第12話 名前をあげる(朝の光)
朝は、湯気みたいにやわらかく始まった。
夜露を含んだ空気は甘く、窓枠の木肌に白い光がすべる。小屋の戸口を押し開けると、冷えた朝の匂いの底に、昨夜の焚き火の名残がほんのわずか混ざっていた。
屋根の縁にはアカアサ。黒紅の翼を半ばゆるめ、東の空を測るみたいに目を細めて立っている。庭の端では、白い仔狼が丸まって眠っていた。包帯はまだ新しい。寝息は浅くも深くもなく、いまは安全だと体が覚えているときのリズムだった。
「おはよう。」
声を落とすと、屋根からコロルと短い返事。仔狼の耳がぴくりと動き、尻尾がこつ、こつと土を叩いた。目はまだ閉じているのに、尻尾だけが先に朝を受け取っている。
湯をわかし、干し肉を極薄に裂いて、昨夜よりさらに細かく刻む。野草はえぐみの少ないものを選ぶ。塩はひとかけらだけ、香草は指先でこすって香りだけを移す。人の皿、仔の皿、そしてアカアサの器には井戸から新しい水。湯気が縁から立ち上り、風の精霊がからりと音を立てて輪になる。
火の上で湯気をかすめた精霊たちは、そのまま庭の前庭(まえにわ)に一本の薄い風の線を置いた。ここが朝の輪。眠りから日へ移るための、やさしい境。
「起きるか。」
戸口の影を浅く揺らすと、仔狼がまぶたを上げた。金とも琥珀ともつかない瞳が、光に細くなる。遙馬の顔を見つけ、皿を見て、また遙馬を見た。食べていいかの問いを、毎回ちゃんとする子だ。
「いいよ。熱いから、端からな。」
仔は皿に鼻を近づけ、まず匂いを嗅ぎ、舌の先でぺろとひとなめ。問題ないとわかると、こくこくと静かに食べ始めた。尻尾はこつこつ、誇らしげな角度を保ち、小さな肩が素直に上下する。
遙馬は自分の皿を手に、切り株に腰をおろした。背の面が自然に下がる。火の音と風の薄い帯が、朝の空気の中で同じ拍を刻む。屋根のアカアサが、胸を小さく膨らませる見張りの姿勢をとった。威嚇ではない。ただ、ここが巣であるという立ち姿。
「……名前を、あげようと思う。」
遙馬が言うと、精霊の輪が一度だけきらと明るくなる。仔狼は口を止め、遙馬の目をじっと見た。小屋の木目に朝の光が深く入り、アカアサが喉の奥で低くコロルと鳴いた。聞いているという印。
「急がないつもりだった。けど、呼びたい時に呼べる名前があると、安心する夜がある。……それに、帰ってくる場所の呼び名でもあるから。」
遙馬は庭土に指で丸を描いた。昨夜の前庭より少し広い輪。輪の東の端に、拾った白い小石をことりと置く。日の入る側に灯りの種を置くのは、森で学んだ作法だ。命を押さえる印ではなく、道の目印にするための石。
「カイ、って呼ぼうと思う。」
仔狼の耳がぴんと立ち、尻尾がばん、ばんと二度強く地を打つ。
遙馬は声の低いところで、もう一度だけ言った。
「カイ。」
仔は一歩、輪の中へ踏み出す。遙馬の足元へ来て、胸を張り、目をまっすぐに上げた。そうだ、その音が欲しかったという顔。
遙馬は笑って、指先で額の毛を軽く梳(す)く。撫ですぎない。触れすぎない。でも、確かにそこにいる印を残す。
「帰ってこい、のカイ。還る、界、解(ほど)ける、のカイ。ここはお前の“帰る”だ。……いいか?」
カイは小さくくぅと鳴き、尻尾をこつこつと三度打つ。
精霊がからりと鳴った。風の線が輪の内側にもう一本、細く敷かれる。屋根のアカアサが翼を一度だけわずかに開き、朝の白い光を羽の縁に受けた。その仕草は、うんと頷くのと同じ意味だった。
遙馬は切り株の横に置いておいた小さな木片を手に取る。昨夜のうちに刃を通して薄く整えたものだ。首輪に通す板ではない。門柱のない門の札にする。押すための印ではなく、迎えるための印。
先端に穴を開け、麻紐を通し、札の面にカイと刻む。刃を走らせる音に、カイは首をかしげ、尻尾をくい…くい…と控えめに揺らした。遙馬は角を丸くし、木屑を指で払い、札に息をふっとかける。木は息で目を覚ます。
「これは門の札。お前に掛けるものじゃない。前庭の輪の石の上に下げる。帰って来たいとき、風に読ませる目印だ。」
札を輪の石の上の細枝にからんと下げると、風の帯が札の周りを一度回り、音のない鈴のように震えた。
カイは輪の内側でくるりと回り、前脚がまだ痛いのを思い出してそろりと座った。遙馬が包帯を確認すると、腫れは昨夜より引いている。熱も落ちた。今日も走らせない。いっしょにゆっくり歩く日だ。
朝餉を片付けると、村の若者が前庭の外で足を止めた。昨日と同じく、境をまたがない。影の形だけが挨拶をする。
「おはようございます。長から、今日の午下がりに水路の話で、また……」
「うん。大声は、なしで頼む。」
「はい。」
短く、浅く、礼の角度は低いが、尊重の匂いは確かにある。
遙馬は鍬を軽く持ち上げて応え、若者の足音が森へ溶けるのを待って、畑へ向かった。アカアサが屋根から降り、いつもの同じ歩幅で横に並ぶ。カイは畝の外をとことこついてくる。精霊たちは畝の形に沿ってゆっくり帯を引き、種をまく位置に淡い印を落としていく。
「今日は水の筋を一本つなごう。大雨で畑が流れないように。」
鍬で押して割るのではなく、持ち上げて空気を足す。土は驚かない。呼吸を広げる。側溝の始まりに石を並べ、流れを試す。アカアサが庭の端からころりと丸い石を運び、カイがその陰にいた虫をぱくと食べ、胸を張って遙馬を見る。
遙馬は親指を立てた。カイは尻尾でばんっと地面を強く一打ち。やったぞという合図。アカアサが屋根の上でコロルと短く鳴き、俺も見ていたという音を置く。
午前が深くなった頃、森の内側の温度がひとつ上がった。見に来る気配だ。姿はない。音も踏まない。けれど、空気の層がうすく厚く重なり、前庭の輪の外で一度だけ止まる。
神獣位相。昨日の夜に通りかかったあの重い呼吸の持ち主か、あるいは別の層だ。
遙馬は立ち姿を変えない。鍬の柄を地に置き、背の面だけを起こす。押さない返答。アカアサは翼の縁をすこし開き、カイは尻尾をくい…くい…と控えめに揺らしながら、輪の内側に座った。
気配は、うんと頷くみたいに風を一度止め、札をひと撫でし、また流れへ戻った。
札がからりと鳴る。名前は、受け取られた。
昼、長の使いが来た。年寄りの猟兵頭ガランではなく、川筋を知る女衆のひとりだった。境で止まり、帽子を脱いでから話す。
尊重は、声の高さに出る。彼女の声は高すぎず、低すぎず、前庭の輪を乱さない側で柔らかく曲がった。
「上手に筋を切ったな。……その石の置き方、誰に習った?」
「森が教えた。」
遙馬が言うと、彼女は口の端で笑った。いい返事だと認める笑いだ。
「村の水路も、押さずに置き直すだけで通るかもしれん。午後、見てくれるか。」
「もちろん。大声はなしでな。」
彼女は頷き、札と輪に視線を落とし、カイに目を細めた。かわいいの代わりに、帽子のつばを軽く触って礼をする。村の言葉での**“うちの側でもないが敵でもない”のしるし。
カイは耳をぴんと立て、尻尾をこつこつ**二打。遙馬は笑って、彼女が森に溶けるのを見送った。
「行ってくる。留守番頼む。」
遙馬がアカアサに言うと、アカアサは面をつくって庭の北に立つ。通す/戻すの門の立ち方。
カイは行く顔をして立ち上がったが、遙馬が包帯を指でとんと触れると、くい…くい…と尻尾を揺らし、輪の内側に座り直した。わかっているという選び方。
村の水路は、山肌の浅い皺をなぞるだけで息を吹き返した。押して堀り直すより、流れの行き先を思い出させるほうが早い。声を荒げず、土を驚かせず、石を置き直すだけ。午後の短い時間で、溜まりかけていた濁りがすうと澄む。
村の衆は歓声を上げなかった。前庭の輪の教えをここでも守ったのだ。かわりに、手拭いで額をぬぐい、首を一つ縦に振った。ありがとうの形は、静かでも十分伝わる。
戻ると、前庭の札はからりと鳴り、アカアサは屋根で影を長くしていた。カイは輪の内側で寝ていたが、遙馬の足音で耳を立て、ぱっと顔を上げた。尻尾はばんっ。
遙馬が輪をまたぐ前、カイは立ち上がって一歩だけ輪の外に出た。前脚はまだ気をつけながら。迎えに出るのだ。遙馬は輪の石の脇で膝を落とし、額をこつんとカイの額に当てる。
言葉にならない。けれど、言っている。ただいま、おかえり、いた、いる、の全部。
夕暮れは、静かに深かった。
鍋で煮たスープは朝より少し濃く、だが塩は強くしない。今日の働きは、明日の体に返す。カイの皿はさらに薄く、肉はもっと細かく、温度はまだ低い。アカアサの器に新しい水を満たすと、アカアサは喉を一度だけ鳴らしてから、森の東の端を見た。
精霊たちは火の上でくると回り、輪の縁で小さな灯りになった。灯りに寄る虫をカイがぱくと食べ、誇らしげに尻尾をばんっ。遙馬が親指を立てると、カイは胸を張って座り直し、器用に前脚を折って小さく丸まる。寝床の作り方をもう学び始めている。
火がぱちと鳴り、札がからりと応える。
遙馬は切り株に背を預け、空を見上げた。
この村はまだ、地図に載らない。門も柵も名前もない。けれど、札があり、輪があり、帰る音がある。
カイと呼べば、カイが来る。
アカアサと呼ばずとも、アカアサはそこにいる。
風は輪の内と外を行き来し、森はうんと頷く。
「……生きてていい。」
遙馬が小さく言うと、アカアサが羽の縁で肩をそっと触れ、カイが寝息の途中でくうと鳴いた。
夜は押し寄せない。置かれるだけだ。前庭の輪は灯りを受け取り、札は静かに揺れて、風の字を読む。
明日の朝も、ここに朝が来る。
カイの名前はその朝を呼ぶ。
名前は、帰ってきていいの合図だ。
遙馬は目を閉じる。
眠りは浅く、けれど深かった。
屋根の上の黒い翼は、星のない夜を一枚守り、輪の内側で白い体は小さく丸くなって、静かな鼓動を刻んだ。
森の夜は、長く、やわらかく続いた。
札は時々からりと鳴り、そのたびに、ここが家だという事実だけが、音もなく濃くなっていった。
森の光が淡い。
夜と朝の境のほうが、声は遠くまで通る。
アカアサの子が、枝の上でこちらを見ていた。
胸の羽はまだふわふわと軽く、風を受けるたびにはらりと揺れる。
親の影の中で眠っていた小さな影が、今日は自分の足で立っている。
「……お前にも、呼ぶ名前を置きたい。」
遙馬が言うと、アカアサは目を細めた。
否定ではない。
ただ、どう呼ぶのか聞くという姿勢。
前庭に輪を描く。
昨日より少し小さな輪。
石はひとつ。カイのときよりも、角のまるい石を選ぶ。
強く守るより、寄り添うための石だ。
「急に決めるわけじゃない。
呼んだとき、お前が嬉しい音がいい。」
幼鳥は枝からとんと飛び降りた。
翼はまだ短く、飛ぶというより、落ちるのを上手にする。
それでも、その着地は誇らしかった。
カイが輪の外からじっと見る。
アカアサは、風の線の外で影の門を作る。
見守るという形。
遙馬は息をひとつ整えた。
火の精霊がからりと応える。
「——ユハ。」
幼鳥が、はっと目を開いた。
そして、遙馬の方へ一歩。
その足音は、枝葉の鳴きでも、土の沈みでもなく。
ただ、自分で選んだ一歩の重み。
「ユハ。
羽が寄り添うときの音。
帰る場所で、また羽を並べるときの音。
……ここに居ていい名前だ。」
幼鳥は胸を張った。
アカアサが、静かに翼を少し広げた。
肯定の羽。
カイが輪の内に入った。
幼鳥に鼻を近づけ、そっと額をこつりと合わせる。
仲間として受け入れる音だった。
「これから、帰ってこい。
空へ行っても。
獣道を歩いても。
名前が、お前を連れて帰る。」
風が輪の中を通り、
札がからりと鳴った。
家族が、ひとつ増えた音だった。
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