世の中が腐っているのはアイツのせいだと思っていたけど、結局俺が腐っているせいだった。

芒田隼人

01.三番線ホームで

「ばかやろうっ!」


 すみません、そう言って頭を下げる早咲達夫はやさきたつおの声に、さらに男は怒りをぶちまけた。

 三番線ホーム。

 朝八時。サラリーマンやOL、学生の群れが蛇のように動き人の波を作っている。背中側のホームでは電車がゆっくりと出発した。また五分も経たぬうちに次の電車がやってくる。その間に悪質クレーマーである、この目の前の男を片付けなければ。

 駅員になった記憶はあっても、罵詈雑言を受けるサンドバックになった覚えはない。


「お前話聞いてんのかっ!」


 目の前の男は五十を過ぎたころ、くたびれたネクタイとスーツは十年来の付き合いだろう。なんとか残った髪をポマードでなでつけているのか、禿げているところよりも黒々しいところの方が明かりを反射して輝いていた。

 怒号の原因は、車両内での異臭。

 臭い、臭いとわめき散らした後この駅で降車し、クレームを早咲が引き継ぐこととなった。


「すみません」


「謝ってすみゃ、警察はいらねえんだよ!」


 定型文。

 唾が飛んだ。

 お前の口の方が臭いんだよ。言いたい気持ちを抑えて、頭を下げるしかなかった。

 返金や不正乗車の方が簡単にカタがつく。謝罪と誠意を重ねればいいからだ。こういった、怒らないと気がすまないクレームの方が面倒なのだ。


 おおかた会社では窓際族、自分よりあとに入社した後輩が上司で、叱責されることもなく陰口を聞くたびに苛立ちを募らせている。だから今、その募りに募ったものを自分にぶちまけている……。

 そう思わなければ、推定・人間を前にしてこちらの方が先に心が折れてしまいそうだった。


「すみません」


 それ以上の言葉が見つからずに、心の中でため息をつく。


「お前、何が悪いのか分かってんのか!」


 分からん。


「……すみません」


 本当に、これ以上何を言えばこの男は満足するのだろう。

 風の音がした。

 もうすぐ、次の電車が来る。急に心臓がはねた。ホーム上でいつまでも言い争いをしている余裕はない。次の業務だってあるし、上司からの心証も悪い。クレーム対応の一つや二つもできないやつだと思われるのは癪だった。

 あの時、お前たちのケツを拭いてやったのは自分なのに。


「土下座」


 聞こえなかった。

 風の音、遠くから聞こえる電車の音、まもなく電車がやってくることを伝える駅メロディ。そのすべてに不和をもたらす声など、聞こえない方がマシだ。


「しろよっ! 土下座!」


 男が地団太を踏んだ。醜かった。50代のバーコード禿げが地団駄を踏む姿など金をもらっても見たいものではない。みっともない、大人がする姿か、それが。

 ちらほら見えるランドセル姿にはこちらを向いてほしくなかったが、男の叫び声のせいで注目を集めてしまっていた。


「おい、土下座! 土下座だよ、お前!」


 土下座ボットは、革靴を鳴らしながら顔中に皺を作っている。

 禿げていると思われたくないのは、自分がイケメンか何かだと勘違いしているのだろうか。


「早咲! 土下座!」


 急に名前を呼ばれて、心臓が掴まれたかと思うくらいに縮んだ。名札を呼んだのだ。そう理解するまで顔が固まった。


「それがお客にする顔かよ! もういい! お前使えねえから、他のやつ出せよ!」


 キィ……ンと耳鳴りがした。

 周囲の音が聞こえなくなった。

 無意識に膝を折っていた。ゲームの一人称視点のように。

 つま先で他人を威圧するのが癖になっているのか、男の革靴の先端はやや削れていた。

 それが見えるまで、上体を倒していた。


 ——バンッ。


 爆音。次いで悲鳴が耳をつんざいて、いつの間にか耳の調子がもとに戻っていることに気づいた。折っていた膝をもとに戻して、周囲の人々が線路に入ろうとしているのが目に入った。

 危ない。

 とっさに身体が動いて、線路の近くに寄った。

 車両があった。今、動いていない。車両が線路の上にあって、動いていなくて、でもみんな吸い込まれるみたいに線路によっている。スマホのカメラを構えている者もいた。 

 嫌な予感があった。

 近くにいた男子大学生が息をのんだのが聞こえた。


「死んでる。……死んでる!」


 線路の上。倒れた人。女だろうか、髪は長い。舞った血しぶきは、線路広告の看板にまで散っている。内臓が爆弾に変わったかのように爆ぜた肉塊がそこら中にあった。

 シャッターの音、悲鳴、困惑する声が世界が開けたみたいに一気に耳に入ってくる。

 運転席にいたのだろう運転手は、すでに線路の上だった。線路の中に侵入しようとしている客を押しとどめているようだ。顔色は悪い。悪いどころじゃない。後悔と困惑を顔中に塗りたくったような顔。

 それでも、なんとか仕事をこなそうとしているのだろう。

 自分もその輪に入ろうとして、右腕を掴まれた。

 救急だろうか、それとも混乱した客が救いを求めて私の腕を掴んだのか、轢かれた女の幽霊ということはないだろう。

 振り向く。


「――土下座」


 醜い男のシミが視界いっぱいに広がった。開けた世界が一気に狭まった気がした。

 死ねばいいのに、彼女の代わりに。


「しろよ!」


 何をそこまで怒っているのだろう。

 何をそこまで土下座にこだわるのだろう。

 謝罪ではすまないと言ったのはお前じゃないか。

 先ほどまであった注目は今は、死んだ彼女のものだ。今は、それどころではないのに。怒りよりも呆れの方が胸のうちに広がっていく。

 拳を、握っていた。


「部長!」


 声が聞こえた。もちろん自分に向けられたものではない。けれど、男に向けられたものでもないと、思いたかった。

 サラリーマン風の男が駆け寄ってくる。手には通勤用バッグ。整えられた髪とオーダーなのかよく似合ったスーツとネクタイ。くたびれてなどいない。年齢も若すぎることはない。三十代の今まさに盛りのころだろう。


「坂崎」

「タクシーで行きましょう。間に合いません」

「俺が出すのか」


 今までただの禿げた親父に見えていた。けれど今は、泰然自若たいぜんじじゃくとした部長に見える。頼りがいのある、厳しいが優しすぎるよりはいいと思える人間には合うだろう。そんな風に見えた。

 微笑みをたたえて、恵比寿のように頬が膨らんでいた。


「いやあ、いつもありがとうございます」


 そんな戯れができるのか。

 だったら、誰がさっきまでの苦しみを分かってくれるのか。

 怒りに赤くなっていた顔が赤ら顔の陽気な顔に見えてしまう。


 去っていく男二人。背中が遠い。気持ちが悪い。気色が悪い。幽霊でも、見た方がマシだ。

 二人の仲を裂きたくなった。

 実はその男はあんたに見せていない面がある。呆れるほどのクレーマー気質なのだと告白して、そうなのだと納得して欲しかった。

 メリットなど一つもないくせに。


「おい、早咲! はやくしろ」


 先輩の怒号を背中に受けて、私は、仕方がなく踵を返した。

 クレーム対応をしていたことさえ、うやむやにされて、事故対応を迅速に行わなかったと叱責されるのはごめんだ。


 ——走る度、早咲達夫の足首につけられた鈴の音が鳴った。

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世の中が腐っているのはアイツのせいだと思っていたけど、結局俺が腐っているせいだった。 芒田隼人 @karashi__wasabi

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