第2話
入部して以来、私の日常は雑用の連続だった。ロボットの部品やメモリ、フィラメントと呼ばれる3Dプリンターの素材、それからハリボーグミを先輩に運ぶ。それだけが、部活動時間を埋め尽くす。単調な繰り返しのはずなのに、不思議と倦むことはなかった。
「これと同じものを、もう二本。この前と同じ場所にあるはずだ」
「はい!」
先輩の作業は、私には到底理解できない領域にある。AIのプログラミングからライの組み立てまで、全てを一人で成し遂げているのだから、難解という言葉さえ生温い。
「あ、これも追加で」
「はい!」
先輩は優しい人だ。初対面の印象こそ威圧的だったけれど、あの日、切なげに視線を逸らした横顔を見て思った。この人は恐れているのだ、と。その直感は、おそらく正しかった。日を重ねるうちに、先輩は少しずつ心の扉を開いてくれた。警戒しながらも徐々に距離を詰めてくる犬のような仕草には、愛らしささえ感じる。部活以外で顔を合わせることはないけれど、いつか休日に会えたらと、密かに願うようになっていた。
ただ一つ、気になることがある。ライの傍らに置かれた写真立て。私がそれを覗き込もうとすると、先輩は必ず手で遮る。そしてその度に、あの寂しげな表情に戻るのだ。やがてその写真立ては、いつの間にか姿を消していた。
「あ!」
先輩が突然声を上げた。普段の彼にしては珍しい音量だ。
「次の指示は?」
「ハリボー、まだ残ってたよな?」
「あと三袋です」
「ああ……買い足さないと」
千載一遇の好機。私の中で、最高の閃きが弾けた。
「だったら放課後、一緒に買いに行きませんか?」
「う?」
思わず噴き出しそうになる。先輩のあんな間の抜けた声、初めて聞いた。
「あー、いや、うん、ああ、そうだな」
明らかに動揺して頭を掻く先輩の姿に、また可愛らしさを見出してしまう。ニヤニヤと観察する自分が、傍目には相当気味悪く映っているかもしれないが、止められない。
「ああ、全然構わない。ハリボーの買い出しは今日にして、同行を許可しよう」
「やった! 私の分も買ってくださいね」
「少しは、な」
先輩の笑顔が、以前より増えてきた気がする。
嵐も稲妻も寄せつけない、たった一つの輝く星に出会ったような心地だ。こんな感情は初めてだった。今この瞬間が、人生で最も愛おしい時間だと思えた。
その日の部活動も瞬く間に終わった。玄関で私は先輩に尋ねる。
「傘、持ってます?」
「持っているが?」
「え? なんて?」
「聞こえないのか? 隣にいるだろう。持っているが、と言った」
「ふふーん、私、今日忘れちゃったんですよ」
私たちは並んで立ち、激しく降り注ぐ雨を眺めていた。
「は? 午後から降るという予報だっただろう」
「ま、まあ、そうですねー」
「仕方ない。俺の傘に入ればいい」
実際には、朝から雨だった。傘を忘れたというのは、言うまでもなく嘘である。作戦は見事成功した。梅雨の季節。この瞬間をずっと待っていたのだ。
地面を打つ雨音と、水溜まりを蹴散らす車の音だけが響く。湿って冷たくなった両手で、私は先輩の傘を握る。同じ場所に、先輩の手もある。
「両手で持つ必要はないだろう。それに、そこは俺の手だ」
「いいんですよ」
「何が」
「先輩、握力弱いですから。私がサポートします」
「意味が分からん」
白昼なのに薄暗い街を、私たちは歩いていく。それは、先輩が私の中でどんな存在になりつつあるのか、静かに気づいていく時間だった。
「着いた! もう、制服びしょびしょ」
「斜めに降られたら傘も無力だからな」
近所のスーパーに辿り着いた私たちは、菓子売り場へ直行し、ハリボーグミを物色する。
「先輩、これ」
先輩のカゴへ、私はコーラ味を滑り込ませる。入部前から、最も好きなグミはコーラ味だった。
「君は本当にそれが好きだな」
「先輩は?」
「じゃあ俺も、コーラで」
妙だ。いつも先輩は、色とりどりの味が入った定番のハリボーばかり選ぶのに。
「君が好きなら、久々に味わっておこうと思ってな」
「本当ですか!」
嬉しかった。これ以上ない温もりが胸を満たした。時間が蜜のように溶けて、そのまま静かに消えていくようだった。
先輩と親しくなってから、変化があった。ロボット工学やAI技術に、少しずつ興味が湧いてきたのだ。やがて先輩から借りたロボット工学の入門書やSF小説を読むようにもなった。具体的な知識はまだ手に余るけれど、AIロボットとは何かについて、深く思索するようになっていた。
間もなくライは起動テストの段階を迎える。先輩が一年をかけて注いだ情熱の結晶を、この目で見届けられることが、何よりも誇らしい。
先日、ライがAIロボット部の出し物として文化祭でステージショーを披露することが正式決定した。先輩は単なる自己満足としてライを製作していたらしいが、私が実行委員会に掛け合い、なんとか枠を獲得したのだ。せっかくアイドルロボットとして誕生するのに、誰の目にも触れず埋もれてしまうのは、あまりに哀れに思えたから。
先輩は当初、この提案に難色を示していた。目立ちたくないのか、単純に自信がないのか。理由は定かでないが、明らかに拒絶していた。それでも私は引き下がらなかった。「自分には何もない」と言っていた先輩と、同じように生きている実感が曖昧な私が、確かにこの部活で活動していたという証を、全校生徒の記憶に刻み込みたかった。学校の記録として残すことで、私たち自身の存在を証明したかったのだ。
そして時は流れ、雨季が陽光へと転じた放課後、私たちはついにライの初回起動テストを実施する。
「ライシステム、起動中」
ライの瞼が、人間の目覚めと同じように、ゆっくりと開いていく。
「成功ですか?」
「まだだ。エラーが出るかもしれない」
そして、ついにその瞬間が訪れた。
「ハロー! ワタシ、ライ! アイドルをするために生まれたAIロボットだよ! 目と耳の役割をするセンサーと、ライブレインっていうシステムで、自分で考えながら歌ったり踊ったりするよ! これからよろしくね!」
LEDの桃色の瞳が輝き、第二理科室の机に腰掛けたまま上目遣いでこちらを見つめる。
「先輩! これって」
「とりあえず起動は成功した。よろしく、ライ」
「はい! えっと、コウ! さん?」
「さん付けは不要だ」
「分かった! よろしく、コウ」
愛らしい合成音声が、先輩の名前を呼んだ。
「そして、隣の人は?」
「アミです。私も敬称なしで。よろしくね」
「アミ! よろしく!」
ライは頷き、こちらへ手を振る。関節部品が微かに軋む音が聞こえた。
「よし、こちらの声に反応して、会話も成立している。完璧だ」
この日、ライは私たちの世界に目覚めた。ライは機械学習システム、音声合成システム、音声対話プログラムを搭載した自律型AIロボットである。この世界に関する基礎知識と、歌唱・舞踊に関する専門技術が予めインプットされているという。歌と踊りに関しては、プロの人間と遜色ないレベルまで到達できる見込みだそうだ。
「アミ、これからの我々の仕事は、ライのアップデートと細部の改良が主になる。正直に言って、今後の作業に君が直接介入できる余地はない。だが、ここまで辿り着けたのは君のおかげだ。本当にありがとう」
「こちらこそ!」
先輩は笑って、私にハリボーを一つ手渡してくれた。緑色だった。
その後の自立歩行テストで、ライはようやく机から降り、自らの足で立ち上がった。だが、そこまでは順調だった。
「ライ!」
歩き出した瞬間、ライはその場に崩れ落ちようとした。しかし先輩が素早く抱きとめ、床への激突は回避された。まるで棒切れのように無抵抗に倒れる様は、どこかシュールで、観る者に一抹の不安を与えた。
「なるほど。やはり姿勢制御システムに問題があるか」
抱擁されるライ。先輩はライの顔を見つめ、安堵と慈愛が混じった、今まで見たことのない優しい表情を浮かべ、その頬をそっと撫でた。念願の完成まで、あと僅か。その感動の深さは、私には計り知れない。
しかし時間は残酷だ。夏休みまであと一週間、文化祭まであと一ヶ月半。ライには歩行と自立の安定性以外にも、まだ課題が山積している。文化祭に間に合うのか、今になって不安が募ってきた。
「先輩、本当に文化祭、大丈夫でしょうか?」
先輩は、ライを机にもたれかからせるように床へ座らせ、こう答えた。
「安心しろ。当初から文化祭での披露は想定して計画を組んである。もっとも、君が来るまではほぼ諦めていたがな。だが大丈夫だ。このライは、機械学習しながら自動的に改良されていく。プログラミングと組み立てに時間を費やしたのは、そのためだ」
先輩は用意周到な人だった。今回も例外ではない。
「ということは、後はライが自己改善していくわけですか?」
「まあ、そういうことになるな」
起動テストの日以降、私の役割は激減した。先輩の言う通り、これからの任務はライの自律的なアップデート作業の補助であり、私が直接関与する余地はない。それでも私は放課後の部活動に通い続けた。日々進化するライと、先輩に会いたい。ただそれだけを支えに。
そして、永劫にも感じられた試験期間が終わり、授業も終了した。
「暑い。冷房、冷房」
窓の外の景色は、鮮烈に揺らめいている。
廊下からは、意外にも人の気配がしない。
蝉の鳴き声がハウリングするかのように耳朶を打つ。
私は冷房をつけ、思わず設定温度を下げるボタンを連打する。これが見つかったら先生は激怒するだろう。それこそ必要以上というほどに。
「ライ、おはよう」
私は制服姿のまま、第二理科室——つまり部室にいる。夏休み初日の朝だというのに。
この日に訪れた理由は、昨夜先輩がアップデートしたというライの音声対話機能を試してみたかったから。純粋な好奇心だ。
わざわざ朝に来たのは、先輩が極度の夜型人間だからである。今の時間なら私とライだけの空間が保証されるのだ。
「あ、アミ! おはよー」
ライのスリープモードを解除すると、机に座る彼女は、即座に私を視認する。
「今日も暑いねー。朝なのに」
「ワタシ、温度を感じる機能、ないんだよねー。だけど、アミ、すごく暑そう! 水分補給はしっかりね!」
ライとは、人間と同じように自然な調子で会話できる感覚があった。先輩がいる時は、ライはずっとスリープ状態でプログラムの修正を受けているため、会話する機会がほとんどなかったが、これからは良き友人になれそうだ。
「ねぇアミ、突然だけど、質問していい?」
「なに?」
「アミって、ハリボーグミ好き?」
ライが私たちの常食するハリボーグミを知っている。昨夜のアップデートの成果だろうか。
「好きだよ」
「コウとよく食べる?」
「うん、一緒に食べてる」
「そっか! でも、それって」
壁掛け時計の秒針が、時を刻む音が響く。ライは、座ったまま足をバタバタさせて、こう言った。
「マリだった頃のワタシとそっくりだね」
それは、風のようにさらりとした口調だった。同時に釘のように、鋭い攻撃力を持つ言葉だった。その瞬間だけ、世界が静止したように感じられた。
「えっ」
マリって、誰。
マリだった頃って、何。
秒針がまた一つ、時を刻んだ。
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