白き王は長く生きられない

桃神かぐら

第1話 王の血は、石の下で燃える

 王城の朝は、鐘ではなく影で始まる。

 東の尖塔から伸びる影が石畳の目地を一筋ずつ飲み込み、最後の線が玉座の間の敷石に触れると、儀式の時刻が来ると決まっていた。

 訓練場に並ぶ騎士候補たちは、その影の速さで自分の鼓動を測る。俺も、そうしていた。名を呼ばれる順番は刻まれているのに、待ち時間はいつも別の形で襲ってくる。


 「レヴ・カザル。前へ」


 短く呼ばれ、短く返事をする。

 胸の内側で、昨夜から消えない疼きが微かに形を変えた。痛みでも不安でもない——名を呼ばれるたび、どこか遠くの石が鳴くような振動。

 それが何か、俺は知らない。だが、嫌ではなかった。


 列を離れ、先導の侍従の背を追う。

 回廊の壁には、王家の紋章が一定の間隔で刻まれている。円と、短い三本線。円は封、三線は寿。封じて短く生きる——それが王の契約を表す古い意匠だと教わった。

 幼い頃から幾度も見てきたその紋の白さは、今日に限って、妙に新しく見えた。


 玉座の間の扉は、二人がかりで押しても、開くまでの沈黙が長い。

 重さは儀礼のためだ、と老騎士は笑っていた。王の前に立つ者は、まず“自分の足音を置いてくる”のだと。

 扉がわずかに開いた瞬間、冷えた空気が線となって頬を撫でる。俺は一度だけ息を整え、中へ踏み入った。


 王はまだ現れていない。

 玉座の段は空で、その手前に掲げられた白旗が、ほとんど揺れない風にわずかだけ鳴った。

 白旗といっても降伏のそれではない。王家の短命を示す、生の薄さの旗だ。

 その前に、少年の影が立っていた。


 王族——。

 昨日、初めて目を合わせた“あの目”が、そこにあった。

 中性的で、細い影。

 衣は白、目は澄み、水を含まない光を受けながら、砂粒ほどの揺れも見せない。

 あの時と同じだ。ただ、今日は少しだけ、呼吸の終わりが早い。短く区切る息は、習い覚えた節のように正確だった。


 「騎士候補、レヴ・カザル」


 名を告げられ、俺は膝をついた。

 床に触れた指先から、石の冷たさが腕を上ってくる。どこかで、その冷たさを愛おしいと思っている自分がいる。意味はわからないが、懐かしさだけが確かにあった。


 王族は一歩、近づいた。

 近づいた、と言っても距離はまだ遠い。白旗の影が俺と王族の間に落ちて、互いの輪郭を薄めている。

 儀式執行の侍従が誓詞を読み上げ始める。

 長い言葉だ。王と国と世界に剣を捧げ、封印の秩序に従い、王の寿命を乱すいかなる企てにも盾となる——。


 王の寿命を、乱す企て。


 そこで、息がごくわずかに止まった。

 俺は顔を上げない。儀式の作法は体に染みている。

 だが、視界の端で、白い裾がほんの少しだけ揺れた気がした。読み上げは続く。

 侍従の声は結びに近づき、最後の句が玉座の間の穹窿に柔らかく跳ね返る。


 「……これに誓い、ここに名を刻む者は、短き王の生のために、長く立つ盾となれ」


 沈黙。

 俺は定められた動きで片手を掲げ、もう片手で胸に触れる。

 言葉をなぞろうとした瞬間、腹の底で何かが震えた。遠い場所で大きな獣が眠返りを打つような、鈍い地鳴り。

 いや、音はない。体の内側だけが、古い記憶を誤って再生したかのように震えたのだ。


 「……誓う」


 声は、意外なほど静かに出た。

 王族の目が、わずかに細くなる。安堵でも、満足でもない。確認に近い、ほんの僅かな合図。

 その目を見て、胸の中の震えは静まらなかった。むしろ、形を得た。


 ——封印が、脈打っている。


 言葉にならないまま、その確信だけが、冷えた石と白旗と穹窿の下で大きくなっていく。


 *


 儀式が終わると、候補生は各自の持ち場に散る。

 俺には見習いとして付く予定の中隊が割り当てられており、その詰所は王城の北棟の端、古い塔の基礎にめり込むように立っていた。

 詰所へ向かう回廊で、窓の外の中庭に目が止まる。白い立札が二つ、並んで立っていた。


 「年齢十四 王族アムリの記」

 「年齢十七 王族ライエの記」


 石に彫られた文字は浅い。雨が降るたびに少しずつ削れていく類の浅さだ。

 王族がこの城のこの季節に生涯を閉じたことを伝えるだけの、簡素な標。

 標の脇では、白い花が二度目の開花を迎えていた。名は知らない。

 ただ、その花弁の薄さを見ていると、俺の胸にまたあの疼きが生まれた。


 「レヴ」


 声を掛けられ、さっと振り向く。

 同じ候補生のニコが早足で近づいてくる。

 目ざとい男だ。俺の向けている視線の先を一度だけ見て、表情を整える。


 「見なくていい。見なくても、そこにあるのは知ってる」


 「……ああ」


 「北棟の連中は、毎朝通るたびに手を合わせる。習い事みたいなもんだ」


 「お前は?」


 「俺は手を合わせない。代わりに走る。生きてる足でここを通るのが、死んだ者への礼だと、誰かが言ってた」


 ニコは笑わない。

 それが悪いわけではなく、この城では笑わないことも一つの礼儀だ、と最近ようやくわかってきた。

 彼は続けた。


 「王は短く生きる。俺たちは長く立つ。それだけだ」


 「それだけ、か」


 「そう教わった。そうでない時代が来たら、俺たちの教本は全部焼き直しだな」


 ニコの言葉は軽く聞こえたが、耳の奥に刺さって抜けなかった。

 俺はうなずき、詰所へ歩を進める。


 *


 詰所の壁には、王城の断面図が掛けられている。

 図の最下層、基礎石のさらに下に描かれた黒い輪がある。輪からは小さな線が幾筋も伸び、城内の幾つかの間へ接続している。

 線の先には、星形の印。


 封具室。

 初代王が寿命と引き換えに築いたという封印の、触れてはならない器具。

 器具といっても、剣でも鎖でもないらしい。表記上はそう書かれているが、実物を見た者は皆、別々のものを語るという。

 ある者は光る杯だと言い、ある者は血を吸う鏡だと言い、またある者はひび割れた石柱だと言う。

 形が定まらないもの。

 定義を許さないもの。

 それこそが“封”の正体だ、と古い講義で教官が言っていた。


 「レヴ、聞いてるか?」


 中隊長の声で我に返る。

 初任務は城内の巡回。王族の動線に近い廊を歩き、儀礼の妨げを排すだけ——のはずだった。

 だが、中隊長は言葉を選ぶように口を引き結び、地図の一点を指で叩いた。


 「封具室の一つで、脈動が報告された。昨夜から三度、間を置いて……弱いが、確かだ」


 喉が乾く。

 俺は何も言わず、指す先を見た。

 北棟の最奥——古塔の根。

 詰所の床の、さらに下。


 「王家の神官からは、**“季節性の揺らぎ”**という説明が下りている。儀礼に影響なし。巡回は通常通り。騒ぐな。目を凝らせ。耳を澄ませ。以上だ」


 隊員たちが短く返事をし、装具の点検に散る。

 鎧の金具が鳴る音は規定よりわずかに小さい。皆、必要以上に音を立てないよう身の置き方を調節している。

 俺も革紐を締め直し、腰の剣に手をかけた。金属が手のひらの温度を奪う。それでも、掌の中央の古い傷跡だけは、熱を帯び始めていた。


 封印が脈打っている。

 俺の中の何かも、一緒に脈打っている。


 誰にも言えない。

 言葉にした瞬間、何かが壊れる気がする。

 俺はただ、定められた巡回路へ足を向けた。


 *


 北棟の回廊は、壁に沿って淡い光が走っていた。

 光は灯ではなく、石そのものから滲み出ている。封印成立以来、城の石は少しだけ生きるようになった——と、古文書にあった記述を思い出す。

 生きる石は、時々、呼吸する。


 「止まれ」


 角を曲がる手前で、先行の隊員が手を上げた。

 王族の御付きの一団が、白い幕を持ってゆっくりと近づいてくる。幕の内側にいるのは誰か、説明は要らない。

 俺たちは壁際に寄り、頭を垂れた。

 幕は音を立てない。床も鳴らない。

 だが、近づく気配だけは、確かにあった。

 幕の裾が、俺の脛にかすめるほど近いところを通り過ぎる——その瞬間、掌の熱は痛みに変わり、思わず指を握りしめた。


 生きたい。

 生きたい。


 言葉にならない言葉が、誰のものでもない声で、俺の耳の中に落ちた。

 俺は顔を上げない。作法が体を縛る。

 幕が過ぎ去り、空気が戻る。


 「行くぞ」


 短い合図で歩を進める。

 角を曲がると、古塔への螺旋階段が口を開けていた。

 塔の中は、城の中でも古い空気が溜まる場所だ。封具室の一つがあると言われる階層へは、許可なしには降りられない。

 だが、俺たちの巡回路は、その手前の踊り場まで伸びている。


 階段を七十段。踊り場で止まり、視認と聴取。

 規定の動きの最中に、低い音が一度、石の下から上がってきた。

 誰もそれを口にしない。規定にも、記録にも、何も起きていないと書かれるだろう。

 それでも、俺は知ってしまった。

 封の息が、季節の揺らぎではないことを。


 呼吸は、生きたいものがする。

 封が息をするなら、そこには生がある。

 生があるなら、意志がある。


 誰の?


 問いが胸に刺さったまま抜けない。

 俺は踊り場の欄干に手を置き、細い隙間から下を覗く。

 暗闇ではない。

 濃い灰色の層が何枚も積み重なり、その一番下で、見えない何かが微かな拍を刻んでいる。

 それは、遠い鼓動ではなかった。

 俺の掌の傷と、同じ間合いで打っていた。


 「レヴ」


 背中で中隊長の声。

 俺は振り返り、形式通りの返答を短く返した。


 「異常、なし」


 口に乗せた言葉は乾いていた。

 中隊長の目は、わずかに長く俺を見たが、何も言わなかった。


 *


 日の傾きは城の影を長くする。

 夕刻の鐘が鳴る前、俺は一人で北棟の渡り廊を歩いた。

 規定外の行動ではない。訓練の後の持ち場確認。報告されれば些細な注意で済む。

 廊の突き当たり、開け放たれた小さな扉の向こうに、細長い庭がある。

 そこには、例の白い立札が並んでいる。午後の光は浅く、花の輪郭を薄くする。


 ——誰もいない、はずだった。


 白い幕も、侍従もいない。

 ただ、庭の端に、細い影が立っていた。


 王族。

 遠目にもわかった。

 中性的な線の体。顔は横を向き、花に視線を落としている。

 俺は一歩を止めるべきだった。作法はそう教える。

 だが、足は止まらなかった。

 彼/彼女は、振り向かないまま、低く言った。


 「……近い」


 声は薄いが、よく通る。

 俺は立ち位置をずらし、距離を取る。

 花壇と石畳と白い立札の間に、風が一筋、走り抜けた。


 「今日、脈が三度」


 王族は花から目を離さなかった。

 俺は問わない。問う権利はない。

 それでも、言葉は続いた。


 「季節でも、揺らぎでもない。——だれかが、触れている」


 その言葉が、俺の腹の奥で形を変えた。

 触れる、ということ。

 封印に、人が、触れている。


 「……誰が」


 問うべきではない問いが、喉を抜けた。

 王族は、こちらを見ないまま、小さく笑ったように見えた。笑いではないのだと、すぐにわかった。

 生きたい者が、息を整える時の仕草だ。


「私かもしれない。私ではないかもしれない。**生きたい**という願いは、封に似ている。形が定まらない」


 それきり、沈黙。

 風が止み、花が止まり、世界が止まる。


 俺はそれ以上、言葉を持たなかった。

 作法も、理屈も、訓練も、何の役にも立たない沈黙が、確かにそこにあった。

 やがて王族は、花から目を上げ、ようやくこちらを見た。

 初めて、まともに視線が合った。


 生きたい。

 目は、そう言っていた。

 声にしなかった言葉が、俺の胸の疼きと同じ速さで、静かに脈を打つ。


 「レヴ・カザル」


 名を呼ばれて、俺はわずかに肩を揺らした。

 王族は続けた。


 「君は、前にここにいた気がする」


 息が止まる。

 王族は目を細め、確かめるでも詰るでもない調子で、淡々と告げた。


 「私が小さかったとき、ここに立っていた。花はまだ一本だった。立札は一つだった。風の匂いが違った。

 君はいた。——席次も、名も、顔も違う。それでも、君の立ち方だけが同じだった」


 胸の疼きが、形になった。

 それは痛みではない。

 取り戻しに似た感覚。

 忘れていたものに手が触れ、輪郭が返ってくる時の手応え。


 「……覚えていない」


 正直に言う。

 王族はうなずいた。


 「覚えていなくていい。覚えてしまうと、間違う」


 「何を」


 「世界を」


 声は穏やかだった。

 王族は花壇の前から一歩退き、白い立札の影の外に出た。

 影から出るその一歩が、どれほど遠いものかを、俺は想像できなかった。ただ、その足首の細さが怖いほどに脆く見え、手を伸ばすのを作法がかろうじて止めた。


 「レヴ」


 初めて、名を短く呼ぶ声に、親密の音が混じった。

 王族は、ほんの少しだけ首を傾ける。


 「生きるために、私たちは何を壊すのだろう」


 答えられない。

 答えてはならない。

 俺は沈黙の中で、胸の奥の古い名が、静かに目を開けるのを感じていた。


 レヴァン=ソリス。

 呼べば、魂が振り返る名。

 まだ、呼ばない。

 呼んではいけない。


 王族はそれ以上何も言わず、白い幕も従えず、一人で廊の先へ歩いていった。

 その背中は、影よりも薄く、光よりも確かだった。


 *


 夜、塔の根で、二度目の脈動があった。

 記録上は「異常なし」。

 誰も、何も聞かなかったことになっている。


 だが俺は、石の下で燃える王の血の音を、確かに聞いた。

 封は呼吸し、願いは形を得ようとしている。

 生きたいということは、何かを壊すことだと、誰かが言った。


 ならば俺は——何を守る?

 何を、手放す?


 答えのない問いが、夜の長さを測る。

 遠い部屋で、白い旗が揺れた。

 明日、また影が始まりを告げるだろう。

 そして、世界は知らないふりをしたまま、すこしずつ壊れていく。

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