第3話 命を懸けた約束

【アムル視点】


渦が消えた海は信じられないほど静かだった。俺たちはイカダを波打ち際まで運び最終的なチェックを行った。積み荷はしっかり固定されている。帆も問題なく張れる。全てが完璧だった。


「よし。行こう」


俺はヒルデに声をかけた。彼女はこくりと頷き先にイカダに乗り込んだ。俺も続こうとしたその時だった。


ズウウウン――。


地響きがした。地面が揺れている。鳥たちが一斉に森から飛び立っていく。何かがおかしい。


俺は剣の柄に手をかけた。森の奥。その暗闇の中から何かがこちらへ向かってくる。一つや二つじゃない。無数の気配。


俺はヒルデに叫んだ。


「伏せろ!」


次の瞬間。森の木々をなぎ倒しながら奴らが現れた。


狼に似た姿の魔物。猪のような突進力を持つ魔物。猿のように身軽な魔物。今まで俺たちが戦ってきた魔物たちが種類を問わず大群となって海岸へ押し寄せてきた。


その数は数百……いや、千は超えているかもしれない。海岸線が魔物で埋め尽くされていく。まるで島の全ての魔物が集結したかのようだった。


「な……なんで……」


ヒルデが絶望の声を漏らす。俺も同じ気持ちだった。なぜこのタイミングで。まるで俺たちの脱出を阻止するために現れたとしか思えなかった。


奴らの目は一様に俺たちのイカダに向けられていた。逃がさない。奴らの殺気がそう告げていた。希望が一瞬で絶望に塗りつぶされる。ここまで来て終わりなのか。俺たちの夢はここで潰えるのか。


俺は歯を食いしばった。諦めるわけにはいかない。絶対に。




【ヒルデ視点】


目の前の光景が信じられなかった。魔物の大群。地獄のような光景。足がすくんで動けない。もうダメだ。終わった。涙が溢れてくる。


その時、アムルさんが私の前に立った。彼の背中が壁のように私を守ってくれる。いつものように。でも今回は相手が多すぎる。いくらアムルさんでも無理だ。


「アムルさん……逃げましょう……」


私の声は震えていた。


「どこへ逃げるんだ」


彼の声は冷静だった。そうだ。この島に逃げ場なんてない。海へ出るしかない。でも、この魔物の群れをどうやって突破するの。


アムルさんが剣を抜いた。魔物の骨で作られた無骨な剣。


彼は静かに言った。


「ヒルデ。俺が時間を稼ぐ。その間にイカダを出せ」


私は首を横に振った。


「嫌です!そんなことできません!アムルさんを置いていけない!」


彼一人を残して逃げるなんて絶対にできない。


「これは命令だ」


彼の声が厳しくなる。初めて聞く彼の冷たい声。私は怯んだ。


「でも……!」


アムルさんは私の方を振り向いた。彼の瞳は真剣だった。そして悲しそうに微笑んだ。


「大丈夫だ。俺は死なない。必ず後から追いかける。だから先に行け」


彼の言葉は嘘だと分かっていた。あの数の魔物を相手に一人で生き残れるはずがない。彼は死ぬつもりだ。私を逃がすために。


「嫌だ!嫌だ!死なないで!」


私は泣き叫んだ。彼の服を掴んで離さない。一緒に行く。死ぬなら一緒だ。そう思った。





【アムル視点】


ヒルデが俺の服を掴んで離さない。彼女の気持ちは痛いほど分かる。でも選択肢は他にない。二人で戦っても勝てない。二人で逃げようとしてもイカダを出す前に追いつかれる。どちらかが犠牲になるしかない。ならばそれは俺の役目だ。


俺は心を鬼にした。ヒルデの手を振りほどき、彼女の体を強く突き飛ばした。彼女は体勢を崩しイカダの上に倒れ込む。


俺はすぐさまイカダを岸から蹴り離した。そしてイカダと岸を繋いでいた最後の命綱である蔓に剣を振り下ろした。ザシュッ。蔓が断ち切られる。イカダはゆっくりと沖へ流されていく。


「アムルさん!」


ヒルデが泣き叫びながら手を伸ばしてくる。その姿を見るのが辛かった。


でも俺は振り返らない。魔物の群れに向き直る。奴らが一斉に俺に向かってきた。


俺は大きく息を吸い込んだ。


「先に行け!」


俺は叫んだ。ヒルデに届くように。精一杯の声を張り上げた。


「必ず迎えに行く!だから……幸せになれ!」


最後の言葉は声にならなかったかもしれない。一番最初に突進してきた狼型の魔物を一刀両断にする。鮮血が舞い、俺の顔を濡らした。それが戦いの始まりの合図だった。


俺は次々と襲いかかってくる魔物を斬り伏せていく。一匹。また一匹。身体が熱い。アドレナリンが全身を駆け巡る。痛みを感じない。恐怖も感じない。ただ目の前の敵を倒すだけ。


遠ざかっていくイカダが見える。ヒルデの泣き顔が見える。それでいい。彼女が無事ならそれでいいんだ。俺の命なんて安いものだ。彼女の未来と引き換えにできるのなら。






戦いはどれくらい続いただろうか。もう時間の感覚はなかった。俺の周りには魔物の死体が山のように積み上がっていた。


俺の体も無事ではなかった。全身が傷だらけで血を流し続けている。左腕は折れているかもしれない。それでも俺は立ち続けた。剣を握り続けた。


魔物の数は少しずつ減ってきている。だが俺の体力も限界に近かった。視界が霞む。意識が朦朧としてきた。


その時。最後の一匹であろう巨大な猪型の魔物が突進してきた。もう避けられない。俺は覚悟を決めた。


ヒルデ。君の顔が目に浮かぶ。君と過ごした一年は俺の宝物だ。ありがとう。心の中で呟き、俺は目を閉じた。


衝撃。俺の体は宙を舞い岩壁に叩きつけられた。そこで俺の意識は完全に途絶えた。





……。

………。


どれほどの時が流れたのか。俺は再び目を覚ました。全身が激しく痛む。だが生きていた。奇跡的に。


俺は体を起こし周囲を見渡した。海岸は魔物の死体で埋め尽くされていた。そして海を見る。ヒルデを乗せたイカダはもう見えなかった。彼女は無事に逃げられたのだろうか。そうであってほしい。


俺は立ち上がった。体はボロボロだが心は不思議と穏やかだった。約束したんだ。必ず迎えに行くと。俺は死ねない。彼女の元へ帰るまでは。




それからさらに一年が過ぎた。

日々の戦いは俺をさらに強くした。もはや俺に敵う魔物はこの島には存在しないだろう。


俺は島の木を使い一人で小舟を作り上げた。イカダよりもずっと頑丈な船だ。食料と水を積み込み、俺はついに島を離れる時を迎えた。


二年ぶりの文明社会。そしてヒルデとの再会。


待っててくれ、ヒルデ。今。迎えに行く。


俺はオールを握り力強く漕ぎ出した。希望に満ちた船出のはず…だった。

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