『ある日、世界から「言葉」が消えた。恩師の失踪を追う私は、自分が半世紀前の「被験体」だったと知る』

伝福 翠人

失語の街

チ、チチッ、という微かな電子音が、防音された診察室のスピーカーから流れた。


目の前に座る初老の男性は、虚空を見つめたまま微動だにしない。


まるで、世界から音が消えてしまったかのように。


「高周波のテストパターン、反応なし……」


私は白衣のポケットに入れたタッチペンを回しながら、隣でメモを取る臨床心理士に小さく告げた。


これが、ここ数ヶ月で世界を覆い尽くしつつある奇病――突発性言語喪失症候群、通称「ラピュータ」の典型的な症状だった。


ラピュータは、ある日突然、前触れなく発症する。


聴覚や発声器官に異常はない。知能も正常。


ただ、「言葉」に関わる全ての能力――話す、聞く、読む、書く――が、綺麗に失われるのだ。


まるで、脳から言語野だけをスプーンでくり抜かれたかのように。


言語学者である私、アキが、なぜ臨床の現場にいるのか。


それは、この病が従来の医学や脳科学の範疇を、あまりにも逸脱していたからだ。


患者たちは言葉を失うだけでなく、言葉によって構築されていた「世界」そのものへの関心も失っていく。


彼らは沈黙の繭の中で、ゆっくりと人間性を風化させていく。


私はタブレットを操作し、次のテストに移った。


「ノイズパターン、ランダム再生。レベル3」


スピーカーから、砂嵐のような、あるいは遠くの滝のような、不快な雑音が流れ出す。


普通なら顔をしかめるはずの音量だ。だが、男性は変わらず虚空を見つめている。


「……レベル4に」


音量が上がる。


その瞬間だった。


男性の肩が、ビクッと痙攣した。


虚ろだった瞳が、焦点を結ぶ。それは恐怖に近い色だった。


彼は何かに怯えるように耳をふさぎ、うめき声を上げ始めた。それは言葉にならない、単なる音の放出だった。


「待って。音量を固定。再生パターンを……そう、0.8秒周期のパルスに変えて」


心理士が慌ててコンソールを操作する。


ザッ……ザッ……ザッ……


規則的なノイズが響いた途端、男性は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がり、壁際に後ずさった。


「やめろ」


そう聞こえた気がした。


だが、彼の口から発せられたのは、やはり意味を持たない喉の摩擦音だけだ。


「……すぐに止めて」


ノイズが途切れると、男性は荒い息を繰り返しながら、再びゆっくりと繭の中に戻っていった。瞳から光が消え、まるで電源の落ちた機械のように、その場にうずくまる。


私は立ち上がり、彼にそっと肩掛けをかけた。


「アキ先生?」


心理士が不安げに私を見つめる。


「今の、記録して。特定の周期を持つノイズパターンにのみ、強い拒絶反応。……言葉や音楽には一切反応しなかったのに」


これは単なる言語障害ではない。もっと別の、何かだ。


言葉が「聞こえない」のではなく、別の何かが、言葉の認識を「妨害」している……?


その時だった。


診察室のドアがノックされ、スタッフが息を切らして顔を覗かせた。


「先生、至急、お電話が……警察からです」


嫌な予感が背筋を走った。


受話器を取ると、聞き覚えのある、しかし今は冷たく響く声が鼓膜を打った。


「……カイト?」


電話の主は、大学の同期だったカイトだった。今は政府のどこかの機関でエリートになっていると聞いていたが。


『久しぶりだな、アキ。……落ち着いて聞いてほしい。ミナミ教授が、失踪した』


「失踪……?」


頭が真っ白になる。ミナミ教授は、私の恩師であり、このラピュータ研究の第一人者だ。昨日の夕方、次の症例についてオンラインで話したばかりだった。


『今朝、大学から通報があった。教授はご自身の研究室から、全ての研究データと共に姿を消した。機密保持の観点から、我々が捜査を引き継いだ』


「そんな……事故ですか? それとも……」


『……教授の研究室は、今、完全に封鎖されている。悪いが、君にも事情を聞く必要があるかもしれない。今日はもう帰りなさい』


一方的に通話が切れる。


私は受話器を置いたまま、動けなかった。


失踪。研究データと共に。


先ほどの患者の顔がよぎる。


あのノイズに怯えていた、彼の瞳。


そして、ラピュータの危険性を誰よりも早く警告していた、恩師の顔。


「先生、顔色が……」


「……大丈夫」


私はかぶりを振った。


「悪いけど、後の診断、お願いできる?」


白衣を脱ぎ捨て、コートをつかむ。


カイトは「帰れ」と言った。だが、彼は「研究室に行くな」とは言わなかった。


警察やカイトの所属する「機関」が介入している。これは、ただの失踪事件ではない。


ミナミ教授が最後に掴んだもの。それが、あのノイズと関係しているのなら――


私は病院を飛び出し、雨が降り始めた灰色の街を走り抜けた。


向かう先は一つ。封鎖されているはずの、恩師の研究室だ。


真実は、そこにある。

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