第二部 Exposition 第12話 Espressivo ジャーナリスト清水遥
200: Scene 2 Exposition
210 : Haruka 2PM, 2020/07/21
「まあ・・・来ないよね」と私は呟いた。
2020年7月21日、東京地方裁判所。私の専門である著作権侵害事件の民事訴訟の判決言い渡し期日だ。原告が著名なイラストレーターであることで話題になったが、ケース自体はありふれている。
原告の知財理解が浅く、「自分のイラストを勝手に使われた」という感情だけで訴訟に踏み切り、原告代理人も無理筋は承知で、原告の名声や実績をかざして相手方に無形圧力を掛け、なんらかの和解を得られれば儲けものという程度の熱量。
しかし、名声や実績が問題になるのはパブリシティ権であって、今回のように雰囲気が似ているだけでは、著作権、具体的には翻案権の侵害には当たらない。この領域の裁判をよく知る者はみな、原告の請求が棄却されるだろうと予測できる。
例えば私、清水 遥(しみず はるか)、全国紙の知財担当記者はそう思っている。
すでに原告への取材を済ませ、敗訴の予定稿が上司のチェックを通っている。あとは判決を確認するだけ。裁判官が入廷し、私は原告席と被告席に目をやるが、予想通り、どちらも欠席だ。
著作権を争う裁判で、特に一審の地裁判決の段階では、双方出廷しないケースは珍しくない。裁判官も慣れた様子で、私たち報道関係者しかいない傍聴席に向かって淡々と読み上げる。
「原告の請求を棄却。訴訟費用は原告の負担とする」
あまりに想定通りの言葉が反響を抑えた小さな法廷に吸い込まれていく。
私には記者としての義務感もあるが、個人的にもクリエイターとビジネスには強い関心を抱き続けている。原告か被告、どちらかでも現れれば話を聞きたいところであった。
裁判所を出て携帯を手にすると、知財部門のデスクに電話をかける。
「清水です。原告敗訴、詳細は後で送ります。被告側から判決文のコピーをもらうよう手配済みです。」
「予想通りだね」と上司が答える「Web速報は予定稿で出すよ。本紙では判決だけの三行記事になると思う」
「はい、よろしくおねがいします。この後病院に寄ってから戻ります」
「病院?ああ、例の怪しげなカウンセリングか」上司が軽く笑う。
「怪しくないですよ。分厚い壁に囲まれた薄暗い部屋で、謎の機材を頭に繋いで不思議なダンスを踊りながら、頭の中を無意味な光や音で満たすだけです。行ってきます!」上司の笑い声を聞きながら、私は通話を切った。
— 211 : Haruka 4PM, 2020/07/21
その「怪しげなカウンセリング」なるものを受診し続けて、すでに24年になる。
1996年の夏、私はクロガネ・ニューエイジホープという若者向けの音楽合宿に推薦され、参加費無料で湖畔のロッジで音楽三昧で過ごせると聞いてとても楽しみにしていたのだ。合宿では演奏や作曲を学び、成績優秀者にはクロガネの楽器購入やレッスンフィーの優待など様々な特典があるというのも魅力だった。
だが、やはり世の中、そんなに都合の良いことばかりではないのだ。合宿に向かう車で交通事故に遭って頭部を強打し、まるまる1ヶ月昏睡入院してしまった・・・らしい。
・・・らしいというのは、家を出た記憶さえなく、目覚めた時には病室のベッドの上だったからだ。
私の夏休みは、始まる前に終わりを迎えてしまったのだ。
腹立ち紛れに課題作文に書いた通り、あの夏休みの記憶は、まるまるすっぽりと抜け落ちている。
一ヶ月昏睡した割には、幸いなことに特段の影響や後遺症はなく回復し、むしろ清々しいほどに頭は冴え渡り体は健やかで、かつてないほど元気でエネルギーがいくらでも湧いてくるのを感じた。
相手のあることだからと、母は事故の詳細は語らなかった。
昏睡から覚めた後も、念の為の安静でさらに数日入院した私の治療費は全額出してくれたというし、退院する私を迎えにきたのは、母の車は中古の軽自動車ではなく、新車のセダンになっていた。
驚いたことに、それら直接間接の賠償のみならず、母子家庭である我が家の当面の生活費はもちろん、私が大学を出るまでの学費も必要に応じて支援してくれるということだった。
私は、まるで自分たちが、ある種の当たり屋の類であるような気がして、なんとも居心地が悪かった。相手方のあまりの誠実さに、母が何か不当に被害を誇張したり罪悪感に訴えたりしたのではないか、と内心で疑ったほどだ。
ありがたさと申し訳なさを両肩にずっしりと感じつつ、であればこそ、やりたいと思ったことはなんでも挑戦し、やり遂げねば、と思って過ごしてきた。
そういうわけで、経済的な不安から解放されて落ち着いて暮らせるようになったのも束の間、母に病気が見つかった。本当に人の幸不幸など、全く予見できないものだ。
私の大学合格を見届けると、母は静かにこの世を去った。以来、私はそのまま一人暮らしである。
バタバタと出入りの激しい人生ではあるけれど、客観的・総合的にに見て、ものすごく幸運だと思っている。あの事故以来、何もかも自分で自由に選択してきたし、その選択を後押ししてくれる支援も約束されていた。こんなに自由に動けるのだから、自分の目指す道を全力で走り続けなくてはならない。
この怪しげなカウンセリング・・・ではなく、心身の経過観察も補償の一環ということで、相手方の費用負担で半年に一度ほどのペースで通院している。保険証の提示すら求められないということは、つまり全額自由診療なのだろう。考えるだけで気が遠くなる。
最初からずっと見てくれていた医師がご高齢のため5年ほど前に退任され、交代として担当してくれているのは私と同世代の女医で、30代後半と思われる森 友音(もり ともね)先生だ。
前の先生も熱心な方だったが、やたらと薬を処方したり、頭や全身にガチャガチャと機械を取り付けてあれこれ検査したがるので、正直億劫に感じていた。何しろ私はちょっと気恥ずかしいほど健康でピンピンしているのだ。
しかし森先生はだいぶ方針が違うようだった。一目会った瞬間から、この先生なら大丈夫そうだという不思議な安心感があった。こちらをじっと見つめる温かい瞳に、ただ同世代だからと言うだけではない、懐かしさにも似た居心地の良さを感じたのだ。
「こんにちは、遥さん。時間通りですね」
「はい、仕事があっさり片付きまして・・・。先生、よろしくお願いします」
いつもの診察室の椅子に座ると、ふと、先生のデスクに置かれたセカンダリ・モニターが目に入った。デスクトップの隅で、動物の映像が、くるくると丸まったり、画面の端に生えた葉っぱで遊んだりしている。擬人化されたタヌキの少女のような、愛らしいデザインだ。
「先生、それ・・・マスコットか何かですか?可愛いですね」
「あら、気づきました?」森先生はふふ、と笑って、モニターを軽くタップした。「Ponti(ポンティ)っていうのよ。ちょっとしたお遊びで作ったAIエージェントで。ねえ、ポンティ、ご挨拶なさい」
すると、タヌキの少女は画面の葉っぱで遊ぶのをやめ、こちらを向いてぺこりとお辞儀をした。
『こんにちはっ!わたし、ポンティです!ともねせんせいのおともだちですか?』
合成音声だが、思春期前の少女のような、屈託のない声だった。
「AI、ですか。秘書ソフトみたいな?」
「まあ、そんなところね」と先生は曖昧に微笑んだ。「友人と共同で開発しているプロトタイプで。基本的にはスケジュール管理やリサーチのが得意なAIドールなんだけど」先生は言葉を続けた。「他にも、私の専門分野の最先端の成果を投入して、ユーザのバイタル管理やメンタルサポートなんかもできるの。音声のトーンや、タイピングのリズムの微妙な揺れを学習して、ユーザが自覚する前のストレスや不安を検知して教えてくれるんですよ」
「年々、びっくりするぐらい進歩してますね」私の言葉に、先生は優しく頷いた。
「ええ。近いうちにスマホアプリとして切り出す予定よ。そうだ、もし興味があれば、遥さんにも……。ああ、ごめんなさい、その前に今日の検査をしましょうか」
森先生はそう言って、いつものカチューシャ型の装置を手に取った。森先生に変わってから投薬はどんどん減らされて、今は何も処方されていない。検査のための機械も、以前のような大掛かりな装置に縛り付けられて強い光の明滅を見せられたり、大きな音を聞かされたりするものではなく、この、こめかみと耳の上と頸のあたりに軽くフィットする、すっきりとした装置になった。
検査そのものも概ね10秒ほど、長い時でも1分程度で終わる。目を閉じて待っていると、きらきらと不思議な光や低い音が聞こえてくる。そのランダムな光と音からなんらかの意味を見出そうと心の中で手を伸ばすが、いつも捉える前に完了してしまう。
「はい。今回も異常なし。あとで詳細な分析をしておきますね」と先生がいう。
「このキラキラやざわめきで、何がわかるんですか?」と私は聞く。
「これは、現代の大脳研究の最先端の機器なの」と森先生は言う。「まず、光や音を受け取れる時点で、脳が安定している証拠なの。そして情報に対してどう反応するかで、脳の健康状態がわかるの。大変な事故からのサバイバルだったのは間違いないので、昔のことでも今のことでも、記憶や考え方で気になることがあったら、教えてね。そういうちょっとしたサインに気づいて対処すれば、脳みそは一生使えるわよ」
私は先生の優しいジョーク混じりの語り口にリラックスして、事故からこのかた一度も不調になったことのない頭や身体について意識を巡らすのだ。ちょっとしたサイン。脳みそは一生。
— 212 : Haruka 5PM, 2020/07/21
診療を終えてタクシーに乗り込むと、頭は別の裁判へ。
2年近く追いかける音楽教室での著作権料徴収に関する裁判だ。世界シェアトップの楽器メーカーであるクロガネ音楽振興財団と日本の音楽著作権者の権利を管理するJOCREが著作権使用料を巡って争うこの訴訟は、著作権法の立て付けと、カラオケ法理として知られる「演奏主体者の定義」に関する過去の判例から、教室側の勝訴の可能性は著しく低いものだった。
前年の地裁判決では教室が全面的に敗訴し、そのまま双方のメンツをかけて知財高裁で争っている。結果がどうあれ、最高裁まで続くだろうというのが大方の見方だった。
二十世紀末、国際社会からの指摘と圧力で、日本は著作権の運用見直しを迫られた。その結果、カラオケやダンス教室など、他のすべての業態が利用料支払いに応じて適法に楽曲を利用する中、音楽教室はのらりくらりと交渉を引き延ばしていた。
ところが2015年、現在のクロガネ財団トップである山崎奏太が就任するやいなや交渉の場に自ら登場、双方の立場の違いを鮮明に際立たせた上で、2017年に一方的に交渉を打ち切る。
著作権者の利益を代表するJOCREの反応も機敏だった。交渉打ち切りを受け、返す刀で文化庁に基準となる料金規定を上申。
文化庁も準備万端であったらしく、これを速やかに承認する。
そしてそれを受け、クロガネの山崎は「音楽教育の未来を守る」を合言葉に、数百の教室を糾合して原告団を構成し、訴訟に至ったわけだ。
一連の全てが、まるで示し合わせたようにスムーズに進むこの流れに、私は言いしれぬ不自然さを感じていた。
クロガネ財団は海外でも教室事業を展開し、それぞれ現地の法に従って楽曲使用料を支払っているのだ。国内でだけそれを免れることはできないことなど、重々承知だろう。なのに、なぜここまで強硬なのか。
その疑念は一審の東京地裁の初回口頭弁論で山崎を見た時により深まった。胸に奇妙なざわめきが走った。ダブルのスーツに身を包み、落ち着いた声で証言台に立つ彼に、既視感があった。
文化・知財分野専門の記者である私は、もちろん彼の名前や姿は知っている。直接取材する機会はなかったが、様々な場面で彼の言動を見聞きしてきている。
でも、それ以上の何かが心の奥で低く響いた。私は、この男を知っている。
「音楽は自由であるべきです。音楽を生み出す人と同じように、学ぶ人・楽しむ人がいてこそ、音楽は初めて人の文化として存続できるのです」
そう語る彼の言葉はもっともらしいが、その背後に別の意図が見え隠れするようで、私の嗅覚を刺激する。何かがある。でもそれが何なのかはまだ分からない。
タクシーの車内に設置された液晶モニターに、クロガネ財団の若年者向けの音楽合宿の参加者募集広告が流れていた。
かつてニューエイジ・ホープ合宿と呼ばれ、1980年代から毎年開催されていた合宿は長らく中断されていたが、長い時を経て再び開催されるという。
なるほど、音楽のデジタル制作が一般化した1990年代と同様、AI技術が急速に進んでいる今、若手を選抜して集中的に知識や技能を与えることには大きな意味があるかもしれない、と考えつつ、自分の思考がするすると滑らかに飛躍していることに気づき、森先生の言葉が蘇る。ちょっとしたサイン、脳みそは一生。
サイン、というのとは違うかもしれないが、この数年、時々同じ夢を見る。
夜の湖の水音、誰かの細い叫び、暗い水面に溶けるように消えてゆく旋律。夢の中で、私は湖畔に立ち、何かを叫びながら真っ暗な闇の中に手を伸ばすが、その指は何も捉えることなく空を彷徨う。
「そこにいるの?みんなは、音はどこ?私はみんなとは違う。何も聴こえない。何も奏でられない。」と囁くような、細く弱々しい少女の声が水面を波紋になって渡っていき、静かに水底に溶ける。
声の主の顔は見えない。ただ茫漠と黒い無の空間が広がっている。
「お客さん、顔色が悪いけど大丈夫?」運転手の声にはっとする。頭の奥でかすかな音が鳴った気がした。だがそれも一瞬で消え、波紋だけが残る。
私はトートバッグからコーヒーのはいったボトルを取り出し、一口飲んだ。長い昏睡から覚めた私を覗き込んでいた、母の心配そうな顔を思い出す。「遥!ハルカ!聞こえる?見える?遥!」
私の手を握りしめる母の力のあまりの強さに、ベッドの上でひたすら混乱したあの夏。また森先生の「昔の記憶、今の記憶、ちょっとしたサイン」が頭をよぎる。
窓外、渋滞の青山通りは、ゆっくりと覆いさる夜に沈むことなく眩く立ち上がる。私はもう一度目を閉じ、かすかな水音を追いかけた。
【用語集 -Notes-】
Espressivo(エスプレッシーヴォ):
今回のタイトル。音楽用語で「表情豊かに」「感情を込めて」という意味。主人公・清水遥のジャーナリストとしての情熱や、彼女が抱える過去の謎に対する内面の揺らぎを象徴する。
清水 遥(しみず はるか):
本作の主人公。知財専門のエースジャーナリスト。1996年に事故に遭い、記憶の欠落がある。
森 友音(もり ともね) / AT:
No.11。遥が通うカウンセリングの担当医。
Ponti(ポンティ):
森先生(友音)が「友人と開発中」のAIエージェント。擬人化されたタヌキの少女の姿をしている。通常の秘書機能やリサーチに加え、ストレス検知やメンタルケアの機能を持つ。
音楽教室裁判(おんがくきょうしつさいばん):
クロガネとJOCREが争う、世間を騒がせている著作権裁判。遥は、この裁判の構図に不自然さを感じている。
山崎 奏太(やまざき そうた) / Motif:
No.1。クロガネ音楽振興財団の理事長。遥は取材対象として彼に既視感(デジャヴ)を覚えるが、それが何なのかはわからない。
湖の夢(みずうみのゆめ):
遥が時折見る悪夢。湖、ピアノ、少女の叫びが登場する。
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