第13話 風の帯(ユハ、初めての空)

 朝の白は薄く、音は遠く、匂いは透きとおっていた。

 札はからりと一度だけ鳴り、前庭の輪に細い風の帯が置かれる。今日の輪は少し広い。育つ日の輪だ。


 屋根の縁にはアカアサ。黒紅の翼は半ばの角度で止まり、風の層を測るように目を細めている。庭の端ではカイが尻尾でこつ、こつと地面を叩き、前脚の包帯はもう薄い。輪の内側、切り株の先の細枝に止まっているのが、名をもらった幼鳥——ユハだ。胸の羽は軽く、風が触るたびにはらりと波が立つ。


「今日は、跳ねるところからだ。」


 遙馬は枝を見上げ、ユハに言う。ユハは首をかしげ、丸い金の目で遙馬と、輪と、空の順に見る。落ちるのを上手にすることはできる。けれど、今日はそれより半歩だけ先へ。


 遙馬は前庭の輪の内側、地面に細い浅い溝を一本引いた。線は切り株の先端から、低い杭の方へ向かっている。杭には布が巻いてある。柔らかい止まり木。高さはユハの枝より、腕半分ほど低い。


「風の帯は、ここからここへ流れてる。押さないで、受けるだけ。」


 指先で空気をすっと撫でる。受けどころを作る仕草。

 アカアサの喉がコロルと鳴き、翼の縁がわずかに角度を変える。風が線の上で薄く強くなった。


 ユハは枝の上で足を踏みかえ、胸を小さく膨らませた。

 とん。

 空気に、置くように一度跳ねる。

 足の裏が風を掴み損ね、とすと枝に戻る。驚かない。もう一度。

 とん。

 今度は胸を先に出す。風が胸の下でふわと膨らみ、体が軽くなる。

 ユハは小さく鳴いた。ルル。

 気づいた声だ。


「胸を先に。尻は置いとく。……そうだ、いい。」


 遙馬は手の平で空気を掬う。掬って捨てない。置く。

 カイが輪の外から見ている。尻尾はくい…くい…と慎重に揺れ、やがてばんと一打。できたという合図。


 ユハは三度目で杭に乗った。胸が誇らしく張り、喉がルル、ルと細く鳴る。

 アカアサは屋根の上で、翼をわずかに開いた。肯定の羽。

 遙馬は笑い、杭の高さを手の幅だけ上げた。



 午前のうち、練習は跳ねるから滑るへ移った。

 遙馬は切り株から杭へ、杭から壁際の細い棒へと、風の帯を並べる。帯はまっすぐではない。曲がっている。風は曲がる。曲がるものに合わせるのが早い。


 ユハは帯の上で胸を先に出し、腹の下でふわと受け、尻をあとに置く。落ちるのではない。置きに行く。

 うまくいった時は鳴く。ルル。

 うまくいかない時は脚の先がすこし震える。遙馬は褒めない。叱らない。待つ。ユハが自分でもう一度やる。


「もう一段、行こう。」


 遙馬は小屋際の梁から梁へ細紐を渡し、そこに薄布をはためかせた。薄布が揺れるたび、風の帯が細く濃くなる。ユハは布の動きに合わせ、跳ねて、滑って、すこしだけ長い距離を置き続けた。


 カイは輪の外で、見守ることそのものを覚えていく。自分も跳ねたい顔をして尻尾をくいと抑え、代わりに飛ぶ虫をぱくと捕まえてはばんっと地を叩く。俺も働いているの合図。

 アカアサはあいかわらず屋根。見張りと教えの両方を同じ立ち姿でやる。翼で押さない。目で押さない。風で示すだけ。



 昼前、雲が薄くかかった。森の温度が一段落とされ、風の帯は少し下へ降りる。アカアサが屋根の端から降り、輪の北に立った。通す/戻すの門の立ち方。

 遙馬は井戸から水を汲み、器を三つ、台に並べる。人の皿には野草のスープ、カイの皿には薄い肉の粥、アカアサの器には新しい水。

 ユハには——半分に割った木の実。殻は薄く、内側は柔らかい。嘴で割る練習だ。ユハは実をつつ、こつ、ぱりと割って、舌でぺろと味を見る。おいしいと知ると、喉がルと鳴った。


「午後は、外だ。」


 遙馬が言うと、精霊の輪がからりと鳴いた。

 カイは皿を空にすると輪の外でおすわりをした。瞳は行くと語る。

 遙馬は包帯に指をとんと置く。カイは尻尾をくい…くい…と自分で抑え、輪の内に座り直した。わかっているという選び方。



 午後。

 森の中腹。小屋から少し離れた、風のとおり道。

 斜面は浅く、木々は高いが間隔がある。地面には落葉が厚く敷かれていて、転んでも怪我はしにくい。ここは、アカアサがよく朝に立ち風を読んでいた場所だ。


 遙馬は枝の高さを確かめ、二本を選んだ。低い枝と、その先にある少し高い枝。間に空気の帯が細く渡っている。


「ここから、ここへ。……三度まで。三度できたら帰る。今日はそれで十分だ。」


 ユハは低い枝にとんと乗った。胸は張っているが、足の指は弱い。張りすぎないよう、遙馬は呼吸で帯を薄くする。

 アカアサが輪の外側——つまり斜面の下手へ回り、面をつくる。落ちてもいい。でも落ちない。落ちても、落ち切らせないための面だ。


 ユハは一度、二度、胸で風を触り、とん。

 ふわ。

 帯の上で、置く。

 高い方の枝へ届いた。


 喉がルルと鳴る。成功の音。

 遙馬は褒めない。指先で空気をひと撫でするだけ。二度目も同じ。

 とん、ふわ、置く。

 届いた。

 アカアサは翼の縁を一度だけ返した。見ているという印。


「三度目で帰る。……ユハ、今日はここまでだぞ。」


 遙馬が言い終える前に、風が変わった。

 上の枝の先でざわと葉が鳴り、帯が細く千切れた。雲が少し厚くなり、冷えた風が斜面の上から下へ押し込んでくる。


「待て——」


 ユハは行った。

 胸はよく出た。が、帯はそこにいなかった。

 空白。

 体は思ったより重い。

 指が枝の縁をすべり、体は浅く落ちた。


 遙馬は走らない。

 走らないと、体の底で決めた。

 走るより、置くのが早い。


「アカアサ。」


 アカアサは面を広げ、翼をわずかに傾けた。

 風が、ユハと地面の間に薄い帯を一枚差し込む。

 押さない。支えすぎない。

 ユハの胸の下に、風の受けだけを作る。


「ユハ。胸を、先に。」


 遙馬の声は低い。怒鳴らない。怖がらせない。

 ユハは喉でルと短く鳴き、胸を出した。

 ふわ。

 風が受ける。

 体の落ちが遅くなる。

 ユハは置きどころを見つけ、翼(まだ短い)をほんの少し使った。

 落ち切る前に、斜面の柔らかい場所へ置かれた。


 カイが輪の外から二歩だけ出た。遙馬が視線で戻す。カイは尻尾を**くい…くい…**と抑え、こつと一打ち、座り直した。わかっている。


 ユハは立ち、羽をぶると震わせ、胸を張り直した。

 アカアサは一度だけ喉を鳴らし、よくやったの音を置く。

 遙馬は、膝が少し笑っているのを自覚しながら笑った。怖かった。でも、怖さを押さずにいられた。


「三度目はまた明日だ。……帰ろう。」


 ユハは低い枝に戻り、とんと跳ねて、遙馬の肩の高さの杭へ。そこで一度誇らしく鳴き、翼の縁で遙馬の頬をそっと撫でた。帰ろうの合図。



 帰途。

 森の中腹から前庭まで、風の帯は細く太く表情を変える。道は一つではない。選び続けること自体が、帰るという行為の中身だ。

 札はからりと鳴って迎え、精霊は湯気の上でくると回り、カイは輪の内側からぱっと立って、遙馬の膝に額を当てた。尻尾はばんっ。


「ただいま。」


 遙馬は息で笑い、鍋を火にかける。野草と薄い肉と穀の粒。塩は少なく、香草は指でこすって香りだけを。ユハには木の実と、砕いた穀の柔い粥をほんの少し。

 アカアサは器の水を一口だけ飲み、屋根の縁で見張りの立ち姿に戻る。


 スープの湯気が前庭の輪を白く満たす。

 遙馬は木の台に皿を三つ、一つの器を置く。カイは待つ。ユハは匂いを嗅ぎ、ぺろと舌先で味を見、こくこくと食べる。

 遙馬はスプーンを口に運び、喉が落ち着くのを確かめ、火に小枝を一本足した。


「……生きてていい。」


 言葉は小さい。

 けれど輪はそれで十分だった。

 札がからりと鳴り、風が輪の内と外を静かに行き来する。

 アカアサが羽の縁で遙馬の肩をそっと触れ、ユハが喉でルと鳴き、カイが尻尾でこつと石を叩いた。



 夕方。

 村の女衆が約束どおり水路の筋を見に来た。境で止まり、帽子のつばをちょいと触る礼。声は高くない。輪をあやめない高さ。


「ここ、昨日より流れが素直だ。……“押さずに置き直す”ってのは、本当に効くね。」


「森が、そうしろと言っている。」


 遙馬が言うと、女衆は小さく笑う。

 いい。森に通じるものを言葉にした者は、森の側にも残る。

 彼女は札に目をやり、ユハを見て、カイを見て、アカアサの見張りを見る。敵ではないし、うちでもないし、うちにしたくなるという顔。


「明日、長が来る。大声は出さん。輪は守る。」


「ありがとう。」


 挨拶は短く、足音は浅く、森に溶けた。



 夜。

 火は高くないが、温かい。

 ユハは切り株の上で身づくろいをし、カイは遙馬の足元でころんと丸くなる。アカアサは屋根の縁で星のない空を一枚守る。精霊は火の上でくると回り、札は時々からりと鳴る。

 森の奥から、重い呼吸が一度だけ渡ってきた。昨日の神獣位相だろうか。見に来る、名を読む、押さない、裁かない。

 遙馬は立ち姿を変えない。居るという返事だけを風に置く。

 気配は、うんと頷いて戻った。


 ユハが、火の光にあくびを落とし、喉でルと鳴いた。今日、空で落ちかけたときの空白が、胸の奥で音に変わったのだろう。怖さは消えない。消えなくていい。押さないで、一緒に置き直せばいい。


「明日もやろう。三度目は、明日でいい。」


 遙馬は火に小枝をもう一本足し、スープの鍋に布をかけて火からのける。

 アカアサの羽の縁が、遙馬の肩をそっと触れた。

 それでいい、という合図。


 輪は灯りを受け取り、札は静かに揺れて、風の字を読む。

 帰るという行為が、音もなく濃くなる。

 ユハの眠りは浅く、けれど深い。

 カイの寝息は規則正しく、尻尾は夢の中でこつこつと地面を打つ。

 黒い翼は夜を一枚守り、朝はまた、湯気みたいにやわらかく始まるだろう。


 ——生きていて、いい。

 ——一緒にいて、いい。

 その二つを、風が何度でも輪の中に置いていく。


 夜が深くなるほど、森の音は薄くなる。

 梢の影は風の層ごとに揺れ方を変え、霧は地表の低いところからゆっくりと降りてきた。


 遙馬は小屋の前で、火の残りを見ていた。

 炎はもう形ではなく、温度だけが残っている。

 薪を足さない。消やしもしない。終わりにする火の扱いだ。


 ユハは切り株の上で丸くなり、胸の羽をふわと膨らませて眠っていた。

 眠りは浅いが、怯えてはいない。

 途中で一度だけ、夢の中で翼を使おうとして、肩の羽がぴくと動いた。


「……怖かったよな。」


 声は喉の奥の温度で置く。

 カイがその声の低さだけで目を開け、遙馬の膝に額を押しつけた。

 よかった、帰ってきた。

 そういう仕草。


「でも、お前は自分で戻ってきた。……それが大事なんだ。」


 カイは尻尾をばんと一度だけ叩いた。

 遙馬は頭を撫でない。撫でたいが、撫でない。

 代わりに、呼吸だけ合わせた。


 屋根の上。

 アカアサが、夜空を一枚守るみたいな姿勢のまま動かない。

 眠りではない。

 見張りでもない。

 森と輪の境界に、ただ「居る」という形。


 その在り方は、

 遙馬が街で一度も見たことがなかったものだった。



 ——夜がほどけ、空の端が白む。


 朝は、光より先に匂いが来る。

 湿った土の上で、夜露がひらく匂い。

 次に、葉の裏にとどいていた風が戻る音。

 そしてようやく、青が空の底から上がってくる。


 札がからりと一度鳴いた。

 風が輪の内側を撫でる。


 最初に目を開けたのはカイ。

 次に、ユハが胸を丸く伸ばしてふわと羽を震わせる。

 そして、アカアサが屋根から静かに降りた。


 遙馬はまだ眠っていなかった。

 眠れなかったのではなく、

 離したくなかったのだ。


「……おはよう。」


 その一言に、三つの返事が返る。


 カイは尻尾のこつこつ。

 ユハは喉のルル。

アカアサは翼の縁がす、と小さく揺れる。


 言葉じゃない。

 でも、すべて分かる。


 ——今日もいる。

 ——今日も、生きている。

 ——ここに、帰ってきて良い。



「今日は……風がいい日だ。」


 遙馬が言うと、アカアサはその場で翼を広げなかった。

 代わりに、ユハの横に並んで立った。


 昨日までは、

 「教える立ち位置」にいた。


 けれど、今は違う。


 共に行く立ち位置だった。


 ユハは胸を張り、

 昨日より一段だけ大きい鳴き声で、

 喉を響かせた。


「ル——!」


「……行こうか。」


 遙馬は輪の中に一歩入る。

 カイは輪の外で、今日も見守る立ち位置。

 札がからりと二度鳴いた。


 風が、昨日より広い帯を置いた。


 ——飛ぶ日はまた来る。

 ——それは今日じゃなくてもいい。

——でも、行ける日は確かに近い。


 遙馬はそう思いながら、火に水を注いだ。

 湯気が朝の光をやわらかく広げ、

 ユハの羽を白く縁取った。


 生きていていい。

 ここにいていい。

 その言葉は、声ではなく、温度で輪に残された。


 新しい一日が、ゆっくり始まった。

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