第15話 Scambio 邂逅

250 : Motif & Haruka 2020/07/28


2020年7月28日、午後。

前週のオンライン会議で文化庁と合意した「音楽教室からの著作権料徴収に反対する国民の署名」の受け渡しのため、霞が関での文化庁長官とのアポイントメントを数時間後に控えた、多忙なスケジュールの中だった。クロガネからも文化庁からも、そして実際にはJOCREからも堂々と今日のイベントについては告知しており、マスコミ各社が霞ヶ関に集まる段取りになっていた。


私は、クロガネ銀座本部ビルの地下駐車場までオフィスから直通のエレベーターで降り、黒塗りの社用車に乗り込んだ。


車にはすでに、全国紙のジャーナリスト、清水 遥(しみず はるか)をすでに乗り込ませている。


「清水さんですね?お待たせしました。山崎です。こんな形になってしまい申し訳ない」


「お時間をいただき恐縮です、清水です。こちらこそ、選りに選って今日このようなタイミングになってしまい、恐縮です。取材を受けていただき御礼申し上げます」


ハイヤーが静かに銀座の喧騒を離れ、霞が関へと向かい始める。


これが、私たちが「Clef(クレフ)」の最有力にして、ほぼ唯一の候補として期待している彼女との、24年越しの「公式な」初対面だった。


「ご活躍はかねがね拝見してますよ。知財と芸術の発展のために、いつも国民の側に立った視点からの記事や著書を出されていて、我々としても頼もしく思っています。」


私は穏やかに笑い、車に常備されている冷えたミネラルウォーターに手を伸ばした。彼女の視線が私を捉えているのを感じる。


あの頃の、挑むような鋭さとは違う、静かな圧力のある視線だ。だが、その奥にはなんとも言えない曖昧で微かな、戸惑いや躊躇がある気がした。


「山崎理事長、直球で伺います」


彼女はノートを開き、ペンを構えた。


「今回の音楽教室裁判について、あのふざけた請求事項はなんなんですか?私には、勝ち目があるとはとても思えないんですが。」


期待通りだ。やはり、あれをそのまままともに受け止める者など、知財周りにはいないだろう。


車は皇居の堀端を滑らかに進んでいく。


「ふざけてなどいませんよ」私は窓の外を見ながら答えた。「私たちが目指しているのは、日本の音楽文化を次の世代に引き継ぐ基盤作りです。JOCREの主張する著作権使用料は、言わば、20世紀の積み残しの清算です。もちろん国際社会にあって、それは大事です。でも、それが子供たちの自由な音楽体験を奪うなら、私たちはそれを受け入れることはできません」


彼女は俺の言葉を書き留めながら、視線を上げてきた。


「いえ、主たる請求事項のことではありません。訴状にある予備的請求事項です」


……そりゃそうだろう、と私は思った。我々があえて仕込んだ、国民の知財意識を揺さぶるための「戯言」だ。大いに指摘し、問題視し、話題にしてもらわねば。


彼女は続けた。


「二小節以下の演奏には著作権が及ばないとか、生徒の未熟な演奏は原曲と似ていないから権利を侵害しないとか、よく言って都市伝説、悪く言えば、調子に乗った子供の悪ふざけじゃないですか」


「手厳しいですね」と私は顔を顰めた。


そう、その都市伝説や業界の慣習を、司法の手で焼き払わなければ、国民はは本当の意味で知財のあり方を真正面から捉える地点に立たないのだ。


「我々は本気です。私たちクロガネ自身、膨大な著作物の権利者であり、著作権等管理事業法に定める手続きを経て承認された、著作権管理事業者でもあります。著作者の権利は誰よりも尊重しているつもりですよ」


私は一気にそこまで話し、また一口水を飲んだ。窓から差し込む真夏の日差しが、ホルダーに戻したペットボトルの中の小さな湖面に眩く反射する。


「でもね。著作物に対する著作権者の権利はあくまで法に定められた形で保護されるべきであって、著作者の感情のままに無制限に認められて良いものではないんです。法ではなく著作者の心情に則って著作権を運用すれば、その先にあるのは著作物利用の袋小路です」


長い信号待ちの後、車がまた静かに動き出し、ペットボトルの水面を揺らした。


「具体的な個別の利用形態に照らして、著作権のどの支分権がどう働き、それが料金規約にどう及ぶべきなのか、我々は常に真剣に考えています」


彼女は私の言葉を吟味するようにしばし考え、静かに口を開いた。


「分かりました。記事にはそのように書きます」


おや?と私は微かな違和感に戸惑った。当時のClefであれば、こうも易々と引き下がっただろうか・・・。己の正義に照らして、間違ったことには断固反対するのが、私の中のClefだった。


「……でも、今回の訴訟を、私が心から応援できていないことは申し上げておきます」と彼女は重たい視線をこちらに向ける。


……そうでなくては、と私は安堵する。


やはり、どこまでも正直な人なのだ。他者の信念は尊重するが、自分の信じるものを曲げることはできない人なのだ。


「そして、山崎理事長。今日お時間をいただいたもう一つの目的です。あなたのご経歴について、私にはどうにも違和感が拭えません。まるで誰かがあなたのために橋をかけ、丘を切り通して用意した、舗装路を全力で走っているかのように順調な歩みに見えます」


私はしばし呼吸を止め、皇居の緑に目を向けた。


……我々のように、つまんで焼き切るような記憶編集を、君は施されていない。一定期間の記憶を単純にブロックされているだけだと、Maestroのメモと、この5年間の検査結果をもとに、ATは分析している。


人格に及ぶような可能性のある改変を受けていない君の「正義」こそが、私たちの唯一の希望(リトマス試験紙)なのだ。


「清水さん、率直なのは大歓迎ですが、それはいささかうがちすぎですよ」と私は軽くかわした。


「そうでしょうか・・・まるで、この裁判を通じて何か大きな秘密の事業を推し進めようとしている、そのために万事万端整えてきたように見えるんです」


さすがだね、Clef。今の君は覚えていないけれど、我々は思考融合で、お互いの考えそのものにとどまらず、考え方や背景となる記憶まで共有したんだよ。


我々が何かをしようとしているということは、君には確信のように感じ取れるんだね。


「いやいや」と、私は現時点でのシナリオ通り、穏やかに否定した。「もちろん我々は常に多数の事業を並行で進めています。でも、国の司法制度を私的な利益や邪念のために利用するほど、我々は身勝手ではないですよ」


「我々?」彼女が突然顔をしかめた。


・・・迂闊だったか。


ハイヤーが霞が関の官庁街に差し掛かり、速度を落とす。私は今の言葉のもたらす波紋を確かめたくなった。時間にはまだ多少の余裕がある。


「……少し、歩きませんか」


私は日比谷公園の霞門の手前で運転手に車を停めるよう指示し、日比谷公園へと彼女を誘った。


真夏の平日の午後の日比谷公園は、前年からの感染症の余波で、例年よりはかなり人の出が少なかった。


我々は小さな揺らぎひとつなく鏡のように静かな雲形池を周り、松本楼の脇を抜けて歩いた。


「我々、とおっしゃいましたよね?それは、具体的な人物や集団ですか?それとも、もっと抽象的な?」


「仰る意味がよく分からないのですが、具体的に誰かを意識した訳ではありません。私は常々、この社会というのは、同じ時代に共に暮らす人々がそれぞれに奏でる音で構成される、壮大な組曲のようなものだと感じているんです。そこには」といいかける私に被せるように、彼女が言った。


「その『人々』には、たとえば、私も含まれていますか?私の奏でる音も、組曲の要素になりますか?」


私は意表をつかれ、オウム返しに答えた。


「清水さんがですか?それも面白いですね」


我々は首賭けイチョウの脇を抜けて、噴水公園に足を進めた。


ATの計画では、この段階ではClefの封印された記憶に対して、エピソードそのものを示して直接に働きかけるべきではなく、我々のコードネームを仄めかす程度に留めるように、とのことだった。私は慎重にフックとなる言葉を選んだ。


「パワフルな清水さんを加えたら、華々しく勇壮な曲になりそうですね。楽譜の先頭のクレフも力強く書きましょう。そしてまずはモチーフがあり、オブリガートが重なり、ピチカートで弾みをつけ、アッチェレランドで変化を起こしてからのア・テンポ。コーダに入る前に、流麗なカデンツァも入れたいところです。」


盛大に噴き上げる大噴水を背に、彼女は立ち止まり、私を見上げた。


Clefを含めた我々のコードネームを、音楽用語の羅列に紛れ込ませてみた。今はまだ記憶をブロックされている彼女が、これにどう反応するか。


彼女がしばらく反芻(はんすう)していると、噴水は小休止に入り、沈黙が訪れた。


「自由にのびのびと駆け巡るようなカデンツァも素敵ですけど、私は、大きなレストを入れたいですね。」


その言葉が脳に届いた瞬間、視界が大きく歪んだ。


Rest。


彼女がその言葉を口にした瞬間、1996年の湖畔がフラッシュバックした。Maestroの遺言で知った、俺たちの記憶から消されていた「No.22(小林静花)」


俺は一瞬、唇が震えるのを抑えきれなかった。


「Rest」


自分の喉から漏れ出たその声は掠れ、再び動き出した噴水のざわめきに飲み込まれた。


Clefが怪訝な表情で私を見つめている。私の胸の奥の一番深いところ、暗い静かな水面に波紋が広がっていくのを凝視しているようだった。


「大丈夫ですか?」と彼女が声をかけてくる。私の視界はまだ微かに揺れている。彼女がその動揺を見逃すはずはない。


「ええ、なんでもありません。暑さに当たりましたかね」と私は取り繕った。


だが、不思議なことに、その彼女もまたどことなく落ち着きを失っているように見える。


「あら、気のせいでしたか。少しお疲れの様子だったので」


しかし、彼女もまたすぐに首を振って笑顔を浮かべた。


しかし、私は感じとっていた。彼女の脳は、私が投げかけたコードネームの旋律に、ブロックされているはずの記憶の底からRestという言葉をすくい上げたのだと。


「……そろそろ時間ですね。署名受け渡しの会場へ向かわないと」


「ええ。本日はありがとうございました。私はこのあと別の取材がありますので、署名引渡しには既に他の者を向かわせてあります」


彼女は日比谷公園の出口で深く一礼し、地下鉄の入口へと消えていった。


私は車には戻らず、一人、かもめの広場のベンチに深く腰掛けた。


……間違いない。彼女がClef、ハルカだ。


そして彼女は、我々の脳から刈り取られてしまったRestの記憶を、重い蓋の下に残している。


---

【用語集 -Notes-】

Scambio(スカンビオ):

今回のタイトル。音楽用語で「交換」や「交差」を意味する。本話では「邂逅(かいこう)」、すなわちナンバーズであるMotif(奏太)と、主人公・清水 遥の「出会い」と、そこで交わされる「言葉(Scambio=交換)」の交錯を描く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る