取材メモ4
尾野との二度目の会合は、やはり埼玉県内の喫茶店で行われた。
待ち合わせの時間よりも十分も早く着いたというのに、前回同様、今回も尾野の方が先に来ていた。
「すみません、お待たせして」
そう言いながら席に着くと、尾野は「いいんですよ」と言った。
「職業柄、どうしても時間よりも前に来てしまうんです。気にしないでください」
電話での話の通り、宿直明けの尾野は、やはり目を充血させてひどく疲れた顔をしていた。
「お疲れですね」
「分かりますか」
尾野は苦笑して手で顎をさすった。
「髭だけは剃ってきたんですけどね。二十代の頃とは違いますね」
そう言って、遠慮なく大あくびをする。
「すみません。始めましょうか」
店員にコーヒーを注文し、私は本題に入った。
「手記、読ませていただきました」
「どうでしたか」
尾野は心配そうな目を私に向けた。
「意味、分かりましたか」
「はい、もちろん」
私は答えた。
「読みやすい文章をお書きになりますね」
「ああ、よかった」
尾野は背をのけぞらせて、大げさに安堵の息を吐いた。
「伝わらなかったらどうしようかと思っていました。それでは、僕の危惧するところも」
「ええ。にわかには信じがたい話でした。警察の闇といいますか、そういう話は映画とか漫画とか、創作物ではよく見ますけれど、こうして現職の人に話を聞くと、なんというか、かえって現実味が薄いと言いますか」
「でも、本当のことです」
尾野はそう言い切った。
「K署は、殺人事件を組織的に隠蔽している」
「なるほど」
私は頭を掻いた。
「そうなると正直、私の手には負えないと言いますか……前回も言いましたが、完全に門外漢なもので。編集プロダクションの方に、もっとそういう方面に詳しい適任の方を紹介していただいたほうが」
「詳しい人ではダメなんです」
尾野が険しい顔でそう言ったとき、店員が私のコーヒーを持ってきた。
そこでいったん会話は途切れたが、店員が去ると、尾野は私に顔を寄せた。
「僕も前に言ったはずです。うちの組織になんて何のかかわりもない人がいいんです。その方が信用できる」
「はあ……と言っても、私には警察の不正を追及するようなコネも知識もないですから。せっかくの告発が中途半端な記事にされてしまうのは、尾野さんの望むところではないんじゃないですか?」
「僕の手記を読んでくださったんですよね?」
「はい、もちろん」
「こしえさん」
尾野はほとんど聞き取れないくらいの囁き声で、その言葉を発した。
「それが関係しているんですよ」
「ああ……」
確かに、尾野は手記の最後にそんなことを書いていた。
『変死事案と意味不明の引継ぎファイルという、一見全く関係のない二つが、実は繋がっている気がしたのです。
これは、私の刑事としての勘です。』
「そこ、私にはよく分からなかったんですが……」
私は言った。
「尾野さん、どうしてそう思ったんです。引継ぎファイルって前回見せていただいた供述調書のことですよね。あれと隠蔽が繋がっているっていうのは、ちょっと飛躍しすぎていて理解できなかったんですが」
「本当に?」
尾野は充血した目でじっと私を見つめてきた。自分の前に置かれたコーヒーを、彼は今日も飲もうとしない。
「本当に分かりませんか?」
「ええ、分かりませんね」
「木片、ですよ」
「木片?」
「変死現場に落ちていた木片。それを見た途端、黒磯係長は捜査を打ち切りました」
「ああ、そうでしたね」
「飯田さんに前回見せた供述調書にも、木片が登場していませんでしたか」
「そういえば」
確かに、いくつかの調書には木片が登場していた。
「木片とか木像とか、出てきてましたね。あとは削ってください、とか」
「そう。木片とは、木像を削ったものじゃないかとも言われていました」
「はい」
「その木像を持っていたのは?」
「女の人……こしえさん、でしたか」
「そうです。その木片が、変死の現場に落ちていた。それはつまり」
「こしえさんが、その殺人事件の犯人だと……?」
「犯人とまでは言いませんが」
尾野は言った。
「黒磯係長は、その木片をとこしえ神社に持っていけ、と言っていました。とこしえ神社……その中に、こしえという言葉が含まれているじゃないですか」
「ええ、まあ……」
尾野の異様な熱意に気圧されながらも、私は反論した。
「ですが、その木片があの供述調書のものと同じものだとは限らないですよ」
「それはそうです」
意外にあっさりと、尾野は認めた。
「だから、刑事の勘だと言っています。奇妙な木片を契機におかしな経験をした人々の供述調書が残されている。そして、変死の現場に残された木片を見て警察が捜査をやめる。偶然の一致というものは、現実に確かにあります。関連がありそうに見えたけれど、結局は単なる偶然の符合だった、刑事をやっていればそういう事例には事欠きません。けれどそれが偶然なのかそうでないのかは、必ず確かめなければならない。“そんなの偶然だよ”で見過ごしてはいけない。それは捜査の鉄則です」
自分の仕事の話になると、途端に饒舌になる。
それは自分の仕事にプライドを持つ男性によく見られる傾向なのかもしれないと思っていた。尾野もそういう男性の一人だった。
「つまり、尾野さんはこしえさんという女が変死に関わっていると思っているんですね」
「その可能性もあると思っているんです」
尾野は微妙に訂正した。
「ですが、僕にはそのこしえさんというのが何者なのか分からない。捜査したいが、組織の力も使えない」
私は思わず嘆息した。
「まるで都市伝説のような女が、殺人事件をですか」
「厳密な意味では、殺人事件ではないかもしれない」
「と言うと?」
「こしえさんという女の、何か超常的な力で殺されたのかもしれないということです」
本気か。
思わず尾野の顔を見返したが、喫茶店の暗めの照明に照らされるその顔は真剣そのものだった。
荒唐無稽な話だ。
私は確かにオカルトライター崩れだが、オカルト自体を信じているわけではない。
むしろその逆だ。
オカルトを心から信じている人間には、面白いオカルトの記事など書けない。
信じている者の視点と、単なる興味本位の者の視点。その両方を持ち合わせていなければ、読者の興味を引くことはできないし、いずれはオカルトに飲み込まれて視座を失ってしまう。
だから、尾野の話に心から首肯することなどできるはずはなかった。
それに、さっきからまるで警告ランプがチカチカと点滅するように、心に不安が募っていた。
尾野に刑事の勘があるのなら、私にもライターの勘がある。
この件には、深入りしない方がいい。
私の勘は、はっきりとそう告げていた。
「なかなか信じがたい話、ですね」
「ええ」
私の内心の葛藤に気付く様子もなく、尾野は頷いた。
「ですが、だからこそ前任者はこのファイルを残した。そう思いませんか」
「結局、その前任者というのは誰なんですか」
「調べました。半年ほど前までK署の刑事課にいた人物です。名前は
その名前には聞き覚えがあった。
「それって例の調書を作った人ですよね。末尾に作成者の名前があった」
「はい。さすが、よく見ていますね」
「なら、その人に聞いてみるのが手っ取り早いんじゃないですか。一体どういう意図でそんな調書を作ったのか。何が目的だったのか」
「死んでいました」
「え?」
「都丸巡査部長は、半年前に病死していました。それ以上のことは分かりません」
「病死……もうそんな歳だったんですか」
「僕より数年先輩ですから、三十代後半だと思います」
「そんな若くして」
「飯田さん。僕は、あなたに警察的な捜査力を期待してるわけじゃありません」
尾野は身を乗り出した。
「先ほどあなたも言いました。こしえさんというのは、まるで都市伝説のような佇まいをしていると。僕もそう思います。あなたが警察について門外漢だというのなら、僕もオカルトの方面には全くの素人です。飯田さんにはそちらの方面から、この女について調べてほしいんです」
「オカルト方面から、ですか」
「ええ。こしえさんという存在について、飯田さんのやり方で調べてください。僕は放火事件の捜査でなかなか動きが取れませんが、署内に保管されている書類を調べることはできます。都丸巡査部長は自分で供述調書を作っていましたが、ほかの警察官が作った書類にも、意識的でなくてもそれに関係しているものがあると思うんです。“木片”や“こしえさん”に関連する書類が。それを探して、見つけたら写しを飯田さんにお送りします」
どんどん具体的な話が進んでいく。
深みにはまる、嫌な予感はあった。
「飯田さん。お願いします」
得体の知れない仕事。
血走った目で私を見つめる目の前の人物を、心から信頼することもできない。
この男の言っていることの、どこからどこまでが真実なのか。
そこには多分に、妄想も含まれているのではないか。
供述調書の写しなど、警察官である尾野にはいくらでも偽造することができるだろう。そして、私にはそれを見破る知識はない。
何もかもが、曖昧模糊としていた。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
それは、E氏から振り込まれる取材費だ。
尾野との二度目の接触の前に、振り込まれていた。
その額は、いまや私の人生にとっての希望だった。
結局、今の私にとって一番信頼できるのはカネだ。
そして、この仕事はそこが揺るがない。
いいだろう。
オカルト関係の調査ならば、私にもできることはある。
「分かりました」
そう答えてしまった。
「私にできる範囲で、頑張ってみます」
「ありがとうございます」
尾野は私の手を握った。
がさがさとした、冷たい手だった。
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