第十二章 アリアン・クラレスの実像(後編)

「アロン! 安心して、だいじょうぶだから、わたしが助けるから!」


 父親をかかえたソーラが、おぼつかない足取りで白い斜面をおり、近づいてくる。

 僕はアリアンの虚像で作られたソーラの「助けに来たわよ、アロン!」という第一声について「ソーラっぽくない」と言った。でも、その認識も間違いだったのかもしれない。本当のところ僕は、彼女のことを理解していなかった。


 彼女は強いだけでなく、優しかった。

 アリアンのほうが、よほど彼女のことをわかっていたのだ。考えてみれば当然だ。彼は、ソーラの父親なのだから。


 紫と緑の交ざったセミロングの髪が、僕の視界のなかで大きくなる。きらめく二つの赤い瞳も。それらをふちどる長いまつげと整った眉は、ソーラが新しくかぶったケイルさんの遺髪に合わせ、同じ二色に染まっていた。


 あとは、アリアンから虹巻紙を返してもらって、一件落着。

 そう僕が思った次の瞬間。


 ソーラが倒れた。


 ただし前方には倒れなかった。受け身をとるように、横にくずおれた。斜面を転がらず、踏みとどまった。腹部にかかえられている父親は無事だった。


 彼女の右半身を受け止めた傾斜の白い表面が、衝撃を吸収しきれず、飛び散った。

 立ち上がるたび彼女は、あえぎ声と悲鳴を交互に連続させ、何度もひざをついた。その都度、彼女の左目が、まるで歯を食いしばるように、ぐっと強く、とじられた。


「だめ、いや。やめなさい。鎮まって、お願い。命令しないから」


 たった今、彼女が苦しそうにしている原因として考えられるのは、ただ一つ。

 破滅魔法だ。ソーラはケイルさんの遺髪を受け継いで即座に破滅の力の制御に成功した。この事実に、遺髪に宿った破滅魔法自体が反発し、彼女を抑え付けようとしている。

 アリアンは「今のところ破滅は徐々に蓄積される状態」であり「一日程度なら害はない」と言っていたが、もはやそんな状態には見えない。破滅の力そのものが、なりふり構わずソーラへの抵抗を始めたのである。


「は、つ」


 そう唱えても、ケイルさんの遺髪はソーラの頭に載ったまま、切り替わらなかった。


「アロン、逃げ。いや、そんな状況じゃない。わたしが、生かすの」


 彼女がひざをつくたび、足下のかたまりに亀裂が走る。そこから、固体と液体の中間くらいの物質が、涙のように漏れて流れる。


「あなたは全身全霊で頑張った。自分のためであろうと、そうでなかろうと、どっちだっていい。ただ、わたしのそばにそんな人がいただけでわたし自身も頑張れた」


 次の瞬間、ソーラの足場の斜面が溶けた。

 それを皮切りに、僕たちのいる白いかたまりの山そのものが、くずれだす。


 さきほどまで声が出なかったはずなのに、僕はそのとき、かすれた声でさけんでいた。


「ソーラ、僕も君がいたから頑張れた! 僕も君を生かしたい!」


 彼女を中心として、破滅魔法が周囲に影響をおよぼし始めた。かたまりが急速にもろくなる。

 僕は僕を飲んでいたかたまりを全身で突き破り、斜面を駆け上がり、ソーラに向かって両手を伸ばした。


 視界の斜め上で、父親をかかえたソーラが、崩壊する足場を蹴って僕のもとに飛ぶ。


 こうして、僕とソーラは――。

 互いの肌にふれることなく、引き離された。


 というのも左右の手がふさがっている彼女が僕の両腕に飛び込む直前において。

 ソーラの体が父親もろとも一気に、強い重力に引っ張られるかのように、背中から急速に沈み込んだのだ。白いかたまりをゼリーみたいに飛び散らせ、真下に穴をあけていく。


 空をつかんだ僕の手に、上から、がれきがふってきた。


(黒い石の破片。つるつるの表面。ここの天井か)


 破滅魔法が、かなりの力でソーラに抵抗しているようだ。白いかたまりだけでなく、天井を始め、周囲の壁や下のゆかなど、この地下空間全体が崩壊し始めたのがわかった。


 僕も足場を完全に失った。落下する白いかたまりと黒いがれきに囲まれながら、青巻紙で飛ぼうとした。だが、魔法は発動しなかった。「下降」も「推進」も「浮上」も、なにも。彼女を思って「指定」「誘導」を使っても、ソーラを呼び寄せることはできなかった。


 いつもなら字をなぞればその箇所が光るのに、それすら起こらない。

 黄巻紙でも試してみたが、もう魔法が一切発動しない。つぶれたような声しか出ず、赤巻紙に切り替えることもできない。「封」とすら言えない。


 あらためて自分の状態を理解した。

 限界だったのだ、僕の魔法の力は。無理に無理を重ねただけでなく、全身、穴だらけ。虫の息。

 青巻紙での止血も、もう効果がない。血が体内からあふれてくる。鮮明だった意識は遠のき、明瞭だった視覚もぼやける。黄巻紙の照明も、半径五十メートルから次第に縮小し、ついには僕の一メートル圏内しか照らさなくなった。


 あお向けになって暗闇を落ちる。体をやや丸めたかたちで。

 思考が暗黒に塗りつぶされていく。全身に痛みだけが戻っている。それだけが僕に生を教えてくれていた。さけぶことも、もだえることもできなかった。


 ぬか喜びからの敗北感と喪失感をかみしめながら、あとは死ぬだけ。本当に一巻の終わり。


 思わず僕は、泣いてしまった。痛み、悲しみ、悔しさ、情けなさ。なにが理由かは、自分でもわからない。こぼした涙の粒が宙に取り残され、無表情で僕を見つめ返した。

 ここで黄巻紙の照明が完全に切れ、真っ暗闇に僕は飲まれた。なにかが落下する音、空間自体がくずれる音。物体同士がぶつかり合う音。絶え間ない轟音のなかで僕は、かえって無音のような静寂を感じていた。


 あきらめよう。どうしようもない。やれることをすべてやった結果だ。受け入れよう。



「――ンさん」


 そう思った瞬間、僕の耳に、ほとんどまぼろしみたいな張り詰めた声が響いた。


「アロン・シューさん! ソーラ・クラレスさん! 聞こえるなら返事を。声を出せない場合は、なんでもいいので魔法を飛ばして位置を教えてください。わたしが、先生が助けます」


 誰が来たのか、すぐにわかった。普段は、けだるげな声をしている僕の担当教員だ。


 もしかしたら死に際の幻聴だろうか。だけど先生は必死にさけんでいた。

 僕は口を動かした。もはや声が出てこない。落下するがれきをたたいて音を発生させることすら、できそうにない。いや、できたとしても、周囲の轟音にかき消されるだけ。


 一方で、暗闇の向こうから、張り詰めた声が鼓膜を揺らす。

 そのとき、先生がきのうの朝に伝えてくれた言葉が、僕の脳裏によみがえった。


(約束してください。自分以外の誰かも、自分も、君は傷つけないでください。もし傷つけてしまったら、わたしに言ってください。わたしは、君の先生なんですよ)


 ソーラも、その父親も助けられなかった。そんな僕が、自分をあきらめかけている。

 だけど本当に、これで終わりなのか。思えば、少なくとも僕は、ほかの誰の手も借りずに自分たちだけで目的を達成しようとしていた。計画の流出を防ぐためとか、盗品である虹巻紙を確実に取り戻すためとか、巻き込みたくないとか、そんな理由をつけることは可能だけれど。


 本当は、意地を張っていたにすぎないのでは。「自分たちだけで解決するのが強さ」と思い違いをしていたのでは。もちろん僕たちが僕たちの力だけで戦ったことは誰にも否定させない。それでも僕たちは、ときに誰かを頼ってもよかったんじゃないか。


 僕は先生の言葉に「約束します」と返したはずだ。自分たちにできることは全部やったから、この現実を受け入れよう? 考えてみれば、ふざけた諦観だ。頼るべき誰かが手を差し伸べているのに、それを拒否しておいて、なにが全力をつくした、だ。


 このまま死んだら、虹巻紙を取り返すという当初の目的も、ソーラも、なにもかもを確実に失う。意地を張ること自体は、いい。

 大切なのは、自分が自分を誇れるか。勝ちや負けを超えて、最後の最後に胸を張れるか。


(今あるのは、からっぽの魔法の力。もう火も水も電気も出せない。自分を飛行させることもできない。だったら新しく生み出す必要のない、比較的、楽に動かせるものを)


 まだ、僕には涙が残っていた。

 それは僕から出た水。青巻紙とのリンクも有しているはずだ。


 右手の指は、青巻紙の「指定」「誘導」の上に置いたままにしていた。暗闇のなかでも、どこをなぞればいいかはわかる。

 肩の力を抜いて、字にふれた。先生を思って「指定」し、涙に「誘導」をかけた。すると、それらの文字列が、青白くぼんやりと光った。視界を確保してくれるほどの光量ではなかったし、ほとんど持続しなかったものの、確かにその発光は巻紙魔法が発動した証拠だった。


(よかった。涙を飛ばすだけの力は、まだ僕にも残っていたんだ)


 僕は泣きやまなかった。ずっと痛みは続いていた。悲しみや悔しさが完全に払拭されたわけでもなかった。それ以上に、僕たちを助けに来てくれる人がいることが、嬉しかった。


(確かに僕とソーラは、二人だけで戦った。それは誇りだ。でも二人だけではどうしようもなくなったら、誰かに助けを求めてもいいんだ。世界は僕たちだけのものじゃない)


 ここで真上から、がれきがせまっているのに気付いた。闇のなかを圧迫感が襲う。風圧だけで、もうすぐ当たるとわかった。


(このがれき、さっきまでなかったと思うけど。破滅魔法は、地下空間について無秩序に発動し、それぞれの物体の落下スピードも不安定にしているのだろうか)


 発生した風圧から考えて、がれきは僕の全身よりも大きい。そう感じたとき、鼻先をなにかが踏んだ。

 アリアンの出現させた虚像と戦ったときに何度もかじられたから、感触だけでかたちがわかる。それは「ろくしょう」の小さなねずみだった。虚像ではなく実体である。


「カット・イン・ピース」


 その後、僕の視界に光が戻り、上からせまっていた物体が粉みじんになった。破片は周囲へと放射状に散乱し、こちらに飛んでくることはなかった。背中に手が添えられ、僕は「銅鐸」に乗せられた。


 青緑色のさび「ろくしょう」を全体にまとう大きめの銅鐸をひっくり返し、そのなかに乗り込んだ状態で先生は飛んでいた。内部には、これまた「ろくしょう」でふちどられた丸い銅鏡が取り付けられており、それが光を発していた。


 虚像で作られた先生は飛行しなかったが、本物はきっちり飛べるようだ。つまり先生は、アリアンも認知していない魔法を使用して、僕たちを助けに来てくれたのである。

 黄土色の革靴。黒靴下。紫のローブ。人形のような整った顔立ちのなかに光る、緑の瞳。そしてダークブラウンのボブカットの髪に、つばの広い黒のとんがり帽子を重ねている。


(メアラ・サイフロスト先生)


 銅鐸には先生と僕のほかに、金髪と白髪の交じった初老の男性、クーゼナス・ジェイ寮長も乗っていた。元々僕が着ていたジャケットを羽織ったまま、彼は眠っている。地下空間が崩壊する前に、先生がオブジェのなかから救出してくれたようだ。


「エイド・イン・ピース」


 サイフロスト先生の言葉と共に、僕の鼻先を踏んでいたねずみが霧散した。代わりに、青緑色の気体が出現し、僕を取り巻いた。その気体が全身の傷口に侵入してくる。


 みるみるうちに、傷がふさがっていく。

 痛みがやわらぎ、涙も途切れる。


「もうだいじょうぶです、アロンさん。君の『声』は届きました。よく頑張りました」


 本当に僕の涙を、先生が受け取ってくれたらしい。


「ありがとうご、ざいます」


 先生の魔法で回復させてもらったおかげで、なんとか僕は、のどから声を出すことができた。銅鐸の内部では周囲の轟音がほとんど響いておらず、会話に支障はなさそうだ。


「でもソーラが、まだ下に」

「彼女も助けます」


 眼下では、がれきとかたまりとアリアンの盗品のコレクションがめちゃくちゃに交ざり合っていた。それがどんどん底へ底へと沈み込んでいく。今や、黒だけでなく、白いがれきも、ふりそそぐ。どうやら、上にあった白い直方体の空間さえ崩壊を始めたらしい。


 落下する物体をろくしょう魔法で、はじきながら、先生は銅鐸を降下させる。銅鐸の中央部には棒が取り付けられており、それを動かすことで操作しているようだ。


 しかし銅鐸は、途中でぴたりと静止した。


「いけないねえ、メアラちゃん。あなたは行かせられないよ」


 ふってきたのは、妙にさわやかな、男性の声。

 それが聞こえた瞬間、サイフロスト先生が斜め上に視線を向けた。


 そこに、一つの黒いがれきが落下もせず空中で停止していた。

 がれきの周辺には光があった。というより、「闇がなかった」と表現したほうがいい感じがする。光特有の輝きが、欠けていたから。


 上に立つ若作りの男性は、黒いシルクハットをかぶり、長い茶髪を揺らしていた。ダークブルーの上下に、深紅のマントをなびかせる。瞳の色は、夕焼けのようなオレンジ。

 彼こそが、ソーラの担当教員にして閉鎖魔法の使い手。本物のロロハーツ・テルドーのようだ。銅鐸がとまったのも彼の仕業らしい。


 だがサイフロスト先生はひるまず、帽子のつばを上げ、真剣な表情で彼を見つめる。


「ちょうどよかったです。ロロハーツ先生。アロンさんたちを預けます」

「メアラちゃんが一人で行けばいいって話じゃない」


 轟音をあいだにはさんだ状態でやりとりしているはずなのに、二人は普通に会話している。

 ロロハーツ先生は、白い手袋をはめた右手の甲をつまんだ。


「現在、下にたまったがれきの周辺およびその直下には、すごく強い、呪いみたいな魔法の力が渦巻いている。あなたの強さはみとめるけれど、これは相性の問題なんだ。無理に捜索を試みれば、メアラちゃんでも、わたしでも、あるいは学園長ですら突破できずに死ぬと思うよ」

「それなら、ろくしょうを遠隔操作してソーラさんをさがします」


「そっちも、だめだ。渦巻く魔法の力を観察したところ、じきに地下全体にその影響が広がるとわかったからね。離れた場所にいても、ろくしょうに付与したメアラちゃんの魔法の力自体が媒介となり、使い手にダメージが流れ込む。結果、なにもできずに、あなたは亡くなる」


 沈黙するサイフロスト先生を見下ろしつつ、ロロハーツ先生は、さとすように言う。


「わたしもすぐに彼女を助けたいよ。ソーラちゃんの担当教員だもの。だけど、いたずらに誰かのいのちを散らしても仕方ない。なにも彼女をあきらめようってことじゃないさ。底に渦巻く魔法の力が落ち着いたら、彼女が生きていると信じて捜索を再開するのは絶対だ」

「わかりました」


 とんがり帽子を目深にかぶり、先生は左手でローブをぎゅっとつかんでいた。そして銅鐸のふちにもたれかかる僕に声をかけた。


「アロンさん、地下に、ほかの生存者は?」

「四人だけです。僕と、そこに寝ている本物のクーゼナス寮長と、ソーラと、彼女の父親です。ソーラはお父さんをかかえ、下に落ちました」

「でしたらソーラさんだけでなく彼女のお父さんも、無事に見つけなければなりませんね」


「メアラちゃん、今は我慢して」


 ロロハーツ先生が、本気で心配する声音でサイフロスト先生への制止を続ける。

 サイフロスト先生は、目深にかぶった帽子で表情を隠したまま、落ち着いて返事をする。


「わかっています。ロロハーツ先生の見立ては正確です。今はアロンさんとクーゼナス寮長の安全が最優先」


 それからサイフロスト先生はロロハーツ先生に近づき、彼を銅鐸に乗せた。

 ろくしょうにおおわれた銅鐸が、がれきの雨のなかを上昇していく。


 僕は銅鐸の内部にへたりこんだ。


 気付くと、ロロハーツ先生がしゃがんで、僕と目線の高さを合わせていた。

 彼が右斜め前から、柔和な顔を向けてくる。


「あなたがソーラちゃんの友達のアロンくんだね。わたしは彼女の担当教員のロロハーツ・テルドー。聞きたいことがあるんだ。疲れているところ、ごめんね。あたりを崩壊させている魔法の力は、新しい遺髪を継承した彼女によるもの、という認識でいいのかな」

「はい。破滅魔法を宿した遺髪をソーラは受け継ぎました。最初はコントロールが上手くいっているかに見えたんですが、そんな彼女に破滅の力自体が反発したようで」


「ふむ、なるほどね。でも崩壊がまだ終わってないということは、現在も遺髪は彼女に抵抗しているということ。裏を返せばソーラちゃんが、まだ生きているということだね」

「あ。そう、ですね」


「お父さんも無事だろう。一緒にいる自分の父親を彼女が死なすわけがない。いや、わたしよりもアロンくんのほうが、ソーラちゃんの性格を知っているか。彼女は言ってたよ、本当の自分を見せても、敬遠も嘲笑もせず、自分をまっすぐ見てくれた男の子がいたってね」

「ソーラが、そんなことを」


 銅鐸のなかで僕は、ひざを立て、体を丸め、まぶたをとじた。もう途切れていたはずの涙が流れ続けていた。しゃくりあげるたび、全身がふるえた。


「青巻紙・封。黄巻紙・封」


 ひらきっぱなしだった巻紙に封をし、そのひもを腰のベルトにくくりつけた。すでにとじていた赤巻紙と一緒に、僕は両手で三色の巻紙をなでた。


(巻紙自体に意思はない。けれど伝えたい。君たちも、よく付き合ってくれた。ありがとう、おつかれさま。僕は虹巻紙を取り返すことに必死になっていた。でも君たち三色の巻紙も、父さんから受け継いだ大事な形見だった。忘れていて、ごめん。そしてこれからもよろしく)


 ――それが、長かったその日のなかで、僕が最後に考えたことだった。


* *


 だからここからは、僕の視点じゃない。彼女、ソーラ・クラレスの視点になる。実際のところ、ソーラたちが地底に沈んで何時間後にこの出来事が起こったのかは定かでない。


 または、これは彼女の視点ですらなく、父親のアリアン・クラレスの視点かもしれない。

 左半身のアリアンは、みずからの捨てた右半身にさらわれ、口をふさがれた。それから彼は、長く深い昏睡状態におちいっていた。夢も見ず、眠り続けていた。


 次に目を覚ましたとき、彼は見た。

 あお向けの自分の頭をひざに載せ、こちらを見下ろしている彼女を。


 彼女は、やや前傾した姿勢だった。右手で彼の手をにぎり、左手を彼の額に置いていた。

 やわらかく細い指につつまれた関節と骨が、彼の肌に当たる。指先一本一本から、どくん、どくんと脈が伝わってくる。つめの表面さえ、かすかにふるえている。


 彼女はあごを引き、その裏側を首にくっつけていた。きらめく二つの赤い瞳に、彼の左目一つが映った。彼女の大きな瞳をふちどるのは、紫と緑がきれいに調和した、つやのある長いまつげ。同色で整えられた眉は、外側に少し垂れている感じだった。


 顔は小さく凜としており、すっきりした線を輪郭にえがく。口元は、ほんのり薄い桃色に染まり、主張しすぎない程度にふっくらしている。鼻梁は緩やかに高く、その印象が容姿全体を引き締める。


 傷一つない透き通った白い肌が、ありのままに張りを見せる。ほおのあたりが血色よく、かすかに赤らむ。

 耳は髪に隠れている。髪の長さは、毛先がわきに届くほどのセミロング。まつげや眉と同じく紫と緑が違和感なく交ざり、ふわりと広がる。体が前にかたむいているため、本来は肩にかかっていたはずの髪が、彼女の胸のあたりで揺れていた。


「ケイル?」


 伴侶の名前を呼び、彼は左手をぴくりと動かす。

 そのまま伸ばされる彼の手を彼女がにぎりなおし、右の側頭部に運ぶ。


「君にまた会うことが、できるなんて」


 アリアンは顔をほころばせた。彼女の髪に手を添えて、幸せそうに、ほほえんだ。

 直後、力が抜けたのか、彼の手が緩やかにすべり落ちる。


 しかし同時に、手を添えていた部分から彼女の髪の位置がずれ、紫と緑のセミロングが、彼の顔面にふわりとかかった。

 一時的に視界はふさがったが、すぐにそれは、どけられた。見ると、ひじを曲げた彼女の右手に髪は移っていた。すでに、彼女の頭に髪は存在しなかった。代わりに、傷も毛もない白い頭皮があった。その輪郭は、美しい曲線を持っていた。


 髪に隠れていた耳も、今は見えている。左右とも小さく、やや肉厚。起伏は少ないものの、穴の陰影は濃く、なんとなく吸い込まれそうな雰囲気をまとう。


 彼女の正体を確認し、アリアンは無表情になった。


「なんだ、ソーラか。ケイルの耳は、もっと大きい」

「娘のほうでごめん。てか、そっちのほうで判断すんの?」


「元々わたしがケイルにほれたのは、盗みたくなるほどきれいな耳を見たからで」

「言わなくていいわよ。お母さんに、さんざん聞かされたから」


 ソーラはケイルさんの遺髪をかぶりなおす。耳が再び髪に隠れる。


 一方のアリアンは赤い瞳を動かし、周囲の様子を観察する。

 彼自身は左半身のまま生きている状態。自分の胸の上には、ひらいた虹色の巻紙が浮かぶ。なにも身にまとっていないが、不思議と寒い感じはしない。


 正座しているソーラの左右のひざ、あるいは太ももの表側が、彼の後頭部に枕のように当たっている。左半身の断面が彼女の腹部と向かい合うかたちである。

 やはりソーラの格好は長袖の灰色チュニックに黒のスパッツ。全体的に破けたり、穴があいたり、血がにじんだりしている。薄手でも厚手でもない灰色のニーソックスが、アリアンの茶髪交じりの金髪とこすれ合う。


 そしてあたりには、まばゆい光で満たされた白い空間が広がっていた。ゆかも壁も天井も見当たらない。そこに二人だけが浮かんでいる。


「どこだ、ここは」

「お母さんの遺髪を取り返したあと、破滅魔法に抵抗されちゃって。地下空間も崩壊した。わたしは、おと、あなたと地の底に落ち続けた。破滅の力はわたしの足場をひたすら壊していった。最初は、わたしたちに破滅の影響がおよばないよう抑え付けるのが精一杯だったわ」


「ちょっと待ちなさい。あの秘密基地から出て、そこからさらに地中にもぐれば、近辺の温度と圧力は相当なものになる。生身の人間が生存できるはずないんだが」

「だからわたしは思った。破滅魔法を抑え付けるだけでは、生きられないと。だったら破滅を抑制することばかり考えるんじゃなくて、実際にわたしが破滅の力を使えばいい。さっそく周りの、上昇する圧力と温度に破滅魔法を発動してみた。それらを透過させるイメージね」


「銀髪時の透過魔法を鍛えていたからこそ、応用できたというわけか」

「あとはワープで遠くに飛ばす感覚もプラスして、周囲の環境の安定化に成功したの。つまり都合の悪い現状そのものを破滅させたってこと。ただし、破滅魔法はわたしを地の底に落とすのをやめなかった。だからこうして、マグマのたまっている場所にまで沈んだ」


「マグマに対しても破滅魔法を使用したか。近くの危険なものをことごとく滅ぼし、周りに安全な空間を実現させたと見える」

「取捨選択したわ。たとえば最低限の光は破滅させてない」


「それがこの白色の光か。マグマといえば赤っぽいイメージだったが、白い光を発しているということは、よほど高温らしい。深く沈めば、こうなるのかな」

「ここまでいったら破滅魔法の抵抗も不毛よね、自分の宿った遺髪も溶けるかもしれないのに」


 父親の額に左手を載せたまま、ソーラは右手で、自身の前髪をかき上げた。


「まあ魔法自体に考える頭があるなら、使い手なんて要らないか」

「それにしても、破滅魔法そのものの利用か」


 アリアンは左目を素早く開閉させた。


「わたしは五年間、そんなこと思い付かなかったよ。抑えることばかり考えて。せいぜい破滅魔法自体を破滅させることができるか試しただけだった。それは徒労に終わったがね。ともかくわたしよりソーラのほうが上手く遺髪を使えている。ノウハウを教えるまでもなさそうだ」

「だめよ、伝えてもらうわ。破滅魔法のコントロールも、なかなか安定してきた。今となっては、破滅の力が防衛本能を働かせても効きはしない、たぶん」


「じゃあ破滅について考えすぎないこと。忘れ去りもしないこと。抑制に関して、この二点を意識してほしい。五年のあいだ検証したにしては、短すぎるかね。抽象的な精神論のようでもある。でもこれがわたしの見いだしたノウハウなんだよ」

「不満になんて思わないわ。煮詰めた結果、シンプルになったんでしょ。ありがと」


「ところでわたしの片割れの右半身はどうなった」

「倒した」


「そうか。まさか砂漠に埋葬していた右半身が現れるとはわたしも予想していなかった」

「気にしないで。アロンによると『あれ』のおかげであなたを見つけられたみたいだから」

「興味深い情報だ。しかし、アロン・シューくんか。彼には、まだ虹巻紙を返せていないな」


 自分の胸の上の巻紙に視線をやって、アリアンはソーラに問う。


「アロンくんは、今どこに」

「地下空間に残してきた。彼も崩壊に巻き込まれた」


 彼女は口元をゆがめ、両目をとじ、声をふるわせた。


「助けようとしたけれど、助けられなかった。彼の伸ばした両手に、応えられなかった」

「安心しなさい」


 アリアンは、ひじを曲げた。自身の額に載せられたソーラの左手の上に、手を重ねた。


「わたしの基地が崩壊したんだろう? なら、その真上も沈下し、カディナ砂漠自体に穴が出来る。加えてソーラとアロンくんが門限を過ぎても寮に戻らず、クーゼナス寮長の似姿も消えたとすれば、学園の先生たちが事件同士の関連を見いだして、必ず二人を救出しに来る」

「最初からアロンもわたしも危険を承知であなたのもとに飛んだ。なぐさめなんて」


「だったら、こう考えるかね。『アロン・シューは君と別れたことに絶望し、なにもかもをあきらめ、死を受け入れる』と」

「どの口が言ってんのよ、ふざけないで」


 ソーラは目を見ひらき、左手で父親の手を払った。


「アロンはわたしに負けず劣らず負けず嫌いなのよ。簡単にあきらめたりしない」

「とすれば」


 手をわき腹の横に投げ出し、彼は笑った。


「その信頼が答えだろう」

「そうよ、だからアロンはきっと。あ、まさかあなた、もしかしてわざと」


 彼女は左手を父親の額に添えなおした。そして目を半分ほどに細める。


「なんにせよ、これがわたしたちの選択の結果。誰かに泣き言や文句をこぼすのは筋違い。とはいえ、そもそもあなたが他人の宝物を盗んだり誰にも相談せず一人だけで破滅魔法をかかえたりしなければ、こんな目に遭ってない。そんなあなたに気付かされるのは、なんか腹立つ」

「言い返せないね」

「でもあなたがいい人間だったら、わたしはアロンと出会えていなかった。感謝とは違う、不思議な気持ち」


 ここで二人は沈黙した。アリアンは目をとじた。ソーラはその片目に赤い視線をそそいでいた。しばらくして、彼女は自身のうなじに右手を回し、ゆっくりと口をひらいた。


「アリアン。あらためて聞きたいのだけど、わたしの八歳の誕生日にあなたがプレゼントしてくれた黒髪は、盗品じゃない。そうよね」

「黒髪はわたしの知り合いから譲り受けたものだ。その人は、自分が死んだときソーラに髪をすべて提供するという遺言を残して亡くなった。いわば髪のドナー。その人の黒髪をもとにするかつらが出来上がったタイミングで、くしくもソーラの誕生日を迎えたというわけだ」


「話せる範囲で話してくれる?」

「ソーラが三歳のときにドナーとは会っている。当時、一か月だけ家の近所に住んでいた、わたしの友人の伴侶が、長い黒髪を持っていた。二人を家に招いた日、ソーラはその人の前に歩いていき、あいさつしたあと、『わたし、かみない。ごめんなさい』と泣きだしたんだ」


「え、わたしそんなことを。まったく記憶にない」

「物心つくかつかないかって年齢だったし、覚えがなくても不思議じゃないさ。ともあれ、ソーラは、かぶっていたかつらも取って、わんわんと泣きじゃくった。彼女の髪が長く、きれいだったから、それで思わず感情があふれたのだろうね。そんなソーラに彼女は言った」


 アリアンによると、その人はソーラと約束したという。「自分はあと十年も生きられないから、そのときが来たら髪をソーラに譲る」と。対してソーラは「じゃあいらない」と答えて泣きやんだ。黒髪の彼女は「優しいのね、ありがとう」と言ってソーラの頭を優しくなでた。


「じきに友人とその伴侶は引っ越した。そのあともわたしは友人と文通を続けた。そして四年が過ぎたころ、彼の伴侶が亡くなったことを知らされた。その遺言に従うかたちで、ソーラに彼女の髪が渡った。彼女が交わした約束は、子どもをなだめるための方便じゃなかった」

「忘れていたんだ」


 ソーラはうなじから右手をはなし、その手の平を見つめた。

 父親を見ず、ほとんど独り言のような声を漏らす。


「わたしの知らないところでも、わたしを見てくれている人がいたのね」

「ドナーの情報は伏せた。ソーラが大きくなってから話してほしいと遺言状にあった。ワープ魔法を持っていたことについても。彼女のワープは本来、『ささやかな逃避』の発露らしい」


「黒髪時、五メートルまでしかワープできない理由って」

「本人は自分の思いの反映と考えていたようだ。ワープで遠くに行こうとする。反面、今いる場所を離れたくないとも感じている。その長さは、人の微妙な心の距離だ」


「小さな距離でも重ねれば、望んだ場所が見つかるでしょうよ」

「どんなにワープをくりかえしても自分からは逃げられない。だから限界距離は変わらない。諦観か『さとり』か。そんなコンプレックスを、幼いソーラには隠したいとも彼女は書いていた。ちなみに本文の指示に従い、遺言状は処分済みだ」


「わかった。話してくれて、どうも」

「意外と反応が薄いものだね。もっと驚くかと予想していたが」


「もう決めていることよ。わたしは遺髪に恥じない魔法使いになる。受け継いだ髪に宿る魔法も思いも、ありのままにかぶる。すべてをかけ合わせ、自分を全力で肯定する」

「そうか。ところで、ほかに質問は。今のうちに答えておきたい」

「現状とくにないわね」


 彼女は右手を凝視するのをやめ、アリアンのまぶたに視線を落とした。


「でも『今のうちに』って。あなた、なに焦ってんの。今際の際でもあるまいし。ここから出たら、世界を股にかけたどろぼうの『鏡の巨像』アリアン・クラレスは投獄確定。そこはわたしも、かばう気なんてない。身内でも面会は難しいでしょう。だからってこと?」

「結局、まだ質問あるんじゃないか。とにかくわたしは、このあと死ぬ」


「なんで死ぬの」

「選択肢が、それしかないからだ」


 彼はまぶたをあけ、娘の瞳を見つめ返した。目の上に、ほどよい重さを感じつつ。


「ソーラがわたしの額にずっと手を置いているのは、わたしを死なせないためか」

「もちろんあなたを二度と逃がさないためでもあるんだけど。悪い?」


「悪くないが。ふむ、自分に加えてわたしについても、破滅魔法の悪影響がおよばないようにしているのか。周囲のマグマなどを遠ざけたうえで破滅の力をわたしの内部にも適用し、疲労物質などをじかに『破滅』させ、回復もおこなっていると見える。でも、もういいよ」


 あらためてアリアンは自分たちを取り巻く白い空間を確認する。彼がソーラと話しているあいだに、そこから放出される光が少しずつ青みを増していた。


「ほんのわずかな変化だが、徐々に、わたしたちはマグマのなかを落ちているようだ。ワープ魔法でも透過魔法でも破滅魔法でも、虚像魔法でも、虹巻紙の具現魔法でも脱出できない。もはや救助の手も届かない。しかし一つだけ、ここを抜け出る道がある。わたしが死ぬことだ」


 黙って自分を見下ろすソーラの視線にさらされながら、アリアンは虹巻紙をつつく。自身の胸の上に浮かぶ、ひらいた巻紙のはしをなぞる。


「ソーラたちがわたしのもとまで来た方法に関して、おおよその見当はついた。デリングリンでアロンくんの存在を一瞬だけ抹消した結果、所有者を失ったと誤認した巻紙が、虹巻紙の現所有者のわたしを目指して飛んだんだろう。すべてを貫通する無敵状態で。間違っているかね」


「ほぼ合ってるわ。ただし、さっき言ったアロンの受け売りをくりかえすと、片割れのおかげで見つけたというのが大きい。そっちが二つの体に分かれてくれたおかげで、巻紙も追加で一つ、あなたのもとに飛べたみたいなのよ」


「やっぱり、そういうことかね。とはいえアロンくんは一つの体で複数の巻紙を持てる」

「なにが言いたいわけ」


「似たことをすればいい。わたしが死ねば虹巻紙は所有者を喪失する。すると次はどこに飛ぶ。当然、三色の巻紙をあやつるアロンくんのところへ向かう。あとは、その虹巻紙に連れられてソーラがアロンくんの隣に戻るだけ。こんな簡単な方法で、万事が解決する」

「確かに無敵の巻紙と一緒ならマグマの影響も受けず、すり抜けるみたいね。彼によると」


「ソーラはケイルの遺髪を取り返し、無事に帰還。アロンくんの手元にも、お父さんの形見の虹巻紙が戻ってくる。世界中の宝物を盗んで回り、多くの人を不幸に落とし、娘とその友達にひどいことをした悪党『鏡の巨像』アリアン・クラレスは無様に死亡。おめでたい結末さ」


 アリアンは、虹巻紙から垂れている黒いひもを指でいじる。

 ここでソーラは前傾姿勢をやめ、右手で体をささえつつ、背中をやや後方に倒した。


 その瞬間を見のがさず、アリアンは小声で唱えた。


「虹巻紙・封」


 すかさず全身をねじり、ソーラのもとから離れようとした。


 しかし一方の彼女は即座に背中を元に戻し、再び前傾姿勢になる。同時に、右手で父親の手を押さえ、左手で彼の額を引き戻し、自身の両ひざの上にアリアンの頭を固定しなおした。


「言ったでしょうが。二度と逃がさないって」

「虹巻紙だけ、つかめばいいものを」


 アリアンの胸に、とじられた巻紙が落ちる。

 ソーラはさらに頭を沈ませ、アリアンの胸のはしに自身のあごの先をくっつけた。転がっていきそうになった虹巻紙は、彼女のあごの裏側に当たり、とまった。


「機をうかがっていたわね。みずから死ぬために」


 あごの裏側と首のあいだに巻紙をはさんだ状態で、彼女は身を起こした。そのため、はっきりした声を出せず、しゃべりづらそうだった。


「おとなしくわたしと話してたのも、破滅魔法の制御が安定しているか、じっくり観察してたからでしょ? 『これなら地上に帰してもだいじょうぶ』と見て取ったあとも、わたしを油断させようと会話を続け、隙をさがしていたのよね」


「破滅魔法を宿すケイルの遺髪がソーラの頭からすべり落ちた瞬間においても、周囲の安全が保たれていた。だから、すでにソーラが破滅の力の安定化に成功していることはわかっていた。しばらく時間が経過しても問題は確認できなかった。それでチャンスをのがすまいと動いた」


「あなたは、ずっと逃げてきた。その逃亡を、わたしが警戒していないとでも思ったの?」

「これを逃亡と表現するか。そうかもしれんね」


「だいたい、わたしはあなたへの質問について『現状とくにない』と言ったけど、あんなの嘘でしかない。五年間も行方不明になっていた大犯罪者の父親相手よ。聞きたいことなんてまだまだ腐るほどあるのが当然じゃないの。あえて嘘をついたのは、あなたの真意をはかるため」

「つまりわたしに『もう娘の質問には全部答えた』と思わせるのがねらいだったと」


「ええ。未練の一つが消えれば、そっちがよからぬことを考えていた場合、大胆な行動をとる可能性が高まる。ここで背中を少し倒して気の緩みを演出し、あなた自身の反応を見た。案の定、あなたは動いた。おかげで真意の一部も知れた」

「まあお互いに腹をさぐり合いつつ話すのも疲れるものだからね。腹蔵なく語り合うには、そういう『変化球』が必要かもわからない。ああ、それと。とりあえずわたしの手から右手をはなして、そちらに虹巻紙を持ち替えるといい。わたしは失敗した。もう逃亡の機会はない」

「ありがたい提案ね」


 彼女は言われたとおりにし、あごと首のあいだから虹巻紙を抜き取って、右手につかんだ。

 封をされた巻紙は、黒いひもによって円筒形にまとめられていた。


「やはり奪う意思がない場合は、手をすり抜けたりしないのか。もう少しというところで」


 目をわずかにあけたアリアンの、まぶたの周辺が波打つようにゆがんだ。


「死のうとした本当の理由も、ソーラのためではなく、自分のためさ。まさしく逃亡をくわだてたんだよ。ケイルが死んで五年が経っても、さびしさは癒えなかった。今まで盗んできたコレクションも、だめになった。娘に情けない姿もさらした。むなしすぎて、生きられない」

「ここで『申し訳ないから』という理由を挙げないのが、最高にアリアン・クラレスって感じね。なんにせよ、『本当は死にたいから望みをかなえてほしい』と伝えても、『ウジウジしたところを見せて愛想をつかされよう』ともくろんでも、一切わたしには効かないわ」


「あっさり見抜くね」

「魔法以外の面でも虚像を使って生きてきたのが、アリアン・クラレスという魔法使いでしょう。実際、あなたは生きようとしているし。たとえばわたしたちの浮かぶこの白いマグマの空間には、破滅魔法だけでは説明のつかない二つの違和感がある。さすがに気付いてるかしら」

「浮遊および落下しているはずのわたしたちの体が、安定しすぎていることか」


 アリアンは、あお向けの状態で足を上げ、それを下ろした。しかし力を入れても足が水平面から下に動くことはなかった。腕のほうでも同じことをやったが、結果は変わらなかった。


「確かにゆかは、どこにも見えない。だが、まるで透明のゆかがわたしたちの下にあるようだ。ここはマグマのなかだから、元々あったゆかをソーラが透過魔法で見えなくしたという可能性もない。とはいえこれを作り出すことは、破滅魔法でもワープ魔法でもできないはず」

「そう、つまり透明なゆかは、あなたによるものよ。破滅魔法が足場をくずしてわたしを地の底に押しやっていたとき、昏睡状態のあなたの虚像魔法が発動した。それは虹巻紙によって具現化され、くずれた足場を補うゆかとなった」


「ソーラとアロンくんとの戦いで、体を保つのがせいぜいなレベルにまで魔法の力を消耗したと思っていたが。これこそ火事場のなんとやらというやつか。透明なのは色のイメージが固まっていないからと考えられるね。でもなぜわたしは無意識のうちにこれを出したんだ」

「言わせないでよ、生きたいからでしょ。そのときは崩壊していく底から岩石が飛び出し、直撃すれば危なかった。足場が奪われたら落ちて死ぬとも感じて、そこに生存本能を働かせた結果、盾を兼ねるゆかを真下に出現させたんじゃないの? 事実、わたしも助けられたわ」


「アロンくんのあつかう三色の巻紙と違い、虹巻紙は使用の際になぞる必要がないみたいなんだ。だから無意識にも反応するのかもしれない」

「虹巻紙は特殊なのね。ともあれ、もう一つの違和感は、わたしたちの呼吸が続いていること。地下における温度や圧力、マグマ自体を破滅させて安全な空間を作ったとしても、酸素だけは、どうにもならない。たとえば虚像から具現させて地上と同じ空気を作り出さない限り」

「そちらもわたしが無意識に『生きたい』と思ったから発動したと。虹巻紙」


 彼がその名を唱えると同時に、ソーラの右手の巻紙が再度ひらいた。


「この空間の酸素がつきると困るから。いや酸素だけだとかえって危ないことは知っているよ。当然ほかの成分も、ほどよく交ぜる」

「なによ、やっぱり生きたいってことじゃないの」


「巻紙の封をとかずに酸素の供給を絶とうかとも考えた。『このまま共倒れになるくらいなら自分だけ助かろう』という思考にソーラを誘導するために」

「それ、もはやわたしじゃないんだけど」


「まあね、結局のところソーラは、どんな悪党だろうと見捨てない。だから、しばらくは生きられるようにしておく。ただし、わたしも飲食物までは作り出せない。じっくり受け入れなさいよ、アリアンが死ぬ以外に自分が助かる道はないことを」

「そういえば、あなた」


 左半身だけになった父親、彼の縦に切られたような断面、とはいえ皮膚でおおわれているその部分に視線を走らせてソーラが聞く。


「地下にいたあいだ、ごはんは、どうしてたの」

「水はクーゼナス・ジェイの水道魔法をあやつることで確保していた。食べ物は食べていない。虚像魔法と具現魔法を合わせるかたちで、肉体の組織を維持した」


「破滅魔法の影響下にあって右半身まで失ったのに、都合よく生きられたものね。遺髪をわきにはさんだ状態で破滅魔法の情報について話してもあなたは死ななかったし。お母さんはわたしに伝えることもできず亡くなったんでしょう? 変じゃない?」


 父親の額を、ソーラの左手が、なでさする。


「きっと遺髪に宿ったお母さんが、あなたを死なせないようにしていたのよ」

「それこそ都合のいい解釈だ。わたしが体を維持できたのは、コレクションの保存に割いていたリソースを断腸の思いで自分に回したから。情報を話してもわたしが無事だったのは、そもそもわたしの持っていた情報自体がたいしたものでは、なかったからだ」

「あくまで自分は死に向かっていると言いたいわけ? あなたの心を変えるには、どうしたらいいの? 仕方ないわね、わたしが先に折れるしかないか」


 吐息を漏らし、ほおから目元までを紅潮させるソーラ。


「生きてよ、お父さん」


 彼女は、とくに顔を近づけず、ときおり目を泳がせつつ、ひざの上のアリアンを見つめる。


「久しぶりね。お父さんって呼ぶの。『あなた』って、お母さんみたいな呼び方、ずっと、しちゃってたけど、やっぱりわたしには『お父さん』のほうが、しっくりくる。遺髪も取り返したし、もういいかな。お父さんにばかり心変わりをせまるのもフェアじゃないし」

「……ソーラ、知っているかね」


「なに、お父さん」

「この世には娘に『お父さん』と呼ばれて喜ばない父親はいない」


「知らないっての。というか、お父さん自身がくりかえさないで。恥ずかしいじゃない」

「いいんだ、それで。でも嬉しいものだ。もう呼ばれないと、あきらめていたから」


 彼の目のはしから、涙が漏れ出た。

 こめかみをつたう、それに気付いて、ソーラは瞳をぱちくりさせる。


「別に泣くことは。いや、泣いてていいわよ。見ないでおいてあげるから」


 手の平とひざに彼の頭をはさんだまま、彼女はまぶたをとじる。とはいえ、目がひらいていない状態でも、ソーラの顔はアリアンのほうを向いていた。


 彼の涙はこめかみのそばを流れたあと、落ち、彼女のひざをわずかに濡らした。

 アリアンは、にじんだ視界のなかで娘の輪郭をみとめていた。紫と緑の髪にふちどられた、彼女自身の顔のかたちを。


「ときにソーラ。コレクション、盗品を保管していたあの暗い部屋で、わたしがなにか言いかけたこと、覚えているだろうか」

「一応。あのあとお父さんが片割れにさらわれて、うやむやになってたっけ」

「わたしは自分の負けと、ソーラとアロンくんの勝ちをみとめた。だけど、本当に伝えるべき言葉だけは口にしていなかった」


 彼は一つのまぶたを大きく上下させ、しかしあいだにまばたきをはさまず、むせかえる。


「すまな、かっ、た」


 せき込みながら、アリアンは言葉を続けようとする。


「ソーラの強さを信じきれずにケイルの遺髪をわたしは横取りした。成長した姿を見ても、素直に返すことができなかった。わかってるさ、謝る部分が、ずれている。でも正体を隠していたことや、純粋に盗みをくりかえしたことについて、わたしは後悔できそうにないんだ」

「確かに、ずれているわね。本当にひどいお父さん。結局、気付いてないみたい」


 両目をあけることなく、彼女は指もひざも、ふるわせた。さけぼうとしたようだが、大きな声にはならなかった。のどから、しぼり出したようなトーンだった。


「お母さんがいなくなった日! 託された遺髪が盗まれたこともショックだったけど、それ以上に、お父さんまで消えてしまって、突然わたしは一人になった! 十歳を超えた程度の娘に対して、最悪の育児放棄じゃないの。今まで幸せだったのに、わたしが、どれだけ」


 とじられた彼女のまぶたの隙間からも、とどまることなく涙があふれた。


「わたしのことを考えるなら、黙って自分一人でかかえ込むんじゃなくて、この際、悪党のままでもよかったから、なんでわたしと一緒に生きようとしてくれなかったのよ!」


 ソーラの涙がアリアンの目元に落ちた。

 彼の顔の上で、二つの涙が混ざる。父のものは冷たく、娘のものは温かかった。合わさって出来た水は、ぬるかった。


 ほとんど声にならない嗚咽と共にアリアンは目を見ひらき、手の平で顔をおおった。


「そうだ、そのとおりだ。わたしは結局、独り善がりだった」


 手の甲に落ちる、彼女の温度を感じつつ、すすり泣く。


「わたしはソーラの五年間を奪ってしまっていたのか。謝っても謝りきれない」

「だからね」


 アリアンの額に置かれた彼女の手と、彼自身の手とが、少しだけふれ合う。


「ここで死んだらいけないのよ。お父さんがやったことは一瞬で清算できるほど軽いものじゃない。つかまったあともわたしが会いに来てあげるから。あきらめて、生きて」

「……娘からそこまで言われては逆らえない。覚悟するよ、今度の今度は」


 自身の手を顔からどけると、彼の視界には、赤い瞳をうるませる娘の姿が映っていた。

 そのときアリアンは、幼いころの彼女の面影を、元々強気ではなかった娘の記憶を、同時に思い出していたらしい。とはいえ実際に口に出したのは、別の言葉だった。


「アロンくんにも謝ろうと思っていたから、そちらも果たさないといけないね。あとソーラ」


 先を促さずに自分と目を合わせてくる娘に、アリアンはかすかに顔をほころばす。


「ありがとう。わたしに生を許してくれて。奪った時間を、奪い返してくれて。ずっと逃げていたわたしがこんなことを言っても、盗人猛々しい気もするが」

「ほんとにね。でも、よかった」


 ほんのり泣きながら、ソーラも父に、ほほえむ。


「お父さん、生きてくれるんだ」


 とても幼い口調で、安心した声音で、やわらかく彼女は、うなずいた。


「まったく。わたしの目的はお母さんの遺髪を取り返すことだったのに。最後の最後で、お父さんまで連れ帰ることになるなんてね。だけど、こんな結末のほうがいいよね、お母さん」



 二人は白いマグマの空間を落ちていく。周囲がより高温になっているせいか、その光の色は青白さを増している。


 ただし父と娘だけの時間は、もうすぐ終わる。


* *


 そろそろ視点を、僕、アロン・シューのものに戻そう。

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