第25話 帰宅の灯
駅前のネオンが、ゆらゆらとガラス越しに滲んでいた。
仕事帰りの男たちが笑い声を上げ、遠くで電車のブレーキ音が重なる。
直哉はその中を、ぼんやりと歩いていた。
瑞稀と別れた直後だった。
短い会話、柔らかい笑顔。
それだけのはずなのに、胸の奥がざらついていた。
「……なんで、こんな気分なんだか」
呟いた声は夜に溶け、返事はない。
気づけば、足はいつもの帰り道ではなく、
駅裏の小さなバーの前で止まっていた。
ドアを開けると、ウイスキーの香りが迎える。
カウンター席に腰を下ろし、
「ハイボールを」とだけ言った。
氷の音が静かに鳴る。
グラスの中で泡が弾けて消えていくのを見つめながら、
直哉は自分のスマホを取り出した。
画面には、アリサからの短いメッセージ。
──「遅くなりますか?」
ただそれだけ。
それなのに、まるで“何かを問われている”ように感じた。
指が、送信ボタンの上で止まる。
返事は簡単だ。“少し遅くなる”で済む。
けれど──打てなかった。
理由は分かっていた。
瑞稀と話したことが、アリサに対して“裏切り”のように思えてしまったからだ。
何もしていない。やましいことなんてない。
それでも、心のどこかで引っかかっていた。
「……あー、ほんと面倒くさい性格だな俺」
苦笑してグラスを傾ける。
喉を通るアルコールが、少しだけ熱い。
“保護者”のつもりでいるのに、
どこかでアリサを“異性”として意識している。
その自覚が、今夜に限ってひどく居心地が悪かった。
店の時計が22時を指す。
音楽が流れ、他の客が笑っている。
自分だけ、別の世界に取り残されたようだった。
勘定を済ませ、店を出る。
夜風が思ったより冷たくて、酔いが少し引いた。
「……帰るか」
電車を降りて歩く間、
何度もポケットのスマホが気になった。
結局、画面を開くことはなかった。
*
玄関の鍵を回すと、
部屋の空気がほんのりと温かい。
ちゃぶ台の上には、
ラップされた夕飯と湯呑み、そして小さなメモ。
──「温めて食べてください」
(……遅くなりますか、か)
心の奥で、何かがきゅっと鳴った。
アリサの律儀さが、余計に痛い。
台所で電子レンジを回しながら、
自分の手の匂いに気づく。
わずかに残る、瑞稀の香水。
さっきまで気づかなかったのに、今はそれがやけに強く感じる。
(……そりゃ、言えねぇわけだ)
自嘲気味に笑い、顔を洗う。
鏡越しに見る自分の顔は、
妙に疲れていて、情けなかった。
「帰る家があるってのも、案外難しいな」
つぶやきながら、寝室を覗く。
アリサはすでに眠っていた。
月明かりの下、静かな寝息。
掛け布団がほんの少し、こっち側に膨らんでいる。
「……お前な」
苦笑して、ベッドの脇にしゃがみ込む。
ほつれた髪を払いそうになって、手を止めた。
“触れたら壊れる”気がして。
布団の端が、ぽん、と跳ねる。
寝返りの拍子か、それとも──。
「……誘ってんのか?」
バカな、と自分にツッコミを入れ、枕を持って床へ。
けれど足が止まる。
シャンプーと柔軟剤が混じった香りが、
やけに近くて、やけにやさしい。
「……メールに返信できなかった俺への罰なんだろうな」
そう呟きながら、結局その場に座り込んだ。
床に背中を預け、天井を見上げる。
静寂の中で、アリサの寝息だけが続いていた。
(……悪い。明日、ちゃんと返す)
そんな言葉を心の中で呟きながら、
直哉は静かに目を閉じた。
外では風が吹き、
部屋のカーテンがふわりと揺れた。
──誰かの隣に帰ることは、
こんなにも複雑で、あたたかい。
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