第10話 恋愛実験

放課後。

教室を出ようとしたとき、廊下の角で小さな声がした。


「……佐藤さん。少し、お時間いいですか」


一年生の女子だった。髪は肩で結び、視線は揺れている。

人目を避けるように、指先で「こっち」と示す。


連れて行かれたのは、屋上へ続く踊り場。

扉は施錠されている。風の音だけが聞こえた。


「ここなら、誰にも聞かれません」


「何を、聞かれたくないのですか」


「わ、私が……佐藤さんに、どうしても伝えたいこと、です」


沈黙。

彼女は制服のポケットから、二つ折りの便箋を取り出す。

角が少し丸くなっている。何度も触った跡だ。


「ずっと……見てました。佐藤さん」


「観察、という意味でしょうか」


「ち、違います! 尊敬と……こ、恋です!」


息が止まるほど、はっきり言った。

彼女の耳まで赤くなる。


「私に、恋愛感情を?」


「はい。佐藤さんは、誰の視線にも揺れない。

 まっすぐで、きれいで、私の理想で……。

 だから、その……お姉様、って、呼ばせてください」


「私は女性です」


「それでも、構いません」


論理の枝が頭の中で増え、行き場を失った。

“構わない”という許可は、何を許可するのか。

呼称の問題か、関係の定義か、未来の契約か。

定義が不足している。


「確認します。あなたは、私に交際を求めていますか」


「は……はい。いきなりは無理でも、せめてお友達から」


「友人とは、感情の共有を前提とします。

 私はあなたの求める共有を、適切に行える確信がありません」


彼女の目が、不安で揺れた。

不確実性が発生している。追加の説明が必要だ。


「誤解のないように言います。あなたの言葉は、嬉しいと判断します。

 しかし、私は“嬉しい”を、まだ上手く扱えません」


「……扱えない、ですか?」


「はい。私にとって“噂”は、騒音のようなものでした。

 でも、あなたは人目を避けて、静かな場所を選んだ。

 それが、私には新しい事実です」


自分の声が、少しだけ柔らかいことに気づく。

噂は人を遠ざける。

けれど今、目の前のこの人は近づこうとしている。

悪意ではなく、意志で。


「返答は、保留します。あなたの言葉は受け取りました」


「……はい」


彼女は小さく息を吐き、便箋を差し出した。

受け取ると、指先に紙の温度が移った。

風が鳴り、踊り場の空気がわずかに冷える。


「ありがとう。帰りましょう」


階段を降りる途中、背後から小さな声がした。


「お姉様、と呼んでも……いつか、いいですか」


「検討します」


彼女は、ほっと笑った。



夕方。

玄関の鍵が回る音。靴を脱ぎ、室内に入る。


「ただいま戻りました」


ちゃぶ台の前で、直哉がノートPCを閉じた。

在宅日の顔だ。コーヒーの匂いがまだ残っている。


「おかえり。今日はどうだった」


「呼び出されました。屋上の階段で」


「物騒な導入をやめろ。何があった」


「ラブレターを、いただきました」


沈黙。

直哉は固まった。目だけがゆっくりこちらを向く。


「……もう一回、言って?」


「ラブレターを、いただきました」


「誰から」


「下級生の女子です。“お姉様”と呼ばれました」


「待て。どういうジャンルの青春を歩いてるんだお前は」


「ジャンル分けは未実装です」


「未実装てなんだよ……」


直哉は額を押さえ、深く息を吸った。

その仕草の意味は、だいぶ分かってきた。

“落ち着け”と“現実を受け入れろ”の同時処理だ。


「で、返事は?」


「保留しました。便箋は、ここに」


ちゃぶ台に二つ折りの紙を置く。

直哉は触れない。視線だけが紙に刺さる。


「読みますか?」


「いや、俺が読むものじゃない。……いや、でも内容は気になる……いや読まない」


「揺れていますね」


「揺れるだろ普通。ていうか、なんで人目を避けて屋上の階段なんだ」


「噂があるからでしょう。

 人目がある場所で“お姉様”と呼ぶのは、彼女にとっても不利益です」


「分析が早いのよ。……で、お前はどう感じた」


「“感じた”の定義を」


「やめようそのやり取り。嬉しかったか、困ったか、どっちだ」


少し考える。

踊り場の風、紙の温度、彼女の目の揺れ。

言葉を選ぶ。


「……困って、少し、嬉しかったと思います」


直哉の肩がわずかに下がった。

緊張が抜けると、代わりに照れが残るのが彼の仕様だ。


「そ、そうか。……そうだよな。

 お前のこと、ちゃんと見てるやつがいるのは、悪くない」


「直哉、照れています」


「照れてない!」


「声が大きいです。近所迷惑です」


「正論で刺すな!」


彼は咳払いを一つして、姿勢を整えた。

視線が紙から離れて、こちらに戻る。


「返事は、急がなくていい。

 相手を傷つけないように、でも自分を偽らないように。

 ……それだけ守ってくれれば、俺は何も言わない」


「了解しました。条件は二つ、ですね」


「条件って言い方やめようか。お願いで」


「了解。お願いは二つ、でした」


直哉は苦笑いして、肩をすくめた。

その顔を見て、胸の内側に温度が生まれる。

名付けにくい感覚。

“嬉しい”よりも、もう少し静かで、長く残る。


「夕食を作ります」


「助かる。俺、さっきまで詰めてたから腹減っててさ」


「では、あなたは座っていてください」


台所へ向かいかけて、足を止めた。

振り返る。直哉の目が、こちらを真っ直ぐに見ている。


「直哉さん」


「ん?」


「……噂は、騒音のようでした。

 でも今日は、違う音に聞こえました」


「違う音?」


「“私がここにいる”と知っている音。

 悪くないと思いました」


彼は一瞬、言葉を探してから、静かに笑った。


「そうか。……それなら、悪くない」


流しに水が落ちる音が、部屋に広がる。

紙はちゃぶ台の上に置かれたまま。

折り目は、やさしく閉じている。


その中に入っている言葉の重さを、

今夜は、確かめないでおく。

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