第2話 宮廷医は願いを数える
翌朝、城はまだ眠っているのに、封だけが目を覚ましていた。
胸の“疼き”は、目を開ける前からもうそこにあった。
石の下から上がってくるあの微かな拍。掌の古い傷が、目覚まし時計みたいに内側からカチカチ鳴らしてくる。
詰所の窓は白く曇っていて、外の空気はまだ冷たい。
同室のニコは布団を蹴飛ばし、寝癖のまま靴を履こうとしていた。
「起きてるか、レヴ」
「起きてる」
「なら、起きろ」
「起きてる」
「じゃあ顔を洗え」
最小限の会話で、朝が始まる。
水で頬を叩くと、疼きは少しだけ鈍くなった。けれど消えはしない。
今日の持ち場は北棟の回廊。
封具室へ降りる階段の手前までが管轄だ。
鐘が鳴る前に集合し、配られた巡回板に印を入れる。中隊長が簡潔に言う。
「昨夜、封の拍(はく)が一度。記録は神官経由で上がっている。——騒ぐな。見張れ。以上」
“騒ぐな”。
それはこの城の合言葉みたいなものだ。
俺は頷き、配された二人組の先頭で歩き出す。
*
北棟の回廊は、朝いちばんの光が一番きれいに通る。
壁の石が薄く光って、窓ガラスの歪みが床に細長い模様を投げている。
角を曲がる手前で、先行の衛士が手を上げた。
「宮付き、通過」
白い幕だ。
幕の内側にいるのは誰か、説明はいらない。
俺たちは壁に寄り、視線を落とす。幕は音を立てない。
ただ、近づく息だけがゆっくり、こちらの頬に触れていく。
掌の傷が熱を帯びる。
まただ。
幕の端が膝にかすめるほど近くを過ぎ、ほとんど同時に、柔らかい声が聞こえた。
「——脈は落ち着いている。今日は検分だけでいい」
低く、よく通る声。
俺の視線の先、幕と並んで歩く細身の男がいた。黒髪を後ろで束ね、白衣の裾を乱さない。
膝から下がほとんど揺れない歩き方をする人種——学者か、医者。
ニコが小声で言う。
「オルフェ・ラング。宮廷医。王族延命官だ」
名前だけで、回廊の空気がわずかに硬くなる。
“延命官”はこの城であまり声に出さない言葉だ。
王は短く生きる。
——それが国の秩序の前提で、宗教の根っこでもある。
そこに「延命」を仕事に掲げる人がいる。それは、常識と常識の継ぎ目みたいな存在だ。
白い幕が通り過ぎ、石に吸われていく気配を追うように、俺の掌の熱もゆっくり引いていった。
*
午の少し前、詰所に呼び出しの使いが来た。
用件は短い。
「宮廷医殿が、北棟詰所へ」
中隊長は眉を上げ、俺とニコを見る。
「同行者二名」
俺は“はい”と言い、背筋に走った冷たい線を懐に押し込んだ。
*
オルフェ・ラングは、壁の座図を一瞥しただけで、詰所の空気の温度を変えた。
冷たい、というより澄んだ。
目線が静かで、声は必要な量だけ届く。
「封具室・北塔根の拍動。昨夜一度。今朝方なし。周辺の回廊に滞留は?」
中隊長が答える。
「ありません。巡回記録、異常なし」
「よろしい。候補生の巡回路、見せてください」
指先は細いのに、図の読み方は迷いがない。
俺とニコの巡回線に指が滑り、螺旋階段の踊り場に小さく印が追加された。
「ここで、何か感じましたか」
唐突だった。
俺はどう答えるべきか一瞬迷い、規定通りに言う。
「異常なし、です」
オルフェは頷く。
それで話は終わるはずだった。
なのに、彼は一拍置いて、もう一度こちらを見た。
「“感じないように”歩けているのは良いことです。——封は、感じる者を呼びますから」
呼ぶ。
胸の疼きが、また別の形に変わる。
オルフェは表情を変えない。
「王族の検分がある。立ち会いは不要です。回廊の通行を絞ります。候補生は北棟渡り廊の手前で待機。……——レヴ・カザル」
突然名を呼ばれ、背筋に電が走る。
「はい」
「あなたは、渡り廊の端で“音”を聞いてください。聞こえなければ、それでいい」
どういう意味だ。
聞こえたら——どうなる?
問いは喉まで出かかったが、オルフェはもう詰所の扉に手をかけていた。
「騒がないこと。お願いします」
扉が閉まる。
ニコが小さく息を吐いた。
「感じる者、だってさ。……嫌な言い回しだよな」
「そうだな」
俺は掌を握った。
古い傷は静かだ。
けれど、心臓の拍の数え方が、いつもと違う。
*
渡り廊は、昼の光が真っ直ぐ抜ける。
ここから見える中庭には、例の白い立札が並び、名も知らない白い花が風に揺れている。
遠くから、軽い足音が近づく気配がした。幕はない。侍従の靴の音でもない。
——あの人だ。
王族は一人で歩いていた。
白い衣は風で揺れるのに、足取りは音を立てない。
昨日と同じ横顔。昨日より少しだけ血の気が薄い。
言葉を選ぶ時間は、ない。
作法では、先に声をかける立場ではない。
それでも、口が先に動いた。
「体調は」
王族は立ち止まり、ゆっくりこちらを見る。
目は波立たず、しかし呼吸の終わりが短い。
「——少し、速いだけ」
「拍(はく)が」
「うん」
短い肯定。
その直後、渡り廊の反対側から、穏やかな声がかかった。
「速いは、速いです」
オルフェ・ラング。
白衣の裾を揺らさずに近づいてくる。
王族はその人を邪魔に思っていない。むしろ、ここにいるべき人として受け入れている表情だった。
「検分をしましょう。ここでいい」
オルフェは白い細い帯を取り出し、王族の手首に軽く巻く。
帯の端に小さな金の札があり、触れると微かに温度が変わる。
俺は距離を取り、視線を外す。
けれど耳は勝手に拾ってしまう。
「——拍、五十と九。午前より二上がり。呼気終末の収縮は一定。歩行は問題なし」
数字を読む声は、優しいわけではないが、冷たくもない。
ただ、世界の仕組みを読み上げるだけの音だった。
王族が、こちらをちらりと見た気がした。
オルフェは視線を追って、俺を一瞥する。
「騎士候補」
「レヴ・カザルです」
「レヴ。あなたは“音”が聞こえるのでは?」
心臓がひとつ、余計に跳ねた。
何を——どこまで、言えばいい?
オルフェは王族から帯を外し、言葉を続けた。
「封は、時々、呼びます。呼んでも、来ないように育てるのが私の役目です」
言葉が、刺さる。
王族の目も、ほんの少しだけ細くなった。
オルフェは淡々と告げる。
「生きたいと願うことは、美しくて、致命的です。王族は生きたいと願った瞬間から、死に始める」
風が止まった。
俺は言い返せない。
反射的に否定したくなる言葉ほど、真っ直ぐに届く。
王族は、ゆっくり目を伏せる。
諦めではない。
受け止めるために、一度目を閉じるだけの仕草。
オルフェは続きを静かに置く。
「だから、願わないように育てる。——それが延命です」
俺の掌の傷が、じり、と熱くなった。
言葉にならない反発が喉まで上がる。
願わないように育てる?
“生きたい”って、そんなに、壊す言葉か。
「オルフェ殿」
気づいたら口が動いていた。
オルフェはほんの少しだけ顎を動かして、俺を見る。
「王族が“願わないように”育てるなら、俺たちは何のために“長く立つ”んですか」
間があった。
ニコが肘で俺の脇腹を小さくつつく。やりすぎるな、っていう合図だ。
オルフェは目を伏せ、すぐに答えを選ばなかった。
代わりに、王族が先に口を開いた。
「——私が願うと、封が揺れる。封が揺れると、城が揺れる。城が揺れると、国が揺れる。
だから、願わないでいられるように、私を守るのが“長く立つ”騎士の役目」
柔らかい声だった。
無色透明で、でも芯があった。
“願わないでいる”って、どうやって——そんな器用なこと、できるのか。
オルフェは小さく息を吐く。
「……検分は終わりです。渡り廊は冷えます。戻りましょう」
王族は頷き、踵を返す。
その瞬間、ふっと足元が揺れた。
ほんの、指先ほどの揺れ。
王族の肩がわずかに傾く。
俺は反射で一歩踏み出していた。
触れる前に止まる。作法が、間一髪で腕を引き戻させた。
オルフェが支えに入る。
白衣の袖が、白い衣の端をさらりと掠めるだけで、体はもう元の位置に戻っていた。
王族は軽く頷く。
「平気」
オルフェは頷き返さず、俺を見た。
“君は動くな”と目が言っていた。
俺は何も言えず、拳を握りしめる。
王族は一歩、また一歩と歩き出し、角を曲がる手前でだけ、こちらを見た。
声は落ち着いている。けれど、少しだけ早い呼吸の音に、言葉が引っ張られていた。
「レヴ。——音が聞こえたら、教えて」
言えるわけがない。
言った瞬間、この城の何かが壊れる気がする。
それでも、頷いてしまう自分がいた。
「……はい」
あの人は、わずかに口元を緩めた。
それは笑いではない。
呼吸を整えるための、小さな形。
白い衣が去り、渡り廊に風が戻る。
オルフェは俺の横を通り過ぎざま、声音を落とした。
「——あなたの掌の傷は、いつですか」
「子どもの頃です。理由は覚えていません」
「覚えていなくて、いい」
オルフェの目はやはり冷たくはなかった。
ただ、線を見ている目だ。
過去と現在と封の呼吸を、一本の線に見ようとしている観察者の目。
「忠告をひとつ。あなたが“感じる側”なら、距離を保ちなさい。
感じる者は、近づくほど、封に触れられる」
「触れられる?」
「ええ。封は、定義を許さない。願いに似ています」
それだけ言って、オルフェは王族の後を追った。
*
午後。
北塔の螺旋階段の踊り場で、俺は規定通り立ち止まり、視認と聴取を行う。
石の下は静かだ。
耳を澄ませば澄ますほど、耳鳴りと自分の鼓動だけが増幅される。
音が聞こえたら、教えて。
さっきの言葉が何度も再生される。
教えたら、何が起きる?
教えなかったら、何を失う?
視線を落とすと、欄干に刻まれた小さな傷が目に入る。
子どもが硬いもので擦ったような、浅い線。
無意味な線に見えるのに、胸の奥がずき、と反応した。
ここに、いた。
記憶じゃない。
でも、体は知っている。
膝の曲げ方、足を置く角度、呼吸の間隔——全部が“前にもこうした”と言っている。
とん。
——来た。
ほんのわずかな拍が、足裏から上がってくる。
耳ではなく、骨で聞く音。
世界の奥で誰かが指先で机を叩くみたいな、控えめな合図。
とん。
間が空いて、もう一度。
俺の掌の傷が、同じ間で熱を帯びる。
教える?
声が喉まで来て、そこで止まった。
角の向こうから、布の擦れる小さな音。
誰かが踊り場に上がってくる。
ニコじゃない。足音が軽すぎる。
オルフェでもない。歩幅が違う。
白い衣。
あの人だ。
王族は階段を三段だけ上がったところで止まり、欄干越しに下を見た。
見えない“何か”に、視線を落とす。
俺は口を開く前に目を伏せ、作法に従って距離を取る。
「——聞こえる?」
呼吸より少し低い、静かな声。
俺は嘘をつくか、本当を言うかの間で一瞬迷い、短い答えを選んだ。
「……微かに」
王族はうなずいた。
それだけで胸が軽くなるのに、同時に重くなる。
秘密を共有する感覚。
それが、この城では罪に近い位置にある。
王族は欄干に指を置いた。
細い指。血色の薄い爪。
石は冷たいはずなのに、その指は冷えに負けないように見えた。
「生きたいっていう気持ちは、音になる。
封は多分、そういうものに似ている。
——だから、ね。私が望むと、封も鳴る」
“だから、願わないように”。
オルフェの言葉が背後で重なる。
「願わないでいるのは、難しいですか」
気づいたら、問いになっていた。
王族は少しだけ笑って、首を傾けた。
「難しいよ。だって、レヴ。
君がここにいるのに、願わないのは難しい」
息が止まる。
王族は続けない。
ただ、階段を一段降り、俺の横を通り過ぎようとした瞬間、ほんの少しだけ、手が動いた。
触れない距離で、伸びる仕草だけ。
手は空を掴んで、すぐに引っ込む。
そこへ、淡い声が重なる。
「——ここで何を」
オルフェだ。
白衣は音を連れてこないのに、言葉は空気を変える。
「音を、聞いていました」
俺が答えると、オルフェは短く頷いた。
「聞こえましたか」
「……微かに」
「そう。——記録します」
オルフェは王族を見る。
目線は短く、しかし十分。
王族は頷き、踵を返す。
白い衣が去る。
オルフェは俺の方に向き直り、低く言った。
「レヴ。あなたの“感じ方”は、悪くない。
ですが、距離は守りなさい。今はまだ」
「“今はまだ”?」
「いつか、距離を詰める時が来る。
その時、あなたが願ってしまうと、封はたぶん——形になる」
形。
願いが、形に。
「それは、悪いことですか」
オルフェは少しだけ目を伏せた。
数式を暗算するみたいに、わずかな間がある。
「世界にとっては。
あなたにとっては、きっと悪くない」
置いていかれる言葉だった。
でも、不思議と嫌ではない。
「忘れないこと。騒がないこと。それがあなたの今の役目です」
オルフェはそれだけ言って、静かに去っていった。
*
夕刻。
中庭の白花は、日が落ちる前にいちどだけ花弁を閉じる。
風は弱く、白い立札の影が長く伸びる。
——今日、封は三度、鳴いた。
記録は「異常なし」だ。
誰も、騒がない。
夜、詰所の明かりが落ちたあと、ニコが天井を見たまま言った。
「お前、距離を詰めるなよ」
「……ああ」
「お前は詰めるタイプだ。自覚ないだろうけど」
「そう見えるか」
「見える」
短い沈黙ののち、ニコは続けた。
「この国は、“願わないで済む距離”で保ってる。
それを知らないやつは、すぐ燃える。
——燃えたものは、封に吸われる」
冗談ではない口調だった。
俺は答えず、胸の疼きを数えた。
一、二、三。
封の拍に、合わせないように。
薄い闇の中で、白い旗の幻が揺れる。
花の匂いがする気がした。
眠りに落ちる直前、耳の奥に、やわらかな声が落ちる。
音が聞こえたら、教えて。
夢の中でも、封だけが目を覚ましていた。
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