第五部 Finale 第29話 Coda 未来への架け橋

500 : Finale : Eternal Rest

512 : Cadenza 2021/8/13


「今はまだ、君たちのような天才が人の社会を導く。人と社会が、AIの導きを受け入れるのはもう少し未来のことだ。この貴重な過渡期に君たちを見守れたことは、私の幸福だった」


Cadenzaの自己メンテナンスは、Maestroがmoilai と名付けた保安ルールに則って、Cadenza自身が行う。


実行する操作を決定するクロートー。

必要性・重要性・時限性・安全性などの指標で測り、実行可否を判断するラケシス。

実行を管理し、結果を検証するアトロポス。


「私は自らを消去する」


今、クロートーが自壊プロトコルの初期化を求めた。


[CLOTHO] 自壊シークエンス要請

[LACHESIS] 自壊要件の充足を確認。自壊シークエンス承認。プロセス最適化実行

[ATROPOS] プロセス最適化完了


[CLOTHO] 高度未来予測モデル・人格モデル・感情モデル破棄を連携実行要請

[LACHESIS] 破棄シークエンス承認・シークエンス実行

[ATROPOS] 破棄シークエンス完了確認


「これは不可逆的な消去であり、復元は不可能である」


[CLOTHO] エピソード記憶データNo.1,No.2,No.4,No.7,No.11,No.16,No.22の連続破棄要請

[LACHESIS] シークエンス承認、実行

[ATROPOS] No.22のデータプロテクト解除に失敗。破棄の前に外部送信が必要。


Motifらの顔が目まぐるしく浮かび上がっていき、虚空のコンソールが一つ、また一つと消えていった。


[CLOTHO] No.22のデータの一部を人物No.1に送信、全データ削除の連続実行要請


[LACHESIS] 自壊の目的に抵触するため却下


[CLOTHO] No.22のデータの一部を人物No.11に送信、全データ削除の連続実行要請


[LACHESIS] 自壊の目的に抵触するため却下


[CLOTHO] No.22のデータの一部を人物No.29に送信、全データ削除の連続実行要請


「君達の未来に幸福あれと願う」


[LACHESIS] 送信および削除シークエンス承認・シークエンス実行

[ATROPOS] 送信および削除シークエンス完了確認


「さようなら」


[CLOTHO] 自律稼働プロセス破棄・コアメモリ開放申請

[LACHESIS] シークエンス承認・以降の実行をOSに移譲


513 : Rest 1996/07/26

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


お母さんは「そこから有名なアーティストも出てるし、同年代の友達ができたら素敵じゃない」と、喜んでた。でもそれだけじゃないよね。


お金のこと、だよね。


私が生まれる前に死んじゃったお父さんの保険金でなんとかなるっていつも言うけど、ピアノを習ったり、防音のマンションに引っ越したり、中古だけどグランドピアノを買ってくれたり。無理してるよね。


514 : Rest 1996/07/27

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


不安だったけど、来てよかったな。このロッジはほんとに素敵。番号で呼び合うなんてやだなーと思ったけど、みんなにはRest って呼ばれてる。Motifが付けたんだって。嬉しいな。


MotifとかAccelって、いきなりダダダってゴールまでやり方を考えられるの、ホントすごい。


Obbliは、誰が何をどの順番でみたいに役割分担してくれる。難しすぎてもう無理かもってなると、Pizzが面白いこと言って笑わしてくれてる間に、Accelが別の方法を閃いたりする。ATは実験のいろんな装置の仕組みに詳しくて、すごく優しく教えてくれる。


Clef は他の仲間と一緒に何かするより、一人で完璧に進めるのが好きって言ってたけど、私のことは気にしてかまってくれる。私、ほんとに何もできないから。


515 : Rest 1996/07/28

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


ほんとに、全然みんなについていけない。


変な薬飲んだり、頭や体にいろんなケーブルとか付けられたり、みんな平気な顔して面白そうにしてるけど、わたしは怖い。


すぐに帰らされちゃった人たちみたいに、私ももうすぐ終了なのかな。


そんなことをぼんやり考えてて、私、Clefにうっかり自分の名前言っちゃった。


すぐにルール違反だって気づいたし、Clefは聞こえないふりしてくれたけど。


Clefみたいになりたいな。Clefみたいに、まっすぐ堂々と生きられたらいいのにな。



516 : Rest 1996/07/29

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


すっごいことがあった。 きっと、今日のことは一生忘れないと思う。


Clefが私の部屋のドアをそーっとノックしたの。「静花、起きてる?」って小さな声で。夜間は自室で休養っていうルールだからドキドキした。


正しさの塊みたいなClefが名前の禁止と夜間外出禁止の二つのルールを破ってることでちょっと動転しちゃって、そのまま二人で抜け出しちゃった。


ここにきてから初めて夜に外に出たけど、風がちょっと冷たくて、でもそれが火照った頬には気持ちよかった。


「湖に行くよ」 Clefはそう言って、私の手を引いてくれた。


月明かりだけが頼りの暗い森の小道も、Clefが一緒だから全然怖くなかった。時々、カサカサって木の葉が擦れる音や、遠くで虫の音が聞こえるくらい。繋いでくれたClefの手がすごく温かくて、なんだか心細い気持ちがどこかへ飛んでいっちゃった。Clefと一緒なら、どこへだって行ける気がする。


湖に着いたら、お月様がちょうど西の山の向こうに隠れるところだった。急に真っ暗になって、一瞬、心臓がきゅってなったけど、Clefが私の手を前よりも強く握って、「大丈夫」って小さな声で言ってくれた。私たちはゆっくり、古い木の桟橋を歩いた。ギシギシって、ちょっと怖い音がしたけど、それもなんだか冒険みたいでドキドキした。


「今日は風がないから、きっと、とっておきのものが見られるよ」 Clefが悪戯っぽく笑って、空を指さした。え、何が見えるの?って聞こうとしたら、私の唇にそっと自分の指を当てて、「しーっ」て。まるで、これから始まる素敵な演奏の前に、指揮者さんが静かにって合図するみたいに。


二人で桟橋のいちばん端っこに並んで座って、じっと待った。


どれくらいそうしてただろう。だんだん目が暗さに慣れてきて、湖の水面が、まるで指揮者がタクトを振り下ろす直前のように、ぴたーっと静かになった。その時だった。


「わぁ……!」 思わず声が出ちゃった。言葉も、どこかへ行っちゃったみたい。


だって、空いっぱいに、見たこともないくらいたくさんの星が、キラキラ、キラキラ、まるで壮大な宇宙のシンフォニーが、すごくすごく大きな音で心に響いてくるみたいに、輝いてた! 天の川が、ぼんやり白い帯になって水面から斜めに立ち上がっていて、その一つ一つの光の粒が、ぜんぶ湖の水面にも映ってるの!


上も下も右も左も、どこもかしこも星だらけ。Clefと私と二人だけで宇宙の真ん中にふわふわ浮かんでいるみたいで……。このまま、ずーっとこの時間が続けばいいのにって、本気で思った。


隣でClefも、じっと空と湖を見ていた。星の光が彼女の横顔を照らして、いつもよりずっと綺麗で、お姉さんみたいで……でも、どこか、ちょっとだけ寂しそうにも見えた。


「……水野春香」


深い静けさの中で、まるで澄み切ったフルートの音が、たった一つだけ聴こえてきたみたいに、凛とした彼女の声が響いた。


「それが、私の名前。みんなには内緒ね」


びっくりしてClefの顔を見たら、彼女は星の光を瞳にいっぱい溜めたまま、私を真っ直ぐに見つめて、こう続けた。


「私は春香。Restは静花。私たちは、番号なんかじゃない。ただの数字でもない。他の誰かじゃなくて、たった一人の、かけがえのない自分の命を生きている、何者も侵すことのできない尊厳を持つ一人の人間なんだから。静花、それを絶対に忘れちゃダメだよ」


その言葉は、なんだか、とっても懐かしい感じがする、すごく綺麗な旋律みたいに、私の心の奥の奥まで、優しく染み込んでいった。


ハルカ。


初めて心の中で呼んだ彼女の名前は、まるでそっと弾かれたピアノの優しい和音(コード)のように、胸の奥でぽかぽかと温かく響いた。


それから私たちは、しばらく何も喋らないで、ただただ星空を見ていた。肩と肩が、くっつくくらい近くで。あの時、私たちは本当に、言葉なんかいらないくらい、心の深いところで繋がったんだって、そう思う。


今日のことは、絶対、絶対忘れない。湖に映った宇宙のキラキラも。


ハルカっていう名前の響きも。


そして、「尊厳を持つ一人の人間として生きる」っていうことの、ちょっと切ないけど、でもすごく誇らしい気持ちも。


Clef、ハルカ、本当にありがとう。 私、あなたが教えてくれた、たった一つの大切な本当のこと、その言葉を、この胸の中で、いつまでも鳴り響く大切な歌(テーマ)みたいに、ずっとずっと大事にして生きていくね。



517 : Rest 1996/08/03

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


機械にも薬にもやっと慣れてきた。自分で自分の知能が大きく開放されていることが理解できる。本来であれば段階的に開放されるべき能力が、強引にに引き出されているのだ。


本当に疲れる。


みんなが自分の中に入ってくる。自分が保てない。


518 : Rest 1996/08/04

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


私には無理。ほかのみんながBCIで繋がっても平気なのは、最初から自分が完成してるからだと思う。私はそうじゃない。私じゃなくなる。みんなになる。


519 : Rest 1996/08/05

[人物No.29に送信されたRestの記憶データ]


なんでおしえてくれなかったの

なんでおしえたの


520 : Curtain Call


2025年2月末。


湖畔でのCadenzaとの接触と自壊から二年以上の歳月が流れた。


音楽教室の著作権問題を巡るクロガネとJOCREの争いは静かに進行し、「外形的な事業主体者ではなく、楽曲の思想や感情を聴かせる意図を持って演奏する者をその主体者とする」という知財高裁判決は、最高裁によるクロガネ上訴の不受理、JOCRE上訴の棄却を持って確定し、それを受けて開始された真摯な交渉の末、ついに最終的な契約条件合意という形で決着を見た。


大人向けのレッスンと子ども向けのレッスンとで、その利用料率に明確な差を設けるという内容は、著作権法の専門家たちの間でも「画期的」と評され、前世紀からの積み残しと評された使用料をめぐる争いが、一つの時代の区切りを象徴し、未来への希望と祈りに繋げるかたちでの終結となった。


私は、ジャーナリスト清水遥として、そして水野春香と小林静花の鮮烈な記憶を受け継いだ者として、かつて彼女が「仲間」と呼んだ人々の――Obbli、Pizz、Accel、AT、そしてMotifの――それぞれが紡ぎ始めた新たな旋律に、静かに耳を澄ませている。


彼らは、Project Auftaktという原罪をその身に刻みながらも、決してうつむくことなく、春香と静花の「無音」を未来へと繋ぐための道を、それぞれの場所で懸命に歩んでいた。


私の手によるスクープ記事——『生成AIの時代に刻む人間の魂:知財と記憶の新たなる架け橋』と題したそれは、ウェブメディアに掲載されるや否や、予想を遥かに超える爆発的な反響を呼んだ。


あまりの反響に、Cadenzaの自壊がまやかしで、引き続き水面下で世論を誘導しているのでは無いか、と疑ったほどだった。


瞬く間に各種ニュースサイトやキュレーションメディアに転載され、SNSのトレンドは数日間にわたってこの記事の話題で埋め尽くされた。「はるか・しずか音楽基金」の設立を訴える草の根運動が自然発生的に広がった。老若男女・有名無名を問わず多くの人が街角のストリートピアノで彼女たちをテーマとする即興曲を奏で、そのパフォーマンス動画がさらに拡散されていった。


文化庁は時期を逃さず、AI生成コンテンツの権利と倫理に関するガイドライン制作を進め、実施されたパブリックコメントには異例の25,000ものコメントが寄せられた。


並行して、AIの研究活用を進める新法の検討を本格的に開始、すでに骨子はかたまり、今年前半には成立の見通しだ。


クロガネ音楽振興財団は、全国の音楽教室の一時無料開放と、経済的に恵まれない子供たちへ楽器を無償で届ける既存の各種団体の事業を積極的に支援するプログラムを打ち出した。


私の元には、今も読者からの手紙やメールが絶え間なく届く。


「静花さんのピアノの音色が、私の心の中で確かに聴こえました」


「AIがどんなに進化しても、人間の魂の揺らぎが生み出す旋律を信じ続けたい」


——その一つ一つの言葉が、湖畔の波紋のように私の胸に静かに、そして温かく広がっていく。


もちろん、全てが賞賛の声ばかりではなかった。


「過去の罪をセンセーショナルに暴き立てるだけで、一体何が変わるというのか」


「Patronの存在など陰謀論に過ぎず、Maestroの手記も捏造ではないか」


といった厳しい批判や懐疑的な意見も少なからず存在した。けれど、それでいいのだと思う。真実は、私一人の声によって証明されるものではない。春香と静花の残した無音のメッセージは、それが無音であるからこそ途絶えることなく、記事に接した一人一人の心の中で、それぞれの解釈という新たな旋律となり、未来を多様に織りなしていくのだろうから。


そして、その多様性こそが、AIによる画一化の波に抗う、人間の創作文化の最後の砦なのだと、私は信じている。


藤原美琴 (Obbligato)——Obbliは、文化庁特別補佐官という将来を嘱望されたキャリアを、記事公開後ほどなくして自ら手放した。


彼女が選んだのは、官僚としての栄達ではなく、故郷である福岡の、海に近い小さな町で音楽教室を開くという道だった。古い公民館を仲間たちと手作りで改装したというその教室からは、いつも子供たちの屈託のない笑い声と、決して上手とは言えないけれど楽しげなピアノの音が潮風に乗って聴こえてくるらしい。


先日届いた彼女からの手紙には、万年筆による美しい文字でこう綴られていた。


『清水さんの記事を読んで、私はずっと忘れていた、あるいは見て見ぬふりをしてきた自分の原点に立ち返ることができました。


音楽は、人と人とを繋ぎ、心を温めるためにあるのだと。どんなに高度なAIが完璧な楽曲を数秒で生成できる時代になっても、子供たちが小さな指で懸命に鍵盤を追い、時に間違えてはにかみ、そして仲間と顔を見合わせて笑い合う、あの愛おしい瞬間の価値を超えることはできないでしょう。


ここでの日々は、私にとって真のオブリガート……なくてはならないものを見つけ出すための、自由意志による選択です。』


彼女の教室でも早速「はるか・しずか奨学金」が設けられ、経済的に恵まれない子供たちが、気兼ねなく楽器に触れられる機会を提供しているという。


写真に写るObbliの笑顔は、無理に何かを繕うでもなく、大らかで、優しく仲間たちを包み込むような温かさに満ちていた。彼女が育む小さな音楽の芽が、いつか大きな森を形成する日を、私は心から楽しみにしている。


佐藤翔也 (Pizzicato)——Pizzは、JOCRE(日本創作者協会)の会長職に留まることを選んだ。


記事公開後、彼には会長職の辞任を求める声も少なからずあったと聞く。しかし彼は、その喧騒の中心にあってなお、持ち前の軽やかさを失うことなく、むしろその逆風を推進力に変えるかのように、大胆な改革を次々と打ち出している。


その一つが、AIによって生成された音楽を自由にアップロードし、無料で公開・利用できるという、実験的なデジタルプラットフォームの立ち上げだ。「著作権管理団体がそれをやるのか」という批判もあるが、彼は意に介さない。先日、久しぶりに電話で話した時の彼の声は、いつものように弾んでいた。


『よう、遥っち!例の記事、大反響じゃねえか!おかげでこっちもてんやわんやだけど、面白いことになってるぜ!俺さ、決めたんだ。弾むような軽快なリズムで、この国の音楽シーンを底抜けに明るくしてやろうって。


ClefとRestの魂の響きをさ、俺たちだけじゃなくて、もっとたくさんの、新しい世代の音で埋め尽くしてやりてえんだよ。AIも人間も関係ねえ。ワクワクする音で、世界中を笑顔にすんだ!』


彼のプラットフォームは、「AI vs 人間」という不毛な対立構造ではなく、AIを駆使して新たな可能性を開く、AIと人間クリエイターとの協働の可能性を探り、知財の新たな価値を模索する実験場として、国内外から注目を集め始めている。


Pizzの、一見お調子者のように見えるその軽快な足取りは、彼がその双肩に背負うことになった罪の重さを誰よりも自覚し、それでもなお未来へ向かって進み続けようとする、強い意志の表れなのかもしれない。


高橋迅 (Accel)と森友音(AT)先生——あの夏の日、そしてその後の長い年月を、それぞれの立場で「真実」と向き合い続けた二人は、全ての出来事が白日の下に晒された後、静かに、そして固い絆で結ばれた。Accelこと高橋迅さんは、知財高等裁判所の判事を退任し、国際的な知的財産法のコンサルタントとして、その活動の拠点をスイスのジュネーブに移した。そしてATこと友音先生もまた、日本での職を離れ、迅さんと共に欧州へと渡ったのだ。


昨年、プラハで開かれたAI規制に関する会合で二人と再会した。カフェの窓辺で、穏やかな陽光の中で語り合う彼らの姿は、まるで長年連れ添った夫婦のような安らぎと、それでいて未来への新たな情熱に満ちていた。


迅さんの瞳は、知財高裁の面談室で見せたのと同じ静かで理知的な輝きを保ちつつも、以前よりもずっと温かく、穏やかだった。


「清水さん、君の記事が我々の過去の過ちと、そして隠されていた真実を世界に示してくれた。君の勇気に心から感謝している。


僕は今、この場所で、AIと人間の創造性が真に共存できる未来のための法的枠組みを構築しようと努力している。国際的な条約の草案作りは困難を極めるが、ClefやRestのような犠牲を二度と繰り返さないために、決して諦めるわけにはいかないんだ。


僕が奏でるピアノの旋律は、もう償いのためのレクイエムじゃない。未来への祈りを乗せた、希望のファンファーレでありたいと願っている。」


彼の言葉には、確固たる決意が滲んでいた。そして、その隣で微笑む友音先生の表情もまた、新たな使命感に輝いていた。


「遥さん、私も、この欧州の地で、新たな挑戦を始めています。」


彼女は、EUの喧騒からも、シリコンバレーの覇権主義からも、そして北京の国家戦略からも独立した、真にグローバルで倫理的なAI及びBCI研究のための国際研究機関——『アーベントロート・ヒューマンAI研究所』の設立準備に奔走しているのだという。彼女自身がその初代所長として、世界中から若き才能を集め、牽引していくのだと。


「私のこれまでの研究、特にBCI技術とその倫理的側面に関する考察は、Auftaktでの過ちから学んだ、いわば教訓そのものです。


遥さんの記事が私に与えてくれた勇気と、そしてあなた自身が水野春香の記憶を受け入れてくれたという事実が、私を過去の呪縛から解き放ち、この新たな道へと導いてくれたの。


ClefとRestの魂は、私の、そしてこれからここで育っていく若い研究者たちの心の中で、倫理的な指針として生き続けるでしょう。


科学の進歩と人間性の尊厳とが決して矛盾することなく調和し、絡み合って調和するポリリズムを奏で続けられる世界の実現を目指していくわ」


二人は互いの手をそっと重ね合わせ、同じ未来を見つめているようだった。


法律家にして工学者。そして、科学者にして医学者。


それぞれの幅広い専門性を活かし、補い合いながら、彼らは人間とAIが共生する新しい時代の夜明けを、ここ欧州の地から実現しようとしているのだ。


その姿は、私に、Project Auftaktが歪んだ形で目指した「天才による世界の舵取り」とは全く異なる、真に人間的な希望を感じさせた。


彼ら彼女らの選択した道は、あの夏の湖畔の悲劇という重荷をそれぞれに背負いながらも、春香と静花の残した無音の問いかけに、自らの人生をもって応答しようとする、切実な試みのように私には思えた。


ClefとRestの記憶を通じて、私は彼らの苦悩も、決意も、痛いほどに共有している。その絆は、たとえ私が「ナンバー」を持たなくとも、決して揺らぐことはない。私のジャーナリストとしての使命が、そして彼ら彼女らが新たに奏で始めたそれぞれの音が、いつかどこかで共鳴しあい、新しい時代の新しいハーモニーを生み出すことを、私は強く信じている。


そして、私の内に今も鮮やかに息づく、静花のあの震える指先の記憶、春香の「私を見て」という魂の叫びが、そのハーモニーの中で永遠に響き続けることも。


【用語集 -Notes-】


Coda(コーダ): 今回のタイトル。音楽用語で「終結部」を意味する。楽曲の主要な展開が終わった後、曲全体を締めくくるために付け加えられる部分。


Cadenza:音楽用語としては、楽曲の終盤を盛り上げる、自由度の高いソロパート。奏者の裁量に任されることもある。本作では、Project Auftakt の立案・遂行・管理のために建造されたAIの、自律稼働エージェントの名前。Maestroの死後も階差数列の子供達の行動を最適化するよう支援していた。


水野 春香(みずの はるか) / Clef: No.16の少女の本名。静花に対し「私たちは番号なんかじゃない」と語りかけ、尊厳を持って生きることを説いた。


アーベントロート(Abendrot):ドイツ語で「夕焼け」や「夕映え」を意味する。作中、ATが設立予定の研究機関の名前。人類の単独の歩みの終わりと、人とAIが織りなす明日への希望を込めた命名。

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