第10章 一週間

雨は降っていないのに、

火葬場の空気は湿っていた。




線香の煙が静かに立ち上り、

誰もが言葉を選ぶように沈黙していた。




白い布に包まれた骨壺の前で、

シュンは長い間、手を合わせていた。




「……本当に、行ってしまったな。」




外の喫煙所で、背後から声がした。

振り返ると、黒い喪服に身を包んだ隊長が立っていた。

疲れ切った目で、無理に口角を上げている。




「隊長……」


「最後まで、あのままだった。

 脳波は正常、心臓も健康そのものだったのに……突然、だ。」




「“懐古病(かいこびょう)”……ですか。」


「そうだ。報道では“意識内帰属症候群”なんて言ってるけどな。

 現場じゃ誰もそんな呼び方はしない。」


「……懐古病。」

シュンはその言葉を繰り返した。




どこか、切なく美しい響きを持っていた。

(懐かしさが、人を殺す——そんなことが本当にあるのか。)




「赤色空間で過去に囚われ、生きながら、記憶の中で人生をやり直す。

 そして発症から一週間で命を落とす。

 …ある意味幸せかもな。」


隊長は苦く笑い、煙草に火をつけた。

紫煙が空へと溶けていく。


「ですが…死んでしまうのなら、意味はあるのでしょうか。」


「……わからん。」




しばしの沈黙。

風が吹き、火葬場の灰をかすかに巻き上げた。




「政府が“赤色空間対策本部”を設立した。

 正式に、我々がその所属になる。」


「本部ですか。」


「そこにお前を異動させることになった。」


「え。自分がですか……?」


「安心しろ。本部なら事実上の栄進だ。

 お前だけが、キューブを破壊できたしな。」




隊長は一拍置いて、低く続けた。


「本部は、“懐古病”の傾向がある人間は配属できない。

 発症者は、過去に大きな喪失を経験している可能性が高い。

 心に深い傷を持つ者ほど、あの空間に囚われやすいのかもしれない。」


「……」


「お前には——ないよな?」




その言葉に、シュンの胸が静かに軋んだ。




(……俺には、喪失がない?)


確かに思い当たるのは、実家で飼っていた犬が老衰で死んだことくらい。

悲しくはあったが、それ以上ではなかった。

ペットロスと呼ぶほどの痛みではない。

薄情と言われればそれまでだが——




「思い当たる喪失はありません。両親も健在ですし、妻も……娘も元気です。」


その瞬間、風が止んだ。

灰色の雲の切れ間から、鈍く光る太陽が顔を出す。


隊長は小さく頷き、煙草の火を指で消した。



「……そうか。頼りにしてるぞ、シュン。」


——その言葉が、

どこか“別れの挨拶”のように聞こえた。



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