第4話 パパ、転職しない?

 職を失い、転生早々、無職のおっさんへと成り下がった俺は、最寄りのハロワを目指して街を彷徨っていた。


 やかましく走り回る車の走行音。すれ違う人々の話し声や足音。

 静寂が支配する限界集落での暮らしが長かった俺には、その騒音すらもどこか懐かしく、同時に新鮮に感じられた。

 ……昔は俺も、この東京の喧騒の一部だったんだけどな。


 グゥ〜、と腹の虫が悲鳴を上げる。

 そういえば今日はまだ何も食べていない。


 起きてすぐに職場へ直行し、光の速さでクビになってここへ来たのだ。

 腹が減ってはなんとやら。

 ハロワの前に腹ごしらえでもしておくか。


 俺は足を止め、周囲を見渡した。

 

 ビルの谷間に、時代に取り残されたようなボロい中華料理店がへばりついているのを見つけた。

 看板の赤色は退色し、なんと書いてあるかほぼ判読不能。

 ……すい……晶堂しょうどうか?


 入り口の暖簾のれんは油とすすでコーティングされ、本来の色を失っている。

 間違いなくだけが取り柄の店だ。

 今の俺の財布事情にはおあつらえ向きだろう。


 引き戸に手をかけ、ガラガラと開ける。


 一歩足を踏み入れた瞬間——俺は後悔した。


 ツンッ、と鼻の粘膜を刺激する酸化した油の臭い。

 さらに奥からは、何日も放置された生ゴミのような腐臭が漂ってくる。

 知っている。これは、衛生観念が崩壊した厨房特有のだ。


「いらっしゃいませ、お客様! どこでも座っていいヨ!」


 地獄の入り口で満面の笑みを浮かべていたのは、真っ赤なチャイナドレスを着たお姉さんだった。

 製造日がちょっと気になったので"お姉さん"と呼ぶべきか迷ったが、前世の俺よりは若そうだし、スタイルもボンキュボンで悪くない。


 ふと、過去の苦い記憶が蘇る。


 俺が店を開店したばかりの頃だ。

 子連れのお母さんが店に入ってきたので、俺は張り切って「いらっしゃいませ!」と笑顔で出迎えた。

 だが、あのお母さんは、俺の顔を見た瞬間、


「ひっ……す、すみません! 間違えました!」


 と、悲鳴を上げて逃げ出したのだ。

 俺が自分の強面こわもてと大きな体を気にするようになったのは、あの日からだ。

 そのトラウマから、女性客が来るたびに猫背になり、声は虫の羽音のように小さくなった。


 ──まあ、最終的にはババアしかこなくなって解決したんだが。


 ここで俺が回れ右をして帰ったら、このねえちゃんも傷つくかもしれない。

 客商売の痛みは、俺が一番よく知っている。


 多少の腐った飯くらい、俺の失敗作を味見し続けてきた鋼の胃袋なら耐えられるだろう。


 いや、今は転生した体だから未知数だが……まあいい。

 下積み時代に鍛えたメンタルは健在だ。なんでも食べてやろうじゃないか。


 俺は覚悟を決めて、カウンター席にどっしりと腰を下ろした。


 ……テーブルが妙にぬるぬるしている。

 メニュー表を手に取れば、こちらもネチャリと糸を引きそうな手触り。

 最後に掃除をしたのはいつなのだろうか。


「おにーさん、飲み物はなんにするネ?」

「ビー……水でお願いします」


 危ない、危ない。うっかり原価率の低いぼったくり商品を頼むところだった。

 無職の身分で昼間からビールなんて贅沢は許されない。


 メニューの紙面の80%を占拠している謎のキッズメニューが気になりすぎるが、俺は無難な線を攻めることにした。

 チャーハンと餃子。

 中華の基本中の基本だ。いくらヤバい店でも、これなら最低限食えるモノが出てくるはずだ。

 注文を終えると、厨房から「ガシャン!」「ドカン!」と爆発音のようなものが聞こえてくるが、この店はそういうものなのだと自分に言い聞かせる。


「はい、おまちどうさまネ!」


 ドンッ、とトレーが置かれる。

 そこに鎮座していたのは、白飯みたいなうっすい色のチャーハンと、皮が半透明で中身が透けて見えるふにゃふにゃの焼き?餃子だった。


 ……素人か?

 俺の母ちゃんがクックパッド通りに作ったものの方が、まだ料理としての形を保っていた。


 とはいえ、見た目だけで判断するのはまだ早い。

 見た目は最悪だが味は絶品という料理を俺はいくつも食べてきた。

 いざ、実食!!!


「……」


 不味い。

 想像の遥か下をいく不味さだ。


 まず、お冷には黒い謎の浮遊物が混入しており、水道管のサビの味がする。

 チャーハンは油でベチャベチャなのに味付けは皆無。

 餃子に至っては、焼く工程を完全にすっ飛ばされている。


 中身がスカスカなおかげで、ひき肉への火の通りだけは心配しなくていいのが唯一の救いか。


 俺の中で、何かがプツンと切れた。


「……おい」

「ん? 支払いはレジでお願いするヨ」

「いや、そうじゃねえ……。すまんが、この店の責任者を出してくれ」

「わたしだヨ!」

「……シェフはいないのか?」

「わたしだヨ!」


 俺が殺意に近いオーラを放っているというのに、この姐ちゃんは驚くほど鈍感なのか、悪びれもせずニコニコと笑っている。


「貴様ァ!!! 飲食業界の風上にも置けない愚物め!!! そこに直れェ!!!」

「ふぇ!? は、はいっ!?」


 雷を落とされたようにビクッと震え、姐ちゃんは直立不動になった。


「テメェは客をなんだと思ってんだ!? 残飯処理係のブタか!?

 このチャーハンはなんだ? 出す前に一口でも味見をしたのか、このゲスが! コンビニの廃棄弁当の方が一億倍マシだわ!

 それにこの餃子! 皮が生だぞ! 小麦粉の味しかしないじゃねーか!

 あとよ、店内はまるで掃除してねーし、換気扇からは油が垂れてるし、食べる前から印象最悪だろうが!

 客はな、貴重な金と時間を消費して、わざわざお前の料理を選んで食べてやってんだぞ? 飲食店なんて星の数ほどあるのに、わざわざ足を運んでくれたんだ!

 クソクレーマーみたいな害悪客もいるから客は神様とまでは言わんが、料理を提供する側としての最低限の礼儀ってもんがあるだろ!? 悔しくないのかよ!?」


「す、すまないネ! 不味いなんて知らなかったヨ〜!」

「ちょっと俺についてこい!」


 俺はねーちゃんのチャイナ服の襟首を猫のように引っ掴み、強引に厨房へと連れ込んだ。

 暴行罪で通報案件だが、その時の俺は料理人のプライドを傷つけられた怒りで、理性が蒸発していた。


 厨房の中は、さらに酷かった。

 シンクには汚れた皿が山積み。中華鍋は焦げクズと油が重なり、元の鉄の肌が見えない。


「まずは洗えっ!」

「は、はいっ!」


 姐ちゃんが涙目で中華鍋を洗剤のついたスポンジで擦ろうとする。


「バカヤロウ! 鉄鍋に洗剤を使うな! 油膜が剥がれるだろうが! 水洗いして、空焚きして、タワシで汚れをこそぎ落とすんだよ!」

「は、はいっ!」


 なんてこった……。

 初歩の初歩から叩き込まないとダメみたいだ。よくこれで店を開こうと思ったな。


「いいか、チャーハンってのはな、米を炒めるんじゃない。油と卵で米をコーティングして、熱を閉じ込めるんだ!」


 俺は鍋をひったくると、コンロの火力を最大にした。

 轟音と共に立ち昇る青い炎。

 たっぷりのラードを溶かし、溶き卵を一気に流し込む。

 ジュワァァァ!! と爆ぜる音。

 半熟のうちにご飯を投入。お玉の背で米をほぐしながら、鍋をあおる。

 あおるたびに米粒が黄金色の雨のように宙を舞う。

 塩、胡椒、最後に醤油を垂らし、香ばしい焦げ香をつける。


「完成だ。食ってみろ」


 俺はお玉でチャーハンを掬い、それを姐ちゃんに渡した。


「は、はい……あぐっ……んん!? おいしぃいいいネ!!!」


 姐ちゃんが目を輝かせてがっついている。


「わかったか? もう二度とクソまずいもんを出すんじゃないぞ」


 俺はため息をつきながら厨房を去り、店を出ようとした。


 ——その時、入り口の引き戸に貼られた一枚の紙が目に入った。


『求ム! 従業員! 賄いつき!』


 俺はクルリと回れ右をして、全速力でねーちゃんの元へ戻った。

 そして、綺麗なフォームで土下座をキメた。


「偉そうなこと言って、大変申し訳ございませんでしたぁぁぁ! どうか! どうか俺を雇ってください!!!」

「うーん、そうだネ……。警察を呼ぼうと思ってたんだけどネ……」

「お願いします! なんでもしますから! 調理も、皿洗いも、接客も、掃除も、害虫駆除も! なんなら経理だってやります!」

「えっ、一人分の給料で全部やってくれるのかナ?」

「もちろんです! 喜んで!」

「じゃあ、大歓迎だヨ! ワタシ、スイラン。よろしくね!」


 朗報。

 俺氏、無事に無職から脱出できたみたいだ。

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