ゼロ地点

『02:59:34』


『02:59:33』


冷たいペントハウスに、カウントダウンの電子音だけが響く。


残り、三時間。


ハルは、私という「抗体」を手に入れ、彼の狂った理想を完成させようとしている。


いや、違う。彼は私という「抗体」そのものを、今まさに「ゼロ地点」で解析している。


「……ハルは、私を『移送する』と言ったわ」


私が呟くと、カイトは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……訂正だ。奴が奪ったのは、チップだけじゃない。地下アーカイブで、奴は君の脳がフラッシュバックを起こしたのを見た」


「……!」


「ハルは、君の脳そのものが『抗体』であり『鍵』だと確信した。だから、チップを奪うと同時に、君を『ゼロ地点』へ連行した」


「……私が? 私は、ここにいる……」


「『君のコピー』を、だ」


カイトは、アーカイブで倒れていたエージェントの装備を解析したデータを表示した。


「奴らの装備には、対象の脳波パターンを瞬時にスキャンし、転送する機能が搭載されていた。ハルは、君がフラッシュバックを起こした、あの最も『抗体』が活性化した瞬間のデータを、すでに『ゼロ地点』へ送信していたんだ」


絶望的な事実だった。


ハルは、オリジナル(私)を捕まえる必要などなかった。


彼は、私の脳の「設計図」を手に入れ、今この瞬間も、それを解析し、ラピュータ(拒絶反応)を無効化する『最終パッチ』を製造している。


「もう……手遅れなの……?」


「……いや」


カイトは、険しい表情で「ゼロ地点」タワーの三次元設計図を呼び出した。


「奴が手に入れたのは、あくまで『データ』だ。そのデータを、コードに組み込み、衛星経由でブロードキャストする『最終調整(コンパイル)』には、まだ時間がかかる。……それが、この三時間だ」


「……」


「ハルの計画を止める方法は、一つしかない」


カイトは、タワーの最上階、アンテナの真下に位置する「制御室」を赤くマークした。


「『ゼロ地点』に潜入し、ブロードキャストが開始される前に、奴が構築している『最終パッチ』ごと、システムの中枢を破壊する」


「……できるの?」


「物理的には可能だ」とカイトは、タワーの地下深くを指さした。「調律局のタワーは、最新鋭のセキュリティを誇るが、その土台は、旧時代の地熱発電所跡地だ。古いメンテナンスシャフトが、今も最上階の制御室まで、垂直に繋がっている」


それは、設計図にしか載っていない、カイトのような内部調査官だけが知る「裏口」だった。


「だが、問題がある」


カイトは、私を見た。


「制御室のシステムは、半世紀前の『バベル・プロジェクト』のOSを流用している。それは、特殊なプロテクト……『生体認証』によって守られている」


「生体認証……?」


「ああ。ハルにも、俺にも解除できない。それは、あの実験で唯一の『例外』だった……」


カイトは、私の瞳をまっすぐに見据えた。


「……『被験体D』。つまり、君の脳波パターンでしか、ロックを解除できない」


全てのピースが、はまった。


ミナミ教授が私を守り、記憶を封印した理由。


カイトが、私を「保護」しようとした理由。


そして、ハルが、私の「脳」を欲した理由。


私が、この狂ったコードの「毒」であり、同時に、それを止める唯一の「鍵」だった。


「……アキ。これは、命令じゃない」


カイトは、初めて弱々しい声を出した。「俺は、君の恩師(ミナミ)に、君を危険に晒さないと誓った。だが、残された道は、これしかない。……君が、ゼロ地点の中枢に行き、システムに『鍵』としてアクセスし、全てのコードを停止させる」


私は、震える手を握りしめた。


脳裏によぎるのは、あのノイズに苦しんでいた、名も知らぬ患者の顔。


失踪した恩師の、苦悩に満ちた最後のメッセージ。


そして、ハルの、狂気に満ちた「平和」への渇望。


「……私の記憶……」


私は、あのフラッシュバックを、今度は自らの意思で、呼び起こした。


(――アキ君。これは「言葉」だよ。君だけの、特別な言葉だ)


恩師は、私に「抗体」を与えたのではなかった。


恩師は、私が生まれつき持っていた、この「特別な言葉(鍵)」を、ずっと守っていてくれたのだ。


「……行きましょう、カイト」


私は、立ち上がった。


「これは、半世紀前に、私の『父親』代わりだった人たちが始めた、呪いよ。……私(むすめ)が、終わらせる」


私の目から、迷いは消えていた。


カイトは、重く、一度だけ頷いた。


『02:45:10』


私とカイトは、都市の闇に紛れ、人類の「声」の未来を賭けた最後の戦場、「ゼロ地点」タワーへと向かった。


私は、覚悟を決めた。

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