定通りに言う。


「異常なし、です」


 オルフェは頷く。

 それで話は終わるはずだった。

 なのに、彼は一拍置いて、もう一度こちらを見た。


「“感じないように”歩けているのは良いことです。——封は、感じる者を呼びますから」


 呼ぶ。

 胸の疼きが、また別の形に変わる。

 オルフェは表情を変えない。


「王族の検分がある。立ち会いは不要です。回廊の通行を絞ります。候補生は北棟渡り廊の手前で待機。……——レヴ・カザル」


 突然名を呼ばれ、背筋に電が走る。


「はい」


「あなたは、渡り廊の端で“音”を聞いてください。聞こえなければ、それでいい」


 どういう意味だ。

 聞こえたら——どうなる?


 問いは喉まで出かかったが、オルフェはもう詰所の扉に手をかけていた。


「騒がないこと。お願いします」


 扉が閉まる。

 ニコが小さく息を吐いた。


「感じる者、だってさ。……嫌な言い回しだよな」


「そうだな」


 俺は掌を握った。

 古い傷は静かだ。

 けれど、心臓の拍の数え方が、いつもと違う。



 渡り廊は、昼の光が真っ直ぐ抜ける。

 ここから見える中庭には、例の白い立札が並び、名も知らない白い花が風に揺れている。

 遠くから、軽い足音が近づく気配がした。幕はない。侍従の靴の音でもない。


 ——あの人だ。


 王族は一人で歩いていた。

 白い衣は風で揺れるのに、足取りは音を立てない。

 昨日と同じ横顔。昨日より少しだけ血の気が薄い。


 言葉を選ぶ時間は、ない。

 作法では、先に声をかける立場ではない。

 それでも、口が先に動いた。


「体調は」


 王族は立ち止まり、ゆっくりこちらを見る。

 目は波立たず、しかし呼吸の終わりが短い。


「——少し、速いだけ」


「拍(はく)が」


「うん」


 短い肯定。

 その直後、渡り廊の反対側から、穏やかな声がかかった。


「速いは、速いです」


 オルフェ・ラング。

 白衣の裾を揺らさずに近づいてくる。

 王族はその人を邪魔に思っていない。むしろ、ここにいるべき人として受け入れている表情だった。


「検分をしましょう。ここでいい」


 オルフェは白い細い帯を取り出し、王族の手首に軽く巻く。

 帯の端に小さな金の札があり、触れると微かに温度が変わる。

 俺は距離を取り、視線を外す。

 けれど耳は勝手に拾ってしまう。


「——拍、五十と九。午前より二上がり。呼気終末の収縮は一定。歩行は問題なし」


 数字を読む声は、優しいわけではないが、冷たくもない。

 ただ、世界の仕組みを読み上げるだけの音だった。


 王族が、こちらをちらりと見た気がした。

 オルフェは視線を追って、俺を一瞥する。


「騎士候補」


「レヴ・カザルです」


「レヴ。あなたは“音”が聞こえるのでは?」


 心臓がひとつ、余計に跳ねた。

 何を——どこまで、言えばいい?


 オルフェは王族から帯を外し、言葉を続けた。


「封は、時々、呼びます。呼んでも、来ないように育てるのが私の役目です」


 言葉が、刺さる。

 王族の目も、ほんの少しだけ細くなった。

 オルフェは淡々と告げる。


「生きたいと願うことは、美しくて、致命的です。王族は生きたいと願った瞬間から、死に始める」


 風が止まった。

 俺は言い返せない。

 反射的に否定したくなる言葉ほど、真っ直ぐに届く。


 王族は、ゆっくり目を伏せる。

 諦めではない。

 受け止めるために、一度目を閉じるだけの仕草。


 オルフェは続きを静かに置く。


「だから、願わないように育てる。——それが延命です」


 俺の掌の傷が、じり、と熱くなった。

 言葉にならない反発が喉まで上がる。

 願わないように育てる?

 “生きたい”って、そんなに、壊す言葉か。


「オルフェ殿」


 気づいたら口が動いていた。

 オルフェはほんの少しだけ顎を動かして、俺を見る。


「王族が“願わないように”育てるなら、俺たちは何のために“長く立つ”んですか」


 間があった。

 ニコが肘で俺の脇腹を小さくつつく。やりすぎるな、っていう合図だ。

 オルフェは目を伏せ、すぐに答えを選ばなかった。

 代わりに、王族が先に口を開いた。


「——私が願うと、封が揺れる。封が揺れると、城が揺れる。城が揺れると、国が揺れる。

 だから、願わないでいられるように、私を守るのが“長く立つ”騎士の役目」


 柔らかい声だった。

 無色透明で、でも芯があった。

 “願わないでいる”って、どうやって——そんな器用なこと、できるのか。


 オルフェは小さく息を吐く。


「……検分は終わりです。渡り廊は冷えます。戻りましょう」


 王族は頷き、踵を返す。

 その瞬間、ふっと足元が揺れた。

 ほんの、指先ほどの揺れ。

 王族の肩がわずかに傾く。


 俺は反射で一歩踏み出していた。

 触れる前に止まる。作法が、間一髪で腕を引き戻させた。


 オルフェが支えに入る。

 白衣の袖が、白い衣の端をさらりと掠めるだけで、体はもう元の位置に戻っていた。

 王族は軽く頷く。


「平気」


 オルフェは頷き返さず、俺を見た。

 “君は動くな”と目が言っていた。

 俺は何も言えず、拳を握りしめる。


 王族は一歩、また一歩と歩き出し、角を曲がる手前でだけ、こちらを見た。

 声は落ち着いている。けれど、少しだけ早い呼吸の音に、言葉が引っ張られていた。


「レヴ。——音が聞こえたら、教えて」


 言えるわけがない。

 言った瞬間、この城の何かが壊れる気がする。

 それでも、頷いてしまう自分がいた。


「……はい」


 あの人は、わずかに口元を緩めた。

 それは笑いではない。

 呼吸を整えるための、小さな形。


 白い衣が去り、渡り廊に風が戻る。

 オルフェは俺の横を通り過ぎざま、声音を落とした。


「——あなたの掌の傷は、いつですか」


「子どもの頃です。理由は覚えていません」


「覚えていなくて、いい」


 オルフェの目はやはり冷たくはなかった。

 ただ、線を見ている目だ。

 過去と現在と封の呼吸を、一本の線に見ようとしている観察者の目。


「忠告をひとつ。あなたが“感じる側”なら、距離を保ちなさい。

 感じる者は、近づくほど、封に触れられる」


「触れられる?」


「ええ。封は、定義を許さない。願いに似ています」


 それだけ言って、オルフェは王族の後を追った。



 午後。

 北塔の螺旋階段の踊り場で、俺は規定通り立ち止まり、視認と聴取を行う。

 石の下は静かだ。

 耳を澄ませば澄ますほど、耳鳴りと自分の鼓動だけが増幅される。


 音が聞こえたら、教えて。


 さっきの言葉が何度も再生される。

 教えたら、何が起きる?

 教えなかったら、何を失う?


 視線を落とすと、欄干に刻まれた小さな傷が目に入る。

 子どもが硬いもので擦ったような、浅い線。

 無意味な線に見えるのに、胸の奥がずき、と反応した。


 ここに、いた。


 記憶じゃない。

 でも、体は知っている。

 膝の曲げ方、足を置く角度、呼吸の間隔——全部が“前にもこうした”と言っている。


 とん。


 ——来た。

 ほんのわずかな拍が、足裏から上がってくる。

 耳ではなく、骨で聞く音。

 世界の奥で誰かが指先で机を叩くみたいな、控えめな合図。


 とん。

 間が空いて、もう一度。

 俺の掌の傷が、同じ間で熱を帯びる。


 教える?


 声が喉まで来て、そこで止まった。

 角の向こうから、布の擦れる小さな音。

 誰かが踊り場に上がってくる。


 ニコじゃない。足音が軽すぎる。

 オルフェでもない。歩幅が違う。


 白い衣。

 あの人だ。


 王族は階段を三段だけ上がったところで止まり、欄干越しに下を見た。

 見えない“何か”に、視線を落とす。

 俺は口を開く前に目を伏せ、作法に従って距離を取る。


「——聞こえる?」


 呼吸より少し低い、静かな声。

 俺は嘘をつくか、本当を言うかの間で一瞬迷い、短い答えを選んだ。


「……微かに」


 王族はうなずいた。

 それだけで胸が軽くなるのに、同時に重くなる。

 秘密を共有する感覚。

 それが、この城では罪に近い位置にある。


 王族は欄干に指を置いた。

 細い指。血色の薄い爪。

 石は冷たいはずなのに、その指は冷えに負けないように見えた。


「生きたいっていう気持ちは、音になる。

 封は多分、そういうものに似ている。

 ——だから、ね。私が望むと、封も鳴る」


 “だから、願わないように”。

 オルフェの言葉が背後で重なる。


「願わないでいるのは、難しいですか」


 気づいたら、問いになっていた。

 王族は少しだけ笑って、首を傾けた。


「難しいよ。だって、レヴ。

 君がここにいるのに、願わないのは難しい」


 息が止まる。

 王族は続けない。

 ただ、階段を一段降り、俺の横を通り過ぎようとした瞬間、ほんの少しだけ、手が動いた。


 触れない距離で、伸びる仕草だけ。

 手は空を掴んで、すぐに引っ込む。


 そこへ、淡い声が重なる。


「——ここで何を」


 オルフェだ。

 白衣は音を連れてこないのに、言葉は空気を変える。


「音を、聞いていました」


 俺が答えると、オルフェは短く頷いた。


「聞こえましたか」


「……微かに」


「そう。——記録します」


 オルフェは王族を見る。

 目線は短く、しかし十分。

 王族は頷き、踵を返す。


 白い衣が去る。

 オルフェは俺の方に向き直り、低く言った。


「レヴ。あなたの“感じ方”は、悪くない。

 ですが、距離は守りなさい。今はまだ」


「“今はまだ”?」


「いつか、距離を詰める時が来る。

 その時、あなたが願ってしまうと、封はたぶん——形になる」


 形。

 願いが、形に。


「それは、悪いことですか」


 オルフェは少しだけ目を伏せた。

 数式を暗算するみたいに、わずかな間がある。


「世界にとっては。

 あなたにとっては、きっと悪くない」


 置いていかれる言葉だった。

 でも、不思議と嫌ではない。


「忘れないこと。騒がないこと。それがあなたの今の役目です」


 オルフェはそれだけ言って、静かに去っていった。



 夕刻。

 中庭の白花は、日が落ちる前にいちどだけ花弁を閉じる。

 風は弱く、白い立札の影が長く伸びる。


 ——今日、封は三度、鳴いた。

 記録は「異常なし」だ。

 誰も、騒がない。


 夜、詰所の明かりが落ちたあと、ニコが天井を見たまま言った。


「お前、距離を詰めるなよ」


「……ああ」


「お前は詰めるタイプだ。自覚ないだろうけど」


「そう見えるか」


「見える」


 短い沈黙ののち、ニコは続けた。


「この国は、“願わないで済む距離”で保ってる。

 それを知らないやつは、すぐ燃える。

 ——燃えたものは、封に吸われる」


 冗談ではない口調だった。

 俺は答えず、胸の疼きを数えた。

 一、二、三。

 封の拍に、合わせないように。


 薄い闇の中で、白い旗の幻が揺れる。

 花の匂いがする気がした。

 眠りに落ちる直前、耳の奥に、やわらかな声が落ちる。


 音が聞こえたら、教えて。


 夢の中でも、封だけが目を覚ましていた。

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