第2話 絆とイカダ

【アムル視点】


島に漂着してから一年が経とうとしていた。季節の移り変わりなどほとんど感じない島だったが、俺たちの体には確実に時間が刻まれていた。俺の体は贅肉が削ぎ落とされ、筋肉の鎧をまとっていた。日々の戦闘と労働の賜物だ。剣の代わりに使っている魔物の骨を削り出した剣もすっかり手に馴染んだ。


ヒルデも変わった。最初の頃の儚げな雰囲気は消え、強い意志を宿した瞳で俺を見つめるようになった。彼女の回復魔法はもはやC級のそれではない。俺が瀕死の重傷を負っても数分で治してしまうほどの力をつけていた。


俺たちは二人で生き抜いてきた。食料は森の果物や捕らえた動物。水は島の中心部にある小川から確保した。寝床は海岸近くに見つけた洞窟。そこが俺たちの家だった。


朝起きるとまずはお互いの無事を確認する。それが俺たちの習慣になっていた。俺が火を起こし、ヒルデがスープを作る。昨日の残りの肉と木の実を入れただけの簡単なものだ。それでも二人で食べると不思議と美味かった。


「今日の予定だけど、午前中はイカダ作りを進めたい。午後は食料の調達に行こう」


俺が言うと、ヒルデは頷いた。


「分かりました。私も手伝います」


彼女はもう俺の保護対象なんかじゃなかった。対等なパートナーだ。


俺たちは洞窟を出て海岸へ向かった。そこには作りかけのイカダがあった。

島の硬い木を切り出し、蔓で縛り上げたものだ。何度も失敗を繰り返しようやく形になってきた。

脱出。それが俺たちの唯一の希望だった。この島を取り巻く奇妙な渦。

あれは年に数度、数時間だけ弱まる時期があることを俺たちは経験から学んでいた。その時を狙ってこのイカダで島を脱出する。その日がもうすぐそこまで迫っていた。


「アムルさん。この蔓で大丈夫でしょうか」


ヒルデが尋ねる。


「ああ。一番丈夫なやつを選んできた。問題ないはずだ」


俺たちは黙々と作業を続けた。金槌の代わりに石を使い、釘の代わりに硬い木の枝を打ち込む。原始的な作業だ。それでも俺たちの手は確かな未来を作り出していた。


汗が額から流れ落ちる。ヒルデが布で拭ってくれた。そのさりげない優しさに心臓が跳ねる。この一年で俺たちの関係は大きく変わった。仲間であり、家族であり、そして――。俺は彼女を愛していた。




【ヒルデ視点】


アムルさんの背中を見つめる。一年前とは比べ物にならないほど広くたくましい背中。この背中に私は何度も守られてきた。初めて大型の魔物に襲われた時。高熱で倒れた時。絶望して泣き崩れた時。いつも彼は私の前に立ち、私を守ってくれた。彼の存在がなければ、私はとっくに死んでいたでしょう。


彼の剣技はもはや達人の域に達している。魔物の硬い甲殻を紙のように切り裂き、その動きを完璧に読んで反撃する。彼の戦う姿は美しく、そして少しだけ怖い。彼が傷つくたびに私の心は張り裂けそうになる。だから私の回復魔法も強くならなければならなかった。彼を守るために。彼が安心して戦えるように。私のヒールが彼の唯一の盾なのだから。


夜。洞窟の中で燃える焚き火を見つめながら話すのが日課だった。今日は王都の話をした。


「王都に帰ったら何がしたいですか」


私が尋ねると、彼は少し考えてから言った。


「美味いものが食いたいな。あとふかふかのベッドで眠りたい」


子供みたいな答えに私は思わず笑ってしまった。


「私は…お風呂に入りたいです。ゆっくりと」


そう言うと彼も笑った。


「それもいいな」


他愛のない会話。でも私にとっては宝物のような時間。


静寂が訪れる。燃える薪がパチパチと音を立てるだけ。私は勇気を出して言った。


「あの…アムルさん。もし…もし無事に帰れたら…」


言葉が続かない。何を言おうとしているの、私。アムルさんが不思議そうな顔で私を見る。


「どうしたんだ」


私は首を横に振った。


「いえ…なんでもありません」


言えるはずがない。あなたが好きですなんて。この極限状況がそう思わせているだけかもしれない。彼に迷惑をかけたくない。私は自分の気持ちに蓋をした。


それでも彼への想いは日に日に大きくなっていく。彼がイカダを作る横顔。彼が食事をする姿。彼が眠る寝顔。その全てが愛おしい。

この島での生活は地獄のはずなのに、彼といると幸せだと感じてしまう瞬間がある。私はなんて罰当たりなのだろうか。キリガスさんやリーナさんを失ったというのに。


罪悪感と恋心が私の心の中で渦巻いていた。私はただ祈ることしかできない。どうか無事にこの島から脱出できますように。そしてこの想いがただの気の迷いでありますように。




【アムル視点】


イカダが完成した。数ヶ月に及ぶ俺たちの努力の結晶だ。決して頑丈とは言えないが、見た目は悪くない。帆も張った。これで風さえあれば進めるはずだ。


俺たちは完成したイカダを眺め、言葉もなく立ち尽くしていた。希望そのものだった。


「やったな…ヒルデ」


俺が言うと、彼女は涙ぐみながら頷いた。


「はい…やりましたね」


俺たちは自然と抱き合った。互いの鼓動が伝わってくる。この温もりを失いたくない。絶対に。


渦が弱まる日まであと三日。俺たちは脱出のための最終準備に取り掛かった。保存食と水をイカダに積み込む。航海中に魔物に襲われないように、イカダの周りには魔物が嫌う匂いを出す植物の汁を塗りたくった。準備は万端だった。


脱出前日の夜。俺はヒルデに渡したいものがあった。昼間のうちにこっそり作っておいたものだ。島の海岸で見つけた虹色に輝く綺麗な貝殻。それに穴を開けて蔓を通しただけのお守りだ。


「ヒルデ。これを」


俺は彼女にそれを差し出した。彼女は驚いたようにそれを受け取った。


「これは…?」


俺は照れくさくて視線を逸らした。


「お守りだ。気休めかもしれないが…。君を守ってくれるように」


ヒルデは貝殻を胸に当ててぎゅっと握りしめた。彼女の瞳が潤んでいるのが分かった。


「ありがとうございます…アムルさん。宝物にします」


彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも美しかった。


俺は衝動を抑えきれなかった。彼女の肩を掴み、自分の方へ引き寄せる。そして彼女の唇に自分の唇を重ねた。

初めてのキス。それは潮の味がした。

ヒルデは驚いて目を見開いていたが、やがてゆっくりと目を閉じた。短い時間だったが、俺にとっては永遠のように感じられた。


唇を離すと二人とも顔が真っ赤だった。気まずい沈黙が流れる。


「ご…ごめん。いきなり…」


俺が謝ると、彼女は首を横に振った。


「いえ…。嬉しかったです」


彼女は俯いたままそう言った。その言葉に俺は救われた。俺たちはもう一度見つめ合う。言葉は必要なかった。必ず一緒に帰る。そして帰ったらもう一度…。

俺たちの間には確かな約束が生まれていた。


明日は決戦の日だ。俺はヒルデの手を強く握った。この手をもう二度と離さないと心に誓って。




【ヒルデ視点】


アムルさんからのキス。彼の唇の感触。まだ胸がドキドキしている。


彼が作ってくれた貝殻のお守りを首から下げた。ひんやりとした感触が心地よい。これが私を守ってくれる。彼がそう言ってくれた。私はもう何も怖くない。彼がいればどこへだって行ける。


洞窟の中で私たちは寄り添って眠った。彼の腕の中は暖かくて安心できた。これが最後の一夜になるかもしれない。そんな不安もあった。でもそれ以上に明日への希望が大きかった。


朝が来た。洞窟の外に出ると空は快晴だった。そして海を見る。いつも私たちを閉じ込めていた巨大な渦が嘘のように消えていた。穏やかな海面が広がっている。


「来たな」


アムルさんが呟く。彼の声には緊張が滲んでいた。


「行きましょう」


私は彼の手に自分の手を重ねた。彼は力強く頷いた。


私たちは海岸へ向かった。完成したイカダが私たちを待っている。希望の船。二人で作り上げた未来への道。さあ帰ろう。私たちの故郷へ。二人で新しい人生を始めるために。


私は、もう、ただ彼の隣にいられることが嬉しくてたまらなかった。アムルさんがイカダを海へと押し出す。私もそれに続いた。いよいよ脱出の時が来た。

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