第26話 サイド:アリシア 言えないおかえりなさい
時計の針が、十時を少し過ぎていた。
カーテンの向こうで車の音が途切れ、部屋の中が静かになる。
私は、ちゃぶ台の上のノートを閉じた。
ページの端には、今日の感情を記録したメモがある。
──「不安:発生。原因:不明。対応:観察」。
観察はできる。
けれど、“安心”の作り方はまだ知らない。
スマートフォンの画面を開き、
メッセージを一行だけ打つ。
──「遅くなりますか?」
それ以上は書けなかった。
心配、という単語を使うのは、まだ勇気がいる。
だが、この一文だけでは、伝わらない気もした。
(……どうして言葉が足りないのか)
指先で送信ボタンを押す。
画面に「送信完了」と表示された瞬間、
胸の中が、ほんの少しざらついた。
湯を沸かしながら、カップに紅茶を注ぐ。
香りが静かに立ち上り、
空っぽの部屋の温度をわずかに上げる。
ベランダの外には、神戸の街の灯。
けれど、私の視線は、扉の方へばかり向かっていた。
「……仕事でしょうか」
合理的に考えれば、それが一番の答えだ。
だけど、そう思うたびに、
心の中に小さな痛みが残った。
時間が十一時を過ぎたころ。
温くなった紅茶のカップを片づけ、
寝室の照明を落とす。
布団の端を整えながら、
その反対側に、少しだけ隙間を残した。
それは、帰ってくる人のための“空白”。
「遅くなりますか」
小さく口の中で繰り返した。
返事のない画面をもう一度見て、
ゆっくりと目を閉じる。
そのまま、思考がほどけるように眠りに落ちた。
*
玄関の鍵が回る音が、夢の端に届く。
扉が開き、柔らかな空気が流れ込む気配。
(……帰ってきた)
意識の奥で、そう思った。
けれど体は動かず、まぶたも上がらない。
足音が近づき、
一瞬だけ、視界の端がぼんやりと明るくなる。
その後、照明が落ちて、静寂。
畳がきしむ音。
布団の横に座る気配。
近すぎず、遠すぎず──“居る”距離。
その存在に、心の奥が少しだけ緩んだ。
微かに笑って、もう一度眠りに沈む。
カーテンが風に揺れ、
月の光が薄く部屋を照らしていた。
──なぜでしょうか。
いつも通り、ベッドを共有すればいいのに。
そう思った瞬間、
胸の奥で、言葉にならない何かが動いた。
それが“寂しさ”という感情なのだと気づく前に、
意識は静かに、闇の底へと落ちていった
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