第43章 神はいるのか


「お願い! 通して! どいてください!!!」




シュンに遅れること二十分——

ナルミは多摩川沿いに発生した“赤色空間”に辿り着いていた。



現場はすでに報道ヘリの轟音と、規制線を押し寄せる群衆のざわめきに包まれている。

人波に押され、息もできない。




ようやく最前列にたどり着いたところで、警備員の腕が行く手を遮った。

境界線の向こうでは、黒い装備に身を包んだ特殊部隊が整列し、突入の合図を待っている。

その赤い空間の奥では、何かが微かにうねっていた。




だが——ナルミには待つという選択肢がなかった。

部隊の動きからして、彼らの目的は“救出”ではなく、“キューブの破壊”だとすぐに悟る。

シュンの事など知る由もない。





シュンは二人もの家族を亡くした人だ。

そんな人間が、よりによってこの空間に飛び込んだ。

——それは、自殺と呼ぶ以外になかった。




(いやだ……! いやだ……シュンさん、行かないで!)




胸の奥が締めつけられる。

彼がどれほど傷つき、どれほどこの世界に抗ってきたかを、ナルミは誰よりも知っていた。

だからこそ、放っておけなかった。




「どいてっ!!!」



制止の声を振り切り、彼女は群衆を押し分けて境界線を越えた。


赤い霧が身体を包み、世界の色が一瞬で変わる。

視界が滲み、音が遠ざかる。




「おい、こらっ! 君! 戻りなさい!!!」



背後で誰かが叫んでいた。

だが、その声はもう、現実のものには聞こえなかった。


——赤の中で、すべてが溶けていく。

ナルミはただ、彼を追って歩き出した。




知識としては知っていた——だが、実際に“赤色空間”へ足を踏み入れるのは初めてだった。

そこは、まるで鏡の中の世界だった。

景色が反射して重なり合い、すべての輪郭がぼやけている。



それでいて、どこまでも美しい。




高層ビルの影が水面のように揺れ、空からは無数の赤い雨が静かに降っていた。

風はないのに、雨粒だけがゆっくりと斜めに流れる。



(……すごい……本当に血の雨みたい)




靴底が濡れたアスファルトを踏むたびに、赤い水が花のように弾ける。

それでもナルミは足を止めなかった。




シュンのマンションは知っている。

——2021年の春。

本部の歓迎会で酔いつぶれたシュンを、上司と二人で送り届けたことがあった。

その時、彼の妻を初めて見た。

穏やかな目をした、美しい人だった。

まさか、その人が——今はもう、この世にいないなんて。




(シュンさん……間に合って!)




息を切らしながら坂道を駆け上がり、マンションの入り口へと辿り着く。

周囲の景色はどこか歪んでおり、建物そのものが呼吸しているように見えた。




オートロックのガラス扉の前に立つと、ナルミは一瞬だけ迷った。

だが、次の瞬間には近くの壁から消火器を掴み取り、振りかぶっていた。




「うあぁああああ!!!」



——ガシャンッ!!!




鈍い音とともに、厚いガラスが砕け散る。

破片が赤い雨に濡れ、床の上で宝石のように光った。


静寂。

そして、空間全体がかすかに震えた。




記憶の頼りに、ナルミはシュンの部屋へと駆ける。



(見えた…!)




扉を押し開けて中に飛び込むと、そこにシュンがいた。

キューブの前に立ち尽くし、無言でボソボソと何かを呟いている。




(……!!)



ナルミの胸が締めつけられ、全身から力が抜けた。絶望がじわりと押し寄せる。




「シュンさん……そんな……」




言葉にならない声が、息切れとともに床に落ちた。

ナルミはその場にへたり込み、両腕は力なく落ちた。



赤い雨が静かに降り注ぎ、まるで空間全体が泣いているかのようだった。




最愛の娘を失い、最愛の妻を失った。

そして今――その思い出を利用され、シュン自身が命を落とそうとしている。




(神様……あなたは、本当にいるの?)



いるというのなら、今すぐここに来て、何とかしてほしい。




シュンは、世界の残酷さを体現したかのように、ただ立ち続けていた。

その光景を前に、ナルミの涙は止まらなかった。

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