第16章 木を割る音

コーン




コーン






それは木を割る音だった。

鋭く、けれどどこか心地よく、夜明けの空気を割っていた。


グリナスは寝台に横たわっていた。

目を閉じたまま、音だけが耳に届く。


夢だろうか、と思った。

この寝室に薪はない。斧もない。

だが、その音は確かに存在し、確かに心を満たしていた。


「この音は……どこか、懐かしい」


音に引き込まれるようにして、グリナスの意識は、過去へと沈んでいった。






陽の傾きかけた森の中で、若いグリナスが斧を振るっている。

太い木に斧が食い込み、節を裂いていく。




コーン




コーン




無心になれる時間だった。

彼は村の誰よりも働いていた。


貧しかったが、それがどうしたというのだろう。


そのとき、背後から声がした。


「いつも精が出るわね」


振り返ると、キュリアが立っていた。

細い手に、布に包まれた水筒と焼き菓子。


「セッツの爺さんが、冬の薪が足りなかったんだってよ」

「ふふ。やっぱり、優しいのね」


二人は幼馴染だった。

木こりと村の看護師。貧しさも、忙しさも、互いの存在がそれを満たしてくれていた。


なんとなく結ばれ、なんとなく子を作る。そんな運命めいた関係。

互いに好意もあり、不満など一つもなかった。



それでも──ふとした時に、つい口から漏れてしまう愚痴もあった。


「はぁ…おれがもう少し稼げたらなあ」


そう言って、グリナスは頭をかいた。


「私は別に十分よ。このまま、歳を取っていけるなんて最高じゃない」


笑い合いながら、穏やかな時間が流れていた。

あのときまでは――




夜、空が赤かった。

炎と悲鳴。獣のような叫び。


野党団が村を襲ったのだ。


家が焼かれ、人が斬られ、子供の泣き声が風に混じって消えた。

グリナスは斧を持って立ち向かったが、すぐに押さえつけられた。

足を折られ、顔を踏みつけられる。


目の前で、キュリアが引きずられていく。

複数の男に囲まれ、笑い声とともに服を引き裂かれようとしていた。




――その瞬間、何かが、グリナスの中で音を立てて砕けた。




全く役に立たなかった斧の柄を握りしめる。


「俺に…!!」


「俺に……もっと、力があれば……!!」




その時、突風が吹き荒れた。




木々がざわめき、地面から蔦や幹が蠢き始める。


巨大な草木が、蛇のように這い、うねり、野党団を次々と締め上げ、潰し、そして殺していく。




悲鳴が上がり——


命が途絶えるたびに——


緑が深まっていった。




そこに、彼女はいた。


黒い髪。深い瞳。植物の魔法を行使する女。


どんな命乞いにも、彼女は一瞥すらしなかった。




野党を絡み付けたまま――




グッ、と拳を握る。




次の瞬間、絡みついていた蔦が一斉に締まり、最後の野党を握り潰した。




炎に照らされ、返り血を浴びながらも表情ひとつ変えないその少女に、グリナスは思わず声をかけた。


「な、なぜ助けてくれたんだ?」


地べたを這いつくばるグリナスを見る魔女の目は


先ほど殺した野党たちを見る目と大差ないように見えた。




「見るに堪えなかったから殺しただけだ。」




そう言い残して背を向けた女に、グリナスは血だらけのまま叫んだ。


「ま……待ってくれ!!!」


女は振り返らなかった。

けれど、その足は止まっていた。


キュリアが破かれた服装のままグリナスに駆け寄ってくる。




「おれは、あんたに救われた。だから……だからせめて、

恩を返させてくれないか!?」




「私からも!ぜひ!ぜひお願いいたします!」




魔女――マーリンは、しばらく黙っていた。

やがて振り返り、ただ一言だけつぶやいた。


「……人と話すのは、久しぶりだ」


それが、すべての始まりだった。




村に滞在してからというもの、マーリンは誰にも心を開こうとしなかった。

村人の声かけにも、生返事を返すだけ。食事を終えるとすぐに部屋へこもり、何かの研究に没頭しているようだった。


会話らしい会話を交わすのは、グリナスかキュリアとだけ。

それも薪や日用品の手配といった、必要最低限のやり取りにすぎない。



ある朝。

土の匂いがまだ残る再建途中の家屋の前で、一人の男が何かの器具を組み立てていた。


「おい、そこの男。」


声に振り向いた彼は、工具を手にしたまま目を見開いた。

「っ、これはマーリン様……!」


「よい。かしこまる必要はない。それより、それは何だ?」


マーリンの顎が、彼が先ほど取り付けていたものに向けられていた。

そこには、異様に長い筒が家の外壁に沿って伸びていた。


「ああ、これですか。煙突といいます。炎を焚いたとき、煙や熱をこの筒から上に逃がすんです。すると火がよく燃えて、室内が温まりやすくなるんですよ」


「……煙だけを逃すことができるということか?」


「ええ。炎って、燃やすと空気が薄くなって、熱と一緒に上に登るんです。それをうまく利用すれば、煙で咳き込まずにすみますし、煙突の中を通って空気が動くことで、風がなくても部屋の空気を入れ替えられるんです」


男は当たり前のように語った。

だが、マーリンの目は一瞬、見開かれていた。


「お前……その知識、どこで?」


「誰かに教わったわけじゃありません。……まあ、火にあたってると気づくこともあるものでして。昔は鍛冶のまねごとをやってましたからね。暑い日と寒い日で火の立ち方が違う。じゃあ空気にも重さがあるんだな、って」


「……魔法ではないのか」


男は「ははっ」と笑った。


「あなたのように魔法が使えたら、ずっと楽だったかもしれません。でも、これでいいんです。少しずつ、工夫すれば人は豊かに暮らせる」


その言葉に、マーリンはしばらく口をつぐんだ。



彼女にとって「魔法」とは、選ばれし者だけの力ではなかった。

いつの日か人々を救う希望であり、

魔女の継承を断ち、より多くの者に“授ける”ことで、世界は緩やかに変わっていく──

そう信じていた。


だからこそ、無欲に工夫を積み重ねる男の姿は、

彼女にかつての理想を思い出させたのだった。






持たざる者とはただみじめなものだと思っていた。だが———






「そのエントツとやらを、お前の家に取りつけているのか?」


男は、気まずそうに頭を掻いた。


「あ、いえ。ここはグリナスの家ですよ。あいつ、若いのに人一倍働くやつでして……その、何かしてやりたいなと思って」


「……グリナス。あの、私を引き留めた男か」


しばしの沈黙のあと、彼女は問う。


「お前の名は…エルグだな」


男は驚きながら、答えた。


「え、ええ、そうです。エルグと申します。さすが…名乗らずとも名前がわかるのですね。私は村の……まあ、便利屋みたいなものでして」


「そうか」


マーリンは、誰にともなくそう漏らすと、静かに歩き出した。

その背に、男の声が追いかけてきた。


「この煙突、よかったらマーリン様の部屋にもつけましょうか?」


「……好きにしろ」


振り向きもせずに、彼女はそう答えた。


——その日から、マーリンの部屋にも、小さな煙突がつけられたという。

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