第三部 Development 第20話 Development 開発

300 : Scene 3 Development

310 : Haruka 2021/03/15


2021年3月15日。東京には早咲きの桜がほころび始め、街は春の陽気に浮き足立っていた。しかし、私の心の中は、昨年の夏に文化庁の特別補佐官である藤原美琴が残した言葉——「湖の底の泥」——が沈殿したまま、冷たく濁っていた。


都内の大学病院。森先生の診察室。


中学時代からの半年ごとの定期検診に通っていたが、最近は先生から貸与されているスマホアプリPontiを介した不定期な健康相談・・・というよりも、同世代の友人同士の、かなり個人的な悩み相談・・・も増えてきていて、実際にこうして訪れるのは久しぶりのことだ。


診察室に入ると、手のひらのスマホからPontiが<<<先生!ただいま!>>>と可愛らしい声で挨拶した。画面の中で擬人化したタヌキの少女の姿のPontiがくるくると踊ると、突然「ぽんっ」と煙を残して画面から姿を消した。


見たことのない演出に驚いていると、森先生のデスクトップの端末のサブスクリーンから<<<ただいま〜!ただいま〜!>>>とはしゃぎ回るPontiの姿が現れた。


「お帰りなさい。良い子にしてましたか?」と森先生が声をかける。


<<<Ponti、良い子にしてた。働き者。褒めて!>>>


「あらあら、ほんとかしら?」


私はすっかり気分が和むのを感じた。


「ええ、本当に助かっています。仕事でも体調管理でも、お世話になりっぱなし。私の独り言もよく聞いててくれて、ちょうど良いタイミングで声をかけてくれるのも、ありがたいです」


<<<Pontiは優秀なの。Pontiは頑張り屋さん>>>


「それは何よりね。私も嬉しいわ。さ、Pontiは遥さんのスマホに帰りなさい。あなたのお仕事は、とても大切なのよ。これからも頑張ってね」


<<<はーい!Pontiは頑張ります!>>>


という声と共に、私のスマホにはPontiの姿が戻り、何やら、絵本のようなものを森先生の端末から持ち出して来たようなそぶりで夢中になって読み始めたかと思うと、すぐに飽きたのか、画面の隅に丸まって寝入ってしまった。


今日は定期検診ということで、機器を用いての脳波の記録が行われる。


「……それで、その後、あの夢は?」


森先生が、カルテに目を落としながら穏やかに尋ねる。白衣越しの華奢な肩が、窓からの日差しに透けるようだ。


「Pontiのおかげだと思うんですが、おかしな夢は見てません。というか、夢自体ほとんど見ないし、朝もスッキリ目覚めています


ただ、目覚めた時、身に覚えのない記憶が残っているというか・・・・暗い・・・暗い湖の水面。桟橋の軋むような音。そして、誰かが私を呼んでいたような」


私は自分の説明が先生に伝わっているか心配になる。自分でもよくわからないのだ。


だが先生はいつもの穏やかな表情で、咎めるでもなく促すでもなく、ただ私の話を聞いてくれている。


「Pontiが来る前に見ていたような、不安で気分の悪い夢ではないんです。・・・何というか、これは夢ではなくて、現実にあったことの遠い思い出のように、暗い水面を渡る波紋の速さや、つま先を浸した冷たさや、蹴り上げた水飛沫の匂いまで感じるんです。でも、全然怖くないし、嫌な気持ちでもないです。本当に、ただ出来事を眺めている感じで・・・・」


昨年の夏、山崎奏太に会い、藤原美琴に会った。彼らと接触するたびに、私の中の「何か」が共鳴し、新しい響きが生まれ、残るような気がする。特に藤原補佐官が言った「湖」という言葉は、私の脳裏にしっかりと焼き付いて離れないトリガーとなって、不意に私を、知らないはずの場所に連れて行ってしまう。


「先生。今ちょっと、昔のイベントのことを調べてるんです。1996年の『ニューエイジ・ホープ合宿』のこと」


森先生の手が、ふと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、色素の薄い瞳で私を見つめた。


「……合宿?」


「はい。クロガネが主催していた音楽合宿です。私、それに参加するつもりだったんですけど、結局事故で入院してしまって、行けなかったんです。退院してからは、悔しかったのもあるし、なんだか急に音楽以外のこともどんどん興味が湧いてくるし、やたらと体調は良いし、頭は冴え渡るしで、ほとんど気にしてなかったんですけど」


「それで、どうして今になってそれを?」


「今年の夏、復活するらしいんですよ、そのニューエイジ・ホープ合宿。


それでうっすらと蘇ってきたんですが、参加者募集のパンフレットで、合宿が森の中の湖のほとりの素敵なロッジで行われる、みたいな売り文句だったなって。それが最近浮かんでくるイメージと重なるような気がして・・・。


で、ちょっと気になって調べてみたら、復活するニューエイジ・ホープ合宿が、クロガネ主催、JOCREがプロミュージシャン派遣などの強力なバックアップ、文化庁が資金や資材面で全面的に協賛だっていうじゃないですか。


まだ控訴審でバチバチに争ってる両者とその監督省庁が、仲良く未来の子どもの育成事業をやるって、奇妙じゃありません?


それで調べてるんですけど、1996年ってWebに何でも残るようになった時代よりちょっと前で、当時の公式な記録はほとんど参照できないんですよ。さすがのPontiもお手上げです。


なので、古い個人ブログや旧世代のSNSの前身のようなサービスから細い糸口をつかんでは、得意の足とコネで、調べてみたんです。当時の参加者を探し出して、何人かに話を聞くことができました」


私はバッグから、付箋だらけになった取材ノートを取り出した。この半年あまり、憑かれたように過去を掘り返して得た、不気味な事実の断片。


「辿りに辿って、参加者あるいはその近親者、20人近くの話が聞けたんですけど、昔のことであまり詳細を覚えている人がいませんでした。


みなさんすでに音楽からは離れていて、現在もプロの音楽家として活動している人は一人もいませんでした。やはり、若い頃の才能だけで必ず成功するというものではないんだな、と思いました。


あ、それでですね、何人かの人の記憶で共通していたのが、『序盤で一部が脱落した』というものです。でも、誰もその脱落した人の連絡先や消息は知らないようでした」


森先生は表情を変えない。ただ静かに、私の言葉を待っている。


「そして、うろ覚えの証言の中からおかしなものが二つ。


まず一つは、『そういえば最初の数日は自己紹介も禁止で番号で呼び合っていた。名簿や連絡先が配られたのは、場所を移して本格的な音楽合宿が始まってからだった』というものです。


何となく大袈裟というか、薄気味悪いですよね・・・・。結局名簿が配られるのに、なんで最初は伏せたのか。


で、もう一つ、その脱落者について教えてくれた別の人の話です。


『明らかにあいつらの方が音楽的に早熟だったんだよね。ちょっとレベルが違いすぎた。脱落?いや、多分、レベルが低すぎて、呆れて切り上げたんじゃないかな。そういえば、渡されたナンバープレートを無視して、変なニックネームで呼び合ってたよ。楽器だか音楽用語だかの』って。


「ニックネーム……」


「ええ。山崎理事長が私に言った言葉を覚えていますか?『モチーフ、オブリガート、ピチカート……』。あれは単なる音楽用語の羅列じゃなかった。彼ら『脱落ではなく、本当は選ばれた人間』たちのコードネームだったんじゃないかって」


私の推論に、森先生は小さく息を吐き、そして優しく、諭すように微笑んだ。


「遥さん。本当に有能なジャーナリストさんなのね。直感と、裏付け調査。大変なお仕事なのね。でも、少し根を詰めすぎているのかもしれないわね」


先生は立ち上がり、いつものヘッドセット型の検査装置を手に取った。


「人の脳って本当に優秀でね、疲労して防衛が必要になると、断片的な情報をつなぎ合わせて、自分を守る『物語』を作ってしまうことがあるの。


例えば、情報が足りなくて、よく覚えていなかったり理解できていないことについて、無理に答えを求められたりすると、現実とは全く違う出来事を実際に脳が見つけ出してしまうの。ハルシネーション・・・幻覚と呼ばれる作用ね。


点と点のつながりを無理に見出すのではなく、一度リセットして、点そのものをゆっくりと眺めることで、現実ではない出来事が視界から取り除かれて、本当の真実が見えてくることもあると思いますよ」


私は素直に頷き、椅子に深く腰掛けた。森先生の言う通りかもしれない。この推論は、私の強い執念が生んだハルシネーションなのかもしれない。でも、この胸の焦燥感は、単なる疲れだけではない気がするのだ。


「はい、では目を閉じて。……Ponti、サポートをお願い。それから、持ち出した本は本来の場所に置いてね」


私のスマホの画面から、Pontiが<<<はーい!お任せください、先生!本は元あった場所に戻しまーす>>>と、場違いなほど明るい声を上げる。


視界が暗くなり、微かな電子音と不規則な光の粒子が頭の中で舞い踊った。その音と光の波間を漂ううちに、私の意識は無重力の水面に沈んでいった。私は抗うことをやめ、遠い声に身を委ねた。


315 : A Tempo 2021/03/15


清水遥を診察室から送り出すと、私はすぐにドアを施錠し、ラボの奥にあるメインコンソールに向かった。


「Ponti、今のセッションのログを展開して」


画面には遥の手元のエイリアスとは別のインスタンス、仮想ブリッジ建造を任務とするPonticelloの無機質な姿があった。


<<<承知しました。仮想ブリッジ接続率、前回比6%向上。ニューラルパターンの適合深度、レベル3に到達しました。>>>


愛らしいマスコットの声色とは異なる、落ち着いたトーンの音声が響く。モニターに、複雑な3Dグラフが表示される。左側には、現在の清水遥の脳波パターン。右側には、私たちが5年前にサルベージした、1996年のNo.16(Clef)の記憶データの構造モデル。


その二つの巨大なデータの塊の間に、無数の光の糸——「Ponticello」——が架かり始めていた。


「……つながってきているわね」


私は震える指で画面に触れた。私とAccel(高橋迅)が人生を懸けて開発した、過去と現在、他人と自分を繋ぐための「記憶の架橋」システム。


昨年の夏、Obbliが新幹線の中で意図せず埋め込んだ「湖」というトリガー。そして今日、遥さん自身が語った「合宿への疑惑」と「コードネームへの気づき」。


それらが強力な触媒となり、彼女の脳は、無意識のうちに封印された記憶へのアクセスを求めている。Ponticelloは、その「求め」に応じて、1996年のデータを、現在の彼女の脳が受け取れる形にリアルタイムで変換し、流し込み始めているのかもしれない。


「それで、模造記憶へのリアクションはどう?」


先ほどエイリアスのPontiに手渡した、人工的に整備した情報の投入への拒絶あるいは受容の状況を確認する。


<<<ご指示通り、遥さんが知り得ない、Pizzの音楽家としての業績に関する情報へのヒントとなるような発想のトリガーを投入しましたが、これに関しては特段の反応はありません>>>


「反応がない?拒絶でも、受容でもなく?」


<<<はい。推測ですが、遥さんの中で、Pizzへの疑念と、その隠された来歴へのアプローチという動機づけは、すでに遥さん自身の自然な思考の結果として醸成されていた可能性があります。この場合、今回投入したトリガーは何の意味も持たず、反応を得られません>>>


「すでに、自分自身で私たちの真実に近づいているということね。


<<<警告します。通常状態の遥さんのストレス値が上昇傾向にあります。記憶の流入量が不自然に増減すると、自我境界の揺らぎが発生するリスクがあります>>>


Pontiの冷静な分析に、私は唇を噛んだ。


「わかっているわ。でも……今ここで止めるわけにはいかないのよ。放置すれば一気に安定を失う恐れがあるの。引き続き、常時監視と、過剰な記憶のフィードバックの中和をリアルタイムで続けましょう」


モニターの中で、遥さんの脳波が赤く明滅している。


彼女は今、自らの調査によって「真実」に近づいていると思っている。だが実際は、彼女が真実に近づけば近づくほど、彼女の脳は1996年のClefの記憶と同調し、私たちが用意した「橋」を渡ってこちら側へ引き寄せられてくるのだ。


それは、残酷な誘導尋問だ。彼女の正義感や探究心を燃料にして、彼女自身を過去の檻へと誘い込む。


でも、彼女自身の主観としての「自力で真実に辿り着いた」という神話を崩してはならない。万が一にも「外部から記憶を注入された」と認識してしまったら、私たちと同じように、永遠に解放されることのない自問自答の闇に堕ちることになる。


「ごめんなさい、遥さん。……いいえ、Clef」


私は、画面上の遥さんのデータに向かって、かつての友の名を呼んだ。


「自力で記憶を取り戻したと、あなた自身がそう確信しないと、あなたは出会うことになる真実に耐えきれないの。そして、真実を受け入れたあなたとCABINで全てを共有しないことには、私たちも前に進めない。Motifも、Obbliも、Pizzも……みんな、あなたの帰還を待っているの」


彼女が語った「記憶」。それはハルシネーションなどではない。


1996年の夏、私たちが共に過ごした日々の、確かな残響だ。彼女が感じた「水の冷たさ」は、あの日、静花を追って湖に飛び込んだ時の記憶そのものなのだ。


「Ponti、次回のセッションに向けて、さらにブリッジの帯域を広げて。……『ピアノの音』の記憶データを、優先的に変換テーブルに組み込んで」


<<<よろしいのですか?そのデータは、No.22(Rest)との接触記憶を多く含みます。対象者がうまく同調して記憶に編入したときの精神的負荷は計り知れません>>>


「ええ。構わないわ」


私は白衣のポケットの中で、強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、どれだけ自分を傷つけても罪悪感から逃れることなどできない。受け止めるしかないのだ。


Rest(静花)の記憶。それは、私たちナンバーズが共有する罪の源泉であり、Clefにとっても最大のトラウマであるはずだ。だが、痛みこそが鍵になる。痛みが、彼女を呼び覚ます。


「進めて。……2025年まで、もう時間がないの」


モニターの光が、私の顔を青白く照らしていた。Development(展開部)。曲は、複雑さを増し、緊張を高めながら、決して戻れないクライマックスへと向かい始めていた。


【用語集 -Notes-】


Ponticello(ポンティチェッロ):

AT(友音)が開発した「仮想ブリッジ」システム。1996年のClefの記憶データを、現在の遥の脳が受容できる形式に変換して接続する。


ニューエイジ・ホープ合宿:

遥が調査を進めている1996年のイベント。


2025年の期限:

AIのシンギュラリティ、および日本の創作文化が画一化され、埋没する恐れがあるMaestroが予言した年。ナンバーズはそれまでに「完全な記憶」と「自由意志」を取り戻し、対抗策を確立しようとしている。

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