第22話 Agitato 揺らぐ境界

330 : Haruka 2021/03/18 23:00


昨日の別れ際のJOCRE佐藤会長の予言めいた言葉の通り、今日の知財高裁判決は激震をもたらした。


これまでの判例から逸脱する判断……事業として提供される演奏の場面では、事業者を演奏の主体者とするという考えから離れ、生徒の演奏には著作権は及ばないとするものであった。


知財の専門家のコメントを取ろうにも、誰も彼も混乱していて一般論に終始し、より具体的な見解は後日改めて、と約束を取り付けるので精一杯の有様だった。


職場近くの高架下からタクシーに乗り込み、自宅までのルートを告げると、私は冷んやりとしたシートに背中を預けて、しばらく昨日佐藤会長の取材内容を反芻していた。


「記憶の奥底に眠っているあの夏の旋律——それを再び奏でる覚悟は、あるかい?」


JOCRE会長、佐藤翔也の言葉が、耳の奥でリフレインしている。あの夏の旋律。その言葉を聞いた瞬間、私の脳内で何かが弾けた。


(知っている)


理性よりも早く、身体が反応した。指先が微かに痺れ、心臓が早鐘を打つ。私は、あの旋律を知っている。湖面を渡る風の音。遠くで響くピアノの和音。そして、私の……いいえ、「私たち」の笑い声。


「……違う。そんなはずはないわ」


私は膝の上で拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。私はあの夏、1996年の夏、交通事故に遭った。病院のベッドの上で、意識のないまま一ヶ月を過ごした。それが私の「真実」だ。母がそう言ったし、医師の診断書も、当時の新聞記事だって確認した。こんな単純なケースの裏取りを、私が誤ることはありえない。


それなのに、なぜ?


目を閉じると、瞼の裏に鮮明な映像が浮かび上がる。消毒薬の匂いがする白い病室ではない。木の香りがするロッジ。高い天井。窓の外に広がる、深い緑と青い湖。私の視界に映る少年たちを、私は確かに知っている。Motif、Obbli、Pizz。それに・・・他にも何人か。


「これは……ニューエイジ・ホープ合宿?」


私の心は、二つの矛盾する過去の記憶をなんの抵抗もなく受け入れている。『ニューエイジ・ホープ合宿に行けず、病院で目覚めた私』と『ニューエイジ・ホープ合宿で仲間たちを眺める私』。


ありえない状況だが、なぜか恐怖はない。この場面は安全だという確信がある。


・・・この場面・・・?この先があるということ?と私は自問する。


その時、現実の世界でスマホが震えた。画面を見ると、Pontiが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。


<<<ハルカさん、心拍と呼吸が乱れています。パニック発作の兆候です。深呼吸してください。吸って、吐いて>>>


私は、聞こえていないだろうとは思いつつも運転手の存在が気になり、スマホを顔の前に寄せて小声で言った。


「Ponti……ありがと、大丈夫。仕事柄、修羅場を潜ってるから。すぐに落ち着くわ。タクシーの中なの。静かにね」


<<<そんな呑気な場合じゃないですよ。本当に異常な数値です。森先生に自動的に連絡します>>>


「……そうね、お願い。ありがとう」


Pontiの切羽詰まった様子に、むしろ私は当惑しながらも提案に応じた。奇妙な状況ではある。私の脳を知り尽くしている主治医の見解は知りたい。


335 : A.T. 2021/05/28 20:15


大学の研究室で、私はPontiからの情報をモニタリングしていた。Clefの脳波パターン解析情報は、彼女自身の認識とは異なり、かなり激しい「Agitato」——興奮と混乱を示している。


「……来たわね」


Clef自身は認識していないけれど、彼女の記者としての感覚は、すでに自力でMotifやObbliとPizzの連携にはたどり着いている。


そのため、Ponticello(仮想ブリッジ)によってすでに無意識領域に送り込まれた記憶の断片・・・正確には記憶そのものではなく、記憶が通るための橋の土台になる情報・・・を、違和感なく受け入れている。


しかし、今はまだそれ以上の認識を持ってはならない。全てを知るのは、彼女の主観として、自らAccelとATにたどり着いた後でなくては、彼女の脳があの悲劇の記憶を拒否し、最悪の場合、今を生きるClefの記憶や人格の統合にも影響を及ぼしかねない。私たちが最も怖れる事態だ。そしてそれは、Clefを守るためでもあるが、私たちの身勝手な願望でもあった。


私は白衣のポケットの中で振動するスマートフォンを取り出した。


『……先生?』


電話の向こうからいつもの快活な声が届いた。


「遥さん、大丈夫よ。Pontiから知らせを受けたわ。ちょっとPontiったら過保護すぎるわよね。こちらでも確認してるけど、すぐにどうこうって感じでもないわよ」


『ふふふ、やっぱりそうですよね』と彼女は楽しげに笑った『私も大袈裟かなって思ったんですけど、ちょっと事故の記憶に関して奇妙なことがあって、先生にはご報告をと思ったんです』


そして彼女は、昨日から今日にかけての取材の模様と、Motifらと思われる少年たちと過ごしていたらしき記憶のイメージについて、要領よく説明した。


「なるほど、そんなに鮮明に、違和感なく浮かんでくるのね。それは『脳の過剰な補正作用』かもしれないわね」


私は冷静を装い、用意していた嘘を口にする。


「取材が順調に進んで、キーパーソンと接触し、重要なイベントが自分の昏睡期間と重なっていた、と。


で、さらに今日は、ずっと手懸けている重要な事件で予想を覆す大きな出来事があった。


遥さんにとってはどちらもとても大切なもの。


そんな情報に一度に接触した脳は、時として、現実よりも鮮やかな幻覚(ハルシネーション)を見せるのよ。脳のリソースを本当に必要なことに集中させるために、それ以外についてはとりあえず辻褄の合う、それらしいストーリーにまとめてしまう。珍しいことではないの。


ただ……、遥さんの場合は実際に大きな事故を経験してるので、念には念を入れて、検査してみます?」


私はモニター上のグラフ——仮想ブリッジとの適合率が計画通り上昇している——を見つめながら言った。ここで焦っては大惨事を招く。慎重に制御しなくてはならない。


『……はい。お願いします。このまま伺いますか?』


「あ、自宅で大丈夫ですよ。家に着いたらPontiの指示に従ってヘッドセットを装着して横になったら、自動で計測されるから」


私は通話を終えると、キーボードを叩き、Ponticelloのパラメータを調整した。Agitato(激して、興奮して)。その激流を乗りこなさなければ、真実という岸辺にはたどり着けない。


「ごめんなさい、Clef。まだ全てを受け取る時ではないの」


私は、彼女の脳へと繋がる「橋」のゲートを、静かに、慎重に操作し、Accelの情報へのルートを開いた。


【用語集 -Notes-】


Agitato(アジタート):

今回のタイトル。音楽用語で「激しく」「興奮して」「急き込んで」という意味。Pizzとの接触により、遥の精神状態が極度の混乱と興奮状態(パニック)に陥っていることを示す。


ハルシネーション:

ATが遥を安心させるために使った方便。「取材で得た情報を脳が勝手に記憶として再構築してしまった幻覚(ハルシネーション)」だと説明。

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