3.夢と想い  -理佳-


約束通り宗成先生から鍵を預かった、

かおりさんは一時間後に病室のドアを叩いてくれた。



運び込まれる車椅子。



ベッドからゆくっりと体を起こすと、

私は車椅子へと移動して、タオルケットを膝に置いて

そのままかおりさんに後ろから車椅子を押されながら、

ピアノのある部屋へと病棟を移動する。




カチャリ。




鍵のロックが外れる音が聞こえて、

ゆっくりと開かれた先には、グランドピアノ。



この病院の中には、

三台のグランドピアノが存在してる。




一台目は、外国のメーカーのグランドピアノが

一階のエントランスホールに。



そしてもう一台は、今から私が借りる

お遊戯室の国内ピアノ。



そしてもう一台は、病院内の何処かにあるらしい

サロンホールの、外国ピアノ。




私に縁があるピアノは、お遊戯室の相棒と、

エントランスホールの相棒。





「理佳ちゃん、はいっ。

 何時もみたいに、何かあったらこのボタンをお願いね。


 また時間を見つけて様子を見に来るわね」



私がグランドピアノの椅子に移動したのがきっかけで、

かおりさんは仕事へと戻っていった。






ピアノの鍵盤をそっと撫でて、

私が演奏を始めるのは……レクイエム。






もの悲しい調べが私を優しく包み込んで、

寄り添ってくれる。




私の心に残る、汚いものも全て包み込んでくれるような気がして

その音色の中に、身を任せながら私は今日までの時間を振り返る。



自分の生きてきた証を辿るように。







物心ついた時から、私はピアノの音が好きだった。


三歳から始めたピアノのお稽古。

私のアルバムの中には、四歳の時の音楽発表会の写真がおさめられてる。




桃色のふわふわのドレスを着て、

大好きなピアノを奏でてる、夢いっぱいの幸せそうな私の笑顔。



そんな笑顔が多分、ずっと続くと思ってた。




五歳になった時……、

お母さんから『もうすぐお姉ちゃんになるのよ』って

教えて貰った。



生まれて間もない、モモは沢山泣いて、ミルクをごくごく飲む小さな小さな存在。



お母さんのお手伝いをするんだって、モモが飲むミルクを掴んで

モモにミルクを飲ませてる私がアルバムの中には存在した。



鮮明には思い出せない記憶だけど、

それでもその写真が伝えてくれるのは、

私が家族と触れ合った大切な時間の宝物。





小学校。




私は聖フローシア学院の初等部へと入学が決まった。



私たちのいる地域では、

神前悧羅学院と並んで、有名な学校に通えるようになったのは

三歳から始めたピアノの成果。





楽しい学校生活がずっと続くと思ってたのに、

神様はとても意地悪で、その年に胸を押さえて倒れたまま

病院での生活が続いている。






友達を作って、学校で楽しく過ごす私の夢は

その瞬間に崩れ去る。




最初のうちはお見舞いに来てくれてたクラスの皆も、

入院が半年以上になると、次第に訪問する存在が減っていく。




私の病室に顔を出してくれるようになったのは、

心配性のお父さんとお母さん。



妹のモモは、

まだ幼いからという理由で病院に連れてこられることはなかった。



多分、お母さんとお父さんの愛情を沢山受け取りたい大切な時期のはずなのに、

モモの大切な二人は、何時も私の傍。




そんな心の苦しさが、私と両親の距離を遠ざけていく。




私の心が、これ以上傷つかないようにと一つ、

また一つと心を殺してその機能を麻痺させていく。





フローシアの初等部一年生。


通学できないままに、

時間だけが過ぎて私は……退学。




本来なら、市立の小学校に通う必要があるんだけど

それすらも入院中の私には出来なくて、

病院の院内学級で勉強するようになる。






小学生で二人、中学生で二人。



四人の先生が、

丁寧に小児科病棟の一角で勉強を教えてくれる。



そしてそれとは別に、

希望した習い事も出来るのがこの病院のシステム。



私はどんな形になっても、ピアノは続けたかった。



だからこそ、今もピアノだけにしがみ付くように

この時間に執着してる。





いつ死んでもいいって、罪の意識を感じるのに

ピアノだけは手放すことが出来ない私自身。




思う様にコントロールできない私の心。








レクイエムを何度も何度も、無心に繰り返しながら演奏を終わった後

私は空っぽに近い状態で、フラフラになりながら手探りで、

鞄の中から楽譜を取り出す。






プルルル。




ふいにお遊戯室の内線がベルを鳴らす。





「はいっ、満永です」


「理佳ちゃん、あれから一時間半よ。

 少しは休んだ?


 羽村先生から病棟に連絡が入って、

 今日のレッスンは、予定通りですって。


 いつもの様にPCとカメラとお遊戯室に持っていくわね」


「有難うございます」





かおりさんにお礼を告げた後、

私は再び、ピアノの椅子の前に座った。






今、私のピアノ指導をしてくれてるのは

世界的に有名なピアニスト。





羽村冴香【はむら さえか】。



幼稚園の時に、ピアノのお稽古に行ってた楽器屋さんで

一度だけ出逢ったことがある冴香先生の演奏は、

一寸の狂いもないほど正確で、それでいて指先のタッチ力が絶妙だった。



重たいピアノの鍵盤を流れるような指使いで、

操りながら演奏する魔術師みたいな憧れの存在。




そんな羽村先生と関係を繋げてくれたのが、

難病と向き合う子供たちに夢を与えようという趣旨で行われる

メイク・ア・ウィッシュと呼ばれる活動。




小学校三年生の時、当時の主治医の先生に

18歳まで生きられないかも知れないと告げられて

塞ぎ込んでた私に、夢をくれた存在。




メイク・ア・ウィッシュにお手紙を書いてお願いしたのは、

羽村冴香さんに逢いたいって言う内容だった。



そして私のピアノの先生になって欲しい。





今思えば大胆な夢で、大胆な手紙だったかもしれない。



だけど……殆どの当たり前の夢を手放した私だから、

最後のこの夢だけは手放したくなくて必死だった。




その時から……冴香先生とは、今も交流が続いてる。






「理佳ちゃん、入るわよ」




かおりさんの声が聞こえて、再びお遊戯室のドアが開くと

約束通り、ピアノの上にはマイクを接続したノートパソコン。


私の手元を映し出すためのカメラが三脚でたてられる。






通うことが出来ない私。




決まった時間にお稽古をすることが出来ない冴香先生サイドの事情も重なって、

私はあの時から、

こうやってインターネットを通してピアノのレッスンを付けて貰ってた。





専用に開発されたソフトを起動して、

マイクを音にしたまま、私は楽譜と睨めっこしながら今日の課題曲を見つめる。




モーツァルト。

2台のピアノ・ソナタ。


ニ長調 第一楽章。





少し前にドラマで取り上げられて、広く知られるようになったこの曲。



その曲を一緒に演奏しましょうって夢をくれたのは、

冴香先生。




楽譜を追いかけて、ゆっくりと練習をしていると

PCの画面に、向こう側の冴香先生の様子が映し出される。





「こんにちは。

 理佳ちゃん、今日の調子はいかが?」


「レッスンが楽しみで早く起きちゃいました」


「まぁ、理佳ちゃん。

 先生も一緒に同じステージで演奏できるのを楽しみにしてるわ。


 さぁ、早速始めましょう」





冴香先生の合図で、私は最初の頁から演奏を始める。




カメラによって映し出された手元を見ながら、

画面の向こうで、冴香先生が指先を動かしているのが視界にとまる。





「理佳ちゃん、もっと楽しんで。


 モーツァルトも言ってたよ。

 音楽は楽しくないといけませんって。


 

 もっと屈託のない明るい感じで」




演奏中に、冴香先生の声が飛び交う。

 





音楽をもっと楽しむ。


屈託なく明るい感じで。






今の私的には、すでに十分楽しんでるつもりなのに

その思いはなかなか、相手に伝わらない。




何とか演奏をやりきった後、

冴香先生は「少し待ってね」っと画面の向こうに消えていった。





CDらしきものを手に再びPCの前に戻ってきた冴香先生は、

モニターの向こう側でゴソゴソしながら、

私に告げた。






「理佳ちゃん。


 先生が演奏するパートは、後でMP3で送るわね。

 何度も聴きこんで、練習に役立てなさいね。


 今から理佳ちゃんに聴かせるのは、誰にも聴かせたことないんだけど……

 先生が、お姉さんと一緒に演奏したものよ。


 先生のお姉さんも、とてもピアノが大好きな人なのよ。


 姉はピアニストにはならなかったけど、

 今もずっとピアノと関わる仕事をしてる。


 本当に心から音楽を楽しむ、そんな姉が理佳ちゃんのパートを演奏してる音があるの。


 今から、それを姉の録音済みの音源と一緒に演奏するわね。

 それを受け止めて、次のレッスンの時に理佳ちゃんが私とどうやって演奏して楽しみたいかを

 考えて貰えると嬉しいわ」






冴香先生はそう言うと、リモコンでボタンを押して

静かに鍵盤に手をのせた。







大好きな鍵盤の魔術師が奏でる、









2台のピアノ・ソナタ。






それはとても、

華やかで輝きに溢れた音色だった。









楽しいレッスンはやがて思って、

今日も病室へと戻る時間。







充実した時間の後の、シーンと静まり帰った空間は

精神的反動があまりにも大きい。








世界の中から取り残されたような感覚を感じながら、

私は冴香先生からデーターで届いたその音色を何度も何度もリピートして聞き続けた。






孤独や寂しさ、闇から逃げ出すように。






夢と想いは、相対する存在で

今も……私は暗闇を彷徨いつづけていた。


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