終章 僕たちの話(前編)
アリアン・クラレスの潜伏していた地下から脱出したあと、僕は深い眠りに落ちていた。
そんな僕が目覚めて最初に見たのは、赤いツイストパーマの彼だった。
「起きたか、我が友アロン・シュー」
やや高い声と青い目を持つルームメイト、ハフル・フォート。僕のそばに椅子を引き寄せ、彼がそこに腰かけていた。薄桃色のクッションの敷かれたスツールに。
今のハフルのアウターは、長袖の黒のシャツジャケット。青い線が入ったウィンドウペンのチェック柄である。そして白のクロップドパンツに、やはりカーキ色のブーツをはく。
「きのう寮に帰らなかったろ、おまえ。心配したぜ。具合は、どんなもんよ?」
「ハフル。意外と、まあまあ」
僕は保健室のベッドに寝ていた。枕元に三色の巻紙が置かれている。
やはりここでも学園長の空調魔法が利いているようで、風は優しく、空気は快適。といってもダカルオンのあとに運び込まれた部屋とは違う。前回は室内に白いベッドが八床あったが、こちらのベッドは四床で、色はベージュ。
ベッドの隣にクリーム色のカーテンが揺れていた。それをひらいて窓の外を見る。
そこではユズリハの緑の葉っぱが昼下がりの陽光を受け、木漏れ日を落としていた。
上半身だけで起き上がると、例の薄緑の患者衣を着せられていることがわかった。体のあちこちを確認してみたところ、全身にあいていた穴は、すべて跡形もなく、ふさがっていた。
まだ魔法の力や体力は戻りきっていないものの、あの戦いのあとにしてはダメージが少ない感じがする。確かに学園の保健室に備え付けられているベッドは回復効果のある魔法装置。とはいえ重度のダメージや肉体的に深い傷を一日程度で修復できるほどの代物ではない。
腑に落ちないといった表情の僕に対し、ハフルが説明する。
「おまえがここにかつぎ込まれたあと、保健室を統括する大先生がじきじきに治療してくれたらしい。すげえなアロン。世界トップレベルの医療魔法を受けられたんだぜ。ちなみに代金は保険みたいなシステムで学費に含まれるから改めて金を払う必要は、ねえってさ」
「傷がきれいに治っている。あれは夢だったんじゃないかと疑いたくなるほど」
「ただし大先生いわく、おまえ、かなり危ない状態だったそうだぜ。サイフロスト先生がろくしょう魔法で応急処置をおこなっていなかったら、死んでたっぽいよ。まあ今は落ち着いたようだが、できれば安静にしてたほうが、いいんじゃね」
「危ない? そうだ、僕は行かないと」
「ちょい待てって、アロン。あと少し俺と語ってからでも遅くねえだろ」
「できることは、ないかも、しれないけど、僕が」
「瀕死から回復したばかりなんだぜ、おまえ。せめて出ていく前に、ほら、これ食ってけよ」
彼の座っているスツールの右隣には、別のスツールがもう一脚あった。そこに皿が置かれていた。皿の上には、スティック状に切られたりんごが積まれている。その皿の底を持って、彼が僕にりんごを近づける。甘酸っぱいかおりが、僕の鼻を刺す。
「ぐっすり眠るおまえの顔色がよくなったあたりで、もうすぐ起きるかと思ってな。皮をむいて、切っといたぜ。ちなみに、このりんごを差し入れたのは俺じゃなくてキュリア・ゼルドルだから、あの子にもあとでお礼、言っとけよ」
「キュリアが。わかった」
スティック状のりんごを皿から取り、僕は音を立てて、それを食べる。
「ところでハフルは、ずっとここに?」
「今朝からな。きょうは臨時休校になっちまったし、ひまなんだわ」
「ありがとう」
「よせっての。俺、文字どおりここにいただけなんだぜ。おまえ、ダカルオンのときより傷ついてたみてえだったし、おちおち寮にも戻れねえっつの。しかしそのベッドに寝てりゃあ、俺が汗ふいたりする必要もねえから、よく考えたら意味なかったわな」
「そんなことないよ、ハフル。ところでクーゼナス寮長はどうなった」
「なんだ、もう知ってんのか。実は、きのうの門限くらいの時間に、寮のホールのソファで新聞を読んでいた寮長の体が突如として消えたんだ。俺はその現場を見てねえんだけどよ、奇妙なことに燕尾服だけを残して、体も丸めがねも、溶けるように、なくなっちまったとか」
「そうか」
確かアリアンが寮長の似姿に燕尾服を着せていたのは、イメージしやすいから。イメージを固めることによって、寮長の虚像を本物のように具現化させていたわけだ。偽者のクーゼナス寮長が消えたのは、きのうの僕たちとの戦いでアリアン自身の魔法の力が枯渇したせい。
(だけど服は消えなかったという。つまり、普段の寮長の燕尾服だけは本物だったのか)
そして寮長がアリアンの手からのがれたことで、学園には別の変化も生じていると思われる。アリアンは、クーゼナス寮長に幻影を見せて水道魔法を使わせ続けたと言っていた。しかし現時点においてアリアンも寮長も水道魔法を行使できる状態にないはず。
それを踏まえ、僕はハフルに質問を重ねた。
「男子寮の水道は」
「全部ストップさ。しかも、女子寮や普通寮、学園全体の水道も影響を受けてる。現在は別の魔法で代用してシャワーとか出してる状況なんだが、寮長のものに比べると。いや一生懸命なんとかしようとしてる人たちの頑張りにケチつけるのは、よくないか。今のは取り消す」
「だけど寮長は、本当に消えたわけじゃないよね」
「まあな。詳細はわからんが、事実としてクーゼナス寮長は無事らしい。別の保健室で寝てるっぽいぜ。とはいえ仕事に復帰し、再び水道魔法を行使するには、しばらく時間を要するってよ。なにがあったんだろうな」
「それは。その、なんらかの」
りんごをかじりつつ、僕は二の句が継げないでいた。今までの寮長が偽者で、本物はカディナ砂漠の地下に囚われていた、という重大なことを簡単に話していいものか。
言葉につまっている僕をハフルが無表情で観察している。
「なあ、おまえに聞いていいか」
「答えられるかは、わからない」
「いやいや、びびんなって。別に俺は、おまえのきのうの行動とか、寮長の件との関係性とか、んなこと問いつめるつもりは、ねえよ。だけど、どうしても聞かなきゃならんことが一つだけある」
ハフルは両足をやや持ち上げ、左右のブーツをこすり合わせた。
「おまえ、思う存分かましてこれたか」
そのときのハフルの声は、いつもより低く、落ち着いていた。
僕は覚えていた。これは、おとといダカルオンが終わったあと寮の部屋で彼が伝えたことの確認なのだ。正直、「かます」という言葉が適切かは判然としないが。
かみくだいたりんごを飲み込んで、はっきりと僕は言った。
「当然、思う存分かましてきた!」
「よっしゃ、なら万事問題はねえな!」
普段どおりの陽気な調子に戻り、ハフルは晴れがましい笑顔を見せた。
彼の顔を見たとき、前に言われたことを僕は思い出した。
(笑い話にしたいときは遠慮すんなよ。一緒に笑ってやる)
だから僕も、笑った。
窓から入った木漏れ日が、彼の赤いツイストパーマと青い目を明るく照らし出していた。
* *
それから僕は患者衣を脱いで、傷一つないスーツに着替えた。
三色の巻紙も腰のベルトにくくりつける。
巻紙に関しては最初からベッドの枕元に置かれていたが、代えのスーツのほうは、ハフルが僕のガーメントバッグに収めたうえで保健室に持ってきてくれていた。
「リネンの上下にしようかとも思ったが、なんとなく、こっちのほうがいいかなと考えてな。今回は靴もあるぜ。シューズラックに置いてあるおまえのフェイクレザーのうちの一足さ」
なお、アリアンとの戦いで傷ついたスーツ一式と、クーゼナス寮長の体にかけていたジャケットについては、保健室を統括する先生からハフルが受け取り、今朝のうちに寮まで運んでくれたらしい。
代えの黒靴をはき、僕は保健室をあとにする。その際、僕を回復させてくれた先生にお礼を伝えた。
すると、先生は穏やかに言った。
「もうだいじょうぶと保証はします。一人で行動しても構いません。ただし一週間は様子を見ましょう。体に異常を覚えたら、すぐに伝えること。わたしの魔法も万能ではありませんので『怪我しても、また治せばいいだけ』と安易に思い込まないよう」
加えて、その先生は僕に耳打ちする。「念のため走るなどの激しい運動は、ひかえてください。大きい魔法や飛行も同様です。ソーラ・クラレスさんの捜索については、すでに再開されています。彼女が無事に戻ってきたときに、アロンくんが心配をかけないようにね」と。
十一の保健室を収める建物から出て、僕は第一グラウンドのそばを通り過ぎる。おとといダカルオンで戦ったフィールドだ。百メートル四方にわたり、赤いゴムチップで舗装されている。
そこで僕とハフルは、別れ際にこんな会話を交わした。
「んじゃ、俺は寮に戻っとくわ。からになったバッグも持ち帰っておくから安心しろ」
「ああ。服も靴もありがとう。君には何度感謝しても足りないくらいだ。僕は、ハフルに世話になりっぱなしで、なにも返せていない。君はどうして僕にそこまで」
「おまえに、ほれてるから」
「はあ?」
「気の抜けた声、出すなや。そっちの意味じゃねえよ。おまえ、俺と同室した初日、開口一番なんて言ったか覚えてっか。『君のカーキ色のブーツ、かっこいいね』だ。単純だろうが、俺は嬉しくてさ。地元じゃ『似合わない、かっこ悪い』と、さんざんけなされてたもんよ」
「ハフル」
「もちろん、最近おまえが頑張ってたからというのもある。それでも理由が足りないか?」
「いや、じゅうぶんだよ。そういう意味なら、僕も君に。ともかく今度、なにかおごらせてほしい。その程度じゃ全然返せないけれど」
「今度じゃねえ、今夜だ。ビーンズサラダ特盛りで頼むぜ」
「ああ、こちらのググーは気にしないでいい」
そのとき僕は彼の好物を初めて知った。
ハフルと別れたあとは灰色の砂利道を進む。道沿いのユズリハの木々のあいだを抜けていく。しばしば、ほかの学生とすれ違う。
(ソーラ)
僕は彼女のことを考えていた。カディナ砂漠の底の底に沈んだ、僕の協力者を。
次第に歩幅が大きくなり、歩調も同時に速まっていく。
(元々、僕の目的は虹巻紙。本来なら、それをまだ取り返していないことを第一に気にすべきなのに。もちろんその目的は、今も変わらない。でも、なぜだろう。ソーラ。君が生きて帰ってきてほしいという気持ちのほうが、今は強い。アリアン、お父さんも無事だといいけど)
走らないよう気を付けながら、僕は東に歩いた。
そして、ベージュの壁を持つ教室棟の前に着く。きのうに引き続き、きょうも、その建物は、しまっていた。
建物を迂回し、教室棟の裏手に僕は出た。中庭と同様、そこも緑の芝生。
東側には、白い壁が立ちふさがっている。カディナ砂漠を囲う、横長の壁である。
高さ三メートル、厚さ二メートルのそれを見上げると、いつもと様子が違うことがわかった。
ロロハーツ先生の閉鎖魔法により、カディナの砂粒は壁を越えることができない。とはいえ、普段なら学生は砂漠に自由に出入りできるし、その景色も見渡せる。
ただしきょうに限っては、こちらに飛んでくる無数の砂が壁の上で滞空し、黄土色のカーテンを作っており、向こう側の様子がわからない。
「待っていましたよ、アロンさん」
気付くと、僕の右隣にサイフロスト先生が立っていた。
やはり先生は紫のローブ姿で、黒いとんがり帽子をかぶっている。つばの広い帽子が日の光を防ぎ、ダークブラウンのボブカットの乱れた毛先にまで、濃い影が出来ている。
「ロロハーツ先生が、普段よりも強い閉鎖魔法をほどこしています。現在、壁を越えようとしても学生は通り抜けることができません」
先生は緑の瞳を僕に向けず、けだるげな声で淡々と話す。
「とはいえアロンさんは重要な関係者なので、ロロハーツ先生も君に対しては閉鎖を適用していないんだそうですよ。見たところ、ある程度はアロンさんも回復したようですし、その意思があるなら、わたしと、なかに入りますか」
「入ります」
「いいでしょう。シップ・イン・ピース」
そう先生が唱えると、青緑色のさび「ろくしょう」をまとった銅の群れが目の前に現れた。細かい粒の状態で出現したそれらが、一つのかたちとして凝集し、幅広の銅鐸となった。
銅鐸は逆さまの状態で宙に浮く。高さは一メートル強。
先に乗った先生の差し出す手をつかみ、なかに僕は乗り込んだ。
サイフロスト先生は銅鐸の中央部に取り付けてある棒を右手で動かし、まるで船の舵を切るように操縦する。ふわりと銅鐸が浮き上がっていく。白い壁の高さを超え、まだまだ真上に移動する。
ついには四階建ての教室棟を見下ろす高度にまで上昇した。
上から見ると、正方形の建物のなかに、これまた正方形の中庭が収まっているのが、よくわかる。三本のユズリハと芝生に囲まれた中央に、銀色の噴水のオブジェがたたずんでいる。相変わらず時計回りにねじれており、水は出ていない。
(地下の巨大なオブジェは崩壊に巻き込まれたみたいだけど、こっちは無事か)
僕は体の向きを変え、銅鐸のへりに両手を置き、カディナ砂漠の方向に目を移した。
目の前では、黄土色の砂粒が風に吹かれるように動き、カーテンを形成している。
ただしサイフロスト先生の銅鐸が近づいたとき、砂は上下左右に分かれ、黄土色のカーテンに穴を作った。
そこを通り抜ける。
僕たちがカディナ砂漠の上空に来た時点で、カーテンの穴は自然にとじた。
「ほどほどにスピードアップします。例の地下空間の近くまで」
中央の棒を先生が前に倒すと、銅鐸がその方向にすいすい進み始めた。
同時に先生は、額の汗を片手でぬぐう。
「砂漠は暑いですね」
「あの、先生。よければ巻紙で水を出しましょうか。その程度なら、今の僕でも」
「ありがとう、アロンさん。いただきましょう」
「いえ、こうして運んでもらっていますし。それに、きのう先生に助けられていなかったら僕は、どうなっていたか。本当に感謝します、サイフロスト先生」
青巻紙をひらき、僕は「水」を出し、それに「冷却」「滞空」をかけて先生の顔の前に移動させた。先生は棒をつかんでいない左手で水をすくい、口元に運ぶ。
「冷たくて、おいしいですね」
先生は何回か手を往復させて、水を少しずつ口に含んだ。
そのあと僕は赤巻紙もひらいて、先生の濡れた手を「乾燥」させた。再び先生はお礼を言って、とんがり帽子を左手で少し揉んだ。
僕は赤巻紙と青巻紙に封をした。
サイフロスト先生は前方に体を向けたまま、隣に立っている僕に視線だけを送る。
「現在、当局とも連携し、ソーラさんと彼女のお父さんをさがしています」
――先生によると、破滅魔法の呪いに関しては午前二時ごろにピークを迎えたあと、次第に弱まっていったそうだ。地下空間の崩壊も、ほぼ終わった。そのため先生も、ろくしょうのねずみたちを地下に送り込んで捜索することが可能になったという。
(崩壊がとまったということは、彼女が死んで破滅魔法の抵抗が終息したか、ソーラが生きたまま破滅魔法の制御に成功したか、どちらかだけど。僕は後者を信じる。少なくともアリアンは生きている可能性が高い。彼が亡くなっていたら、僕のもとに虹巻紙が飛んでくるはず)
ここで深呼吸して僕は、ほかに気になっていた点をサイフロスト先生に質問する。
「ところで先生たちは、きのう、どうやって地下まで来たんですか」
「ロロハーツ先生が学園長に報告したんです。カディナ砂漠の壁を何者かに突破されたと。閉鎖魔法をほどこされた物体は、彼自身のセンサーとしても機能します。『教室棟の裏手にある壁をすり抜け、砂漠に侵入した者がいる』と彼はすぐに気付きました」
砂漠を囲う白い壁自体を通り抜けることができるのは、閉鎖魔法の使い手であるロロハーツ先生を除いてほぼいないとサイフロスト先生は言う。
確かに学生たちがカディナ砂漠に出入りするのは基本的に自由だが、壁そのものを突破されるのは通常ありえないことで、それを彼は不可解に思ったらしい。
「しかも周辺を調べたところ、教室棟の中庭でデリングリンの残骸と思しき黒いかけらが見つかりました。これも不審でした。報告を受けた学園長は即座にカディナ砂漠に入り、ロロハーツ先生にカディナを完全に封鎖させました」
が、黄土色の砂漠をすみずみまでさがしても人の気配はどこにもない。ここで学園長は地下に疑念の目を向け、砂漠の粒を空調魔法によって巻き上げたそうだ。
厚さ数百メートルどころではない膨大な量の砂をほとんど一瞬で上空に浮かせ、砂漠の底を露出させた学園長。しかし底には黄土色の岩石が広がっているだけで、とくに不自然なところもなかった。
それでもロロハーツ先生と学園長は調査を続けた。やがて夕刻を過ぎ、ちょうど寮の門限くらいの時間になったとき、黒光りする三角形の石が一つ、黄土色の砂漠の底に突如として出現した。その真ん中には亀裂が縦に入っていた。ある種の扉のようにも見えた。
同じころ男子寮では、クーゼナス寮長が燕尾服だけを残して消えていた。
(この時点ですでにアリアンは、僕たちとの戦いを経て、寮長の似姿の維持が不可能になっていたということか。そのレベルにまで弱っていたせいで、普段から虚像魔法で隠していた基地への出入り口さえ人目にさらしてしまったのだろう)
不可解な出来事はまだ終わらなかった。ここで、アロン・シューとソーラ・クラレスが門限を過ぎても寮に戻っていないことが、明らかとなる。門限を破ったことのない学生二人が同時にこのような事案を起こしたという点が、なにより不審で、事件性すらにおわせたという。
「――知らせは、君の担当教員であるわたしの耳にも入りました。なんらかの関連があると思い、わたしはカディナ砂漠に向かいました。それから学園長たちと合流し、黒光りする扉をこじあけ、なかに入りました。ただし学園長は念のため、砂を浮かせたまま地上に待機しました」
かくしてサイフロスト先生とロロハーツ先生は地下空間に突入した。
扉の先は、縦に延びる三角柱の空間に続いていた。黒光りする天井を通過したあと、無数の銀色の剣と、穴のあいたエレベーターが二人を襲ったが、先生たちは難なく突破したそうだ。
その空間の先の通路を抜け、サイフロスト先生が白い直方体の部屋に入ったとき、地下の崩壊が始まった。直方体の底に円形の穴を見つけた先生は、そこに入り、降下した。
こうして暗闇の部屋、アリアンの盗品の保管場所にまで到達した瞬間に、先生の目には高さ二十メートルの銀色のオブジェが第一に映った。そのオブジェも壊れかけていた。なかを調べると、クーゼナス・ジェイ寮長と思しき人物がジャケットをかけられた状態で眠っていた。
先生は彼を救出したあと、ろくしょうのねずみたちを出現させ、地下空間の至るところに向かわせた。それらのねずみと先生の視覚はリンクしている。さらに先生は声も出しつつ、僕とソーラの捜索をおこなった。
「とくに寮長にかけられていた黒のジャケットに見覚えがありました。それは、アロンさんがいつも着ているスーツジャケットと同じ種類のものでした。だから、『この暗闇のどこかに君がいる』という確信と共にわたしはアロンさんをさがせました」
「そうでしたか、そんな経緯で。ありがとうございます」
「ちなみにわたしが教室棟の裏で待っていたのは、君がソーラさんを心配して砂漠の近くに来ると思ったからです。なかでも、きのうすり抜けたと思しき壁の前に現れる可能性が高いのではと。ともあれわたしの話は、いったんここまで。では、君の話もお願いできますか」
「わかりました」
形見を確実に自分たちの手で取り返すという目的のために、アリアン・クラレスを追っていることを僕は先生にも秘密にしていたわけだが、もう隠し通せそうにない。
僕は打ち明けた。ソーラと協力して父の形見の虹巻紙を取り返そうとしたこと。ダカルオンの優勝賞品を使ってアリアンの居場所を突き止めたこと。砂漠の地下で僕たちが彼と戦ったこと。五年間クーゼナス寮長の偽者が立てられていたことも含め、今回の件に関するすべてを。
あいづちをうちながら先生は僕の話を聞き終わり、横顔だけで微笑を見せた。
「話してくれて助かります、アロン・シューさん。ところで君の語ったことを、当局から派遣された現場責任者のかたと、学園長と、ソーラさんの担当教員のロロハーツ先生にも伝えてよろしいですか。もちろん守秘義務を前提に」
「そうしてください。必要な場合は、ほかの関係者のかたにも伝えてください」
「では、そうします。そしてアロンさん。わたしからも、君に言いたいことがあります。君が頑張ったのは、きっと自分のためだけでなくソーラさんのためでもあったのでしょう。君は強く優しい魔法使いです。でも」
進行方向をじっと見て、サイフロスト先生は言葉を続ける。
「わたしは、ちょっとおこっています。自分たちに限らずほかの人をも巻き込みうる重大で危険なことを自分たちだけで解決しようとしたことに対して、わたしはおこっています」
声を荒らげず、しんみりとした調子で、ジェスチャー等の動作を交ぜることなく先生は言う。
「事実、『鏡の巨像』は一筋縄ではいかない魔法使いですし、彼と因縁があるのは君たちだけではありませんし、アロンさん自身のいのちも危なかった。君たちの覚悟は尊重しますし、みとめます。だけどアロンさんもソーラさんも、危険な目に遭う前に、誰かに相談すべきでした」
「すみません」
「わたしが頼りないなら、信頼できる別の先生にでも。学園長でもよかった。当然、秘密は守りますし。独自に動けなくなることや当局に形見を押収されるのが怖い場合は、それも含めて言ってくれればいいんです。そのときは対応策を新たに話し合って、なんとかしますので」
「はい」
「素直ですね、アロンさん。本当に謝らないといけないのは、わたしのほうなのに」
ここで先生は、左手でとんがり帽子を頭から取り、そのつば全体を自身の胸に押し当てた。
「いろいろ言いましたが、今回の件で一番に責任を負うべきは、君たちではありません。『鏡の巨像』アリアン・クラレスがカディナ砂漠の地下に潜伏し、男子寮の寮長になりすましていたことに五年間も気付かずにいた、学園ファカルオン側の非がもっとも大きいのです」
少しだけ言葉を切ったあと、先生は声を低くする。
「なかでもわたしは、君の担当教員であるにもかかわらず、君の真意に気付かずにいました。ただ、いい学生さんとだけ見なし、アロンさんのかかえている問題に向き合おうともしませんでした。一方で君にわかったふうなことばかり言って。本当に申し訳ありませんでした」
(違います。悪いのは僕のほうです。先生は謝らないでください)
そんなふうに伝えようとしたものの、僕は結局、なにも言えなかった。
サイフロスト先生は、僕の家のほうにも直接に謝罪すると約束した。
「学園の土地でもあるカディナ砂漠で君は死にかけました。担当教員のわたしの責任です。アロンさんだけでなく、学園に預けてくださった君のご家族に対しての信頼も、わたしは裏切ったわけです。まずは文面で謝罪のむねを伝え、後日正式に君の家にうかがい、謝ります」
* *
実際にサイフロスト先生と、そして学園長は、その日のうちに僕の実家に謝罪文を送ることになる。文面には事情説明と、同じ事態を起こさないための具体的な改善案も書かれていた。
今後アロンさんを始めとする学生を絶対に危険な目に遭わせないと誓います、そんな言葉で先生は謝罪文を結んでいた。
それを読んだ僕の母は先生に次のような手紙を返した。
(今回の件に関してお知らせいただき、ありがとうございます。お手紙を読んだ以上、わたしから申し上げることは、とくにありません。誰が悪いか。そんなことよりも、わたしが伝えたいことは三つだけです。まず、先生。息子のいのちを救っていただき、感謝いたします)
先生は、自分がアロン・シューを助けたのだと手紙に書いていなかった。しかし学園長のつづった文面のほうに、サイフロスト先生のとった行動についての補足が記載されていた。
ともあれ母の手紙は、こう続く。
(次に、これから卒業までアロンをよろしくお願いします。そして、我が家を訪れるというのでしたら、ぜひお待ちしています)
後日、言葉どおりサイフロスト先生は僕の実家に行ったそうだ。謝る先生を僕の母は、ほとんど責めなかったらしい。むしろ一緒にお茶を飲んだりおしゃべりを楽しんだりしたとか。
さらにそのあと、母から僕にあてた手紙が届く。
(ということがあったのです)
母は先生とのやりとりを説明してから、僕に対しての本題に入る。
(それとアロン。自分の信念をもって、仲間と共に、よく目的を果たしました。手放しであなたの行動を全肯定すべきでないとはわかっています。でも、わたしはあなたに感謝したい。あの人の、いえ、あなたが自身の虹巻紙を、自分の力で取り返したことが、誇らしいから)
これを読んだとき僕は、涙をこぼした。報われた気分に、なったせいだろうか。
しかし、これはしばらく経ってから届く手紙。
* *
現在の僕は虹巻紙をまだ取り返していない。昼下がりも過ぎたころ、ろくしょうにおおわれた銅鐸に乗って、カディナ砂漠の上空を、サイフロスト先生と共に飛んでいる。
ここで先生の全身がふるえた。胸に当てていたとんがり帽子を頭に戻し、左手で口元を押さえる。僕は取り乱した。
「どうしたんです、先生。もしかしてさっきの水、冷やしすぎていましたか」
「い、いえ。違います。実はわたし、乗り物酔いしやすくて。馬車や船だけじゃなくて、自分の魔法で出すこの銅鐸も例外でなく。格好がつかないのでみんなには秘密にしてたんですが。アロンさん、絶対に内緒ですからね。いいですか、絶対、言いふらしちゃだめですよ」
「もちろんです」
アリアンの映した先生の虚像が飛ばなかったのは、普段からサイフロスト先生が乗り物としての銅鐸に乗るのを苦手としていたからのようだ。そのためアリアンは空を飛び回る先生を目撃することがなく、その部分を虚像のイメージに組み込めなかったのだろう。
「でも先生は、それでもこの銅鐸に乗って僕たちを助けに来てくれたんですね」
「もう。君はこんなときでも、からかったりしないんだから」
先生は身をふるわせながらも、進行方向から目を離さず、銅鐸の棒を右手で動かしていた。
左手で口元をおおいつつ、こもった声を出す。
「誰が助けたかなんて先生にとっては、どうでもいいんです。君が無事だったから。ただし百パーセントの善意ではなく、ファカルオンの教師としての保身もあるのでしょうが」
「先生が僕を助けたことは事実です」
僕は先生の肩をささえようとした。が、先生は自分の足で銅鐸の内部にまっすぐ立っていた。だから僕は手をひっこめ、代わりの言葉を口にした。
「あらためて、ありがとうございました。そして、いろいろ黙っていてすみません。これからは勝手なことはしません。困ったら、ちゃんと事前に相談します。全然頼りなくなんかない、先生のなかで一番信頼できる、サイフロスト先生に」
「アロンさん」
このとき先生の緑の瞳が、少しうるんだような気がした。
「弱りましたね、ちょっと酔いすぎてしまったようです。いえ、わたしは、はきませんよ。ともあれ、あとはソーラさんとお父さんを見つけるだけですね」
先生は少しけだるげに、しかし安心感を覚えさせるようなやわらかい声音で、そう言った。
* *
その後も黄土色の砂漠の上空を飛び続け、最終的に先生は大きな「穴」の前でとまり、銅鐸を着陸させた。僕がおりたあと、先生はかけ声一つで銅鐸を分解し、そのかけらを回収した。
「わたしは学園長たちに君の話を伝えてきます。アロンさんは、ここで待っていてください」
あたりには、学園の教師たちや当局の捜査官の詰め所として、テントがいくつか張られていた。先生は、そのなかの黒いテントのほうに歩いていった。
残された僕は、当の「大穴」の様子を観察する。
直径は五百メートルほどだろうか。その周囲のあちこちには黄土色の砂が、うずたかく積み上げられている。この穴の下に、アリアンの本拠地がある。いや、あったのだ。
穴の内部は井戸のようなかたち。壁に相当する部分は、魔法によって固められている。底をのぞき込むと、黄土色の岩石がくだけた状態で散らばっているのが見えた。
岩石におおわれた地面のなかに、比較的小さな、三角形の穴があいているところがある。その口から黒い石が露出している。
(あれがアリアンの秘密基地の入り口だった場所)
この入り口のそばに、当局の捜査官と思しき紺色の制服の者と、学園の先生がそれぞれ一人ずつ立っている。ときどき、その穴から誰かが出てきて、代わりに別の誰かがそこに入る。
(ソーラとアリアンの捜索をおこなっているのか。あそこに普通に出入りできているということは、銀色の剣を飛ばしたりする魔法装置は、すでに停止したということらしい)
そう思ったときだった。僕の背後から人の影が伸びてきた。
「こんにちは。メアラちゃんと一緒に来たのかな。体はだいじょうぶだね。わたしのほうは、大穴の壁の維持や砂漠全体の『閉鎖』のために、ここで待機してるところさ。アロンくんの見ている穴の底、地面がくだけているでしょ。あれが陥没しないようにも気を付けてるんだ」
影の輪郭を見ただけで、本人がシルクハットをかぶっていることがわかる。
振り返って僕は話しかける。
「ロロハーツ先生、こんにちは。きのうは、ありがとうございました」
「いやいや」
ダークブルーの上下を着こなし、深紅のマントを身にまとった彼、ロロハーツ・テルドー先生が、オレンジの瞳を細め、やや首をかしげる。
「あなたを助けたのはメアラちゃんだよ」
「はい。でもロロハーツ先生も助けに来てくれたわけですし。先生の『ソーラがまだ生きている』という言葉にも、僕はささえられています。そのお礼を伝えたくて」
「そういうことなら、どういたしまして」
ぎこちなく笑ったあと、ロロハーツ先生は僕の右隣に立ち、現場の状況を説明してくれた。
「現在、学園の教師のうちの二十八名と当局の捜査官三十四名でソーラちゃんとお父さんを捜索しているんだ。破滅魔法の呪いも落ち着いてきた。じかに地下に入っても、いのちを落とす心配はもうないよ。メアラちゃんも、ろくしょうを遠隔操作して、なかをさがしてる」
とはいえロロハーツ先生によると、ソーラも父親もまだ見つかっていないという。彼女の服の破れた部分と、アリアン自身の金髪の抜け毛が、いくつか地下で発見されただけらしい。
「がれきにうまった盗品も気になるところだけど、今は人命優先だからね」
「盗品。そう言いきるということは」
僕は声を小さくして質問する。きのう僕は、アリアンの「盗品」についてロロハーツ先生に伝えていなかったはずだ。
「先生もソーラのお父さんの正体を知っていたんですか」
「うん。アリアン・クラレス氏は、世界中の宝物を盗んだ、かの『鏡の巨像』だよね。わたしはソーラちゃんの担当教員だもの。当然、承知しているよ。ここにいるファカルオンの教師たちと捜査官のかたがたにも、その情報をすでに伝えた。他言無用という条件でね」
それからシルクハットのつばを指でこすりつつ、ロロハーツ先生は付け加える。
「あ、でもあなたにこんなことを言うからって、わたしの口が軽いなんて思っちゃいけないよ。アロンくんはすでにソーラちゃんから聞いているみたいだし、ちゃんと秘密も守っているようだから、あらためて話しただけさ」
「わかっています。ただ」
「もしかして不思議かな。罪のないソーラちゃんはともかく、大犯罪者の『鏡の巨像』のいのちまで、みんなで助けようとしていることが。別に変でもないよ。今後のために彼には聞かなきゃいけないことがたくさんある。いや、それ以前に彼は、ソーラちゃんの父親だ」
「できれば僕も二人をさがしたいです」
再び僕は目の前の穴の底に視線を落とした。現場でやりとりをしている先生たちや当局の捜査官を視界に入れつつ、声の大きさを元に戻す。
「ソーラもアリアンも生きていると僕は信じています。捜索はみなさんに任せるべきだとも、わかっています。だけど、どこか、もどかしくて」
「友達とその家族のことだもの。本当は自分の力で助けたいと思うのが自然だよ」
それからロロハーツ先生は、沈黙して穴の底を見つめ続けた。僕もそれにならった。彼のそばは、あまり暑くなかった。先生は閉鎖魔法で、砂漠の熱をほどほどにシャットアウトしているようだ。
少し時間が経過し、体から伸びる影の角度が変化したとき、ロロハーツ先生が僕のほうに顔を向けた。正確には、僕の左隣を見ているようだ。
そこから、ひんやりとした風が吹いてきた。ついで、太く小さい影が現れる。
「すみません、お話、よろしいですか」
舌足らずなのに聞き取りやすい声が僕のそばから響く。
首から足先までを厚手の黒いローブで隠す少女の姿。黒に近い紫の髪が、うねりながらローブの内部に入り込んでいる。
そんなファカルオンの学園長が僕の左隣に立ち、紫の瞳を濁らせていた。
とりあえず、学園長にあいさつする。
彼女の斜め後ろには、サイフロスト先生がひかえている。
ここでサイフロスト先生が、僕に声をかけた。学園長と現場責任者に、話を伝え終わったと。
ロロハーツ先生も、僕のそばにいるあいだに情報共有を済ませたらしい。サイフロスト先生のところからやって来た、ろくしょうのねずみをシルクハットに潜ませ、その一匹を介して、情報を受け取っていたとのことだ。ちなみに音漏れは一切なかった。
僕はサイフロスト先生にお礼を言った。
ついで学園長が、小さな口を動かす。
「シューさん。まずは学園長として謝罪します。君とクラレスさんが危険な目に遭ったのは、ファカルオンの最高責任者でもあるわたしの怠慢によるものです」
「こちらこそ、迷惑をかけてすみませんでした。サイフロスト先生からうかがっています。僕が無事に帰ってこられたのは、学園長のおかげでもあります。今もソーラたちを探してくださっていることに感謝します」
「もっとわたしが気を付けていれば誰にも被害がおよばなかったことです」
「あの、そのことについて一ついいですか。学園長、アロンくん」
ここでロロハーツ先生が、あらたまった口調で言う。
「今回の事件で一番悪いのは、アロンくんたちでも学園でもなく、『鏡の巨像』本人だとわたしは思いますよ。無断で砂漠の地下に潜伏し、クーゼナスさんを誘拐し、ソーラちゃんたちを傷つけた張本人ですので。そもそも事の発端は、人のものを盗み続けた彼自身にあるのでは」
「そうかもしれません」
僕は率直に答える。
「ただ、今にして振り返ると」
ついでアリアンの口にした「疑うばかりじゃ争いのたねをまくだけだよ」「これが通じるという確信があるなら、最初から打ち明けている」という言葉を思い出し、僕のうなじに汗が浮かんだ。
「好戦的な気持ちを少しでもいいから抑えて、もっと早い段階で彼の話に耳をかたむけるべきだったんじゃないかとも思うんです」
「すべてがわたしの責任だったなんて傲慢なことは考えていませんよ、ロロハーツ先生」
汗を一滴も垂らさずに、学園長は表情を固くする。
「ただ、彼一人に責任を押し付けても、なんにもならないだけです」
のちに聞いた先生たちの話によると、学園長は学園内の危険を排除するために元から尽力していたそうだ。ロロハーツ先生に閉鎖魔法を徹底させるだけではなく、自分の力を積極的に使っていたとか。
たとえばカディナ砂漠の砂を空調魔法で巻き上げ、不審物がないか一か月に一回は点検していた。
そもそも研究室や教室、保健室など、学園の屋内全体に空調魔法を利かせていたのは、快適な環境を提供すると同時に、学生や教師を守るため。通気口から送られる風には学園長の魔法の力が込められており、害意や悪意に反応する。なおプライバシーに配慮し、盗聴はしていないとのこと。
また、やや精度は落ちるものの、屋外にも空調魔法の気流を飛ばし、一種のパトロールをおこなっていたらしい。範囲は学園内に限らず、正門から延びる赤レンガの道にまでおよぶ。
そうやって学園長は学園での不祥事を未然に察知し、防いできた。
空調魔法は寮にも適用されているものの、クーゼナス・ジェイに扮したアリアンは正体の片鱗を見せなかった。寮長の虚像は学園内で僕たちに積極的に干渉してこなかったが、その最大の原因は、学園長の魔法をアリアンが警戒していたからと考えられる。
ちなみにアリアンが基地をカディナ砂漠の地下に移動させた五年前、ロロハーツ先生はまだファカルオンに赴任していなかったらしい。
ロロハーツ先生が学園に雇われたのは今から四年前。彼がほどこした閉鎖魔法は高度なもので、地下深くにまでおよんでいた。が、すでにこの時点でアリアンは砂漠の地中にいたわけだ。
(破滅魔法によりコレクションが崩壊していくのを目の当たりにしたはずのアリアンが、それらの盗品を別の場所に退避させていなかったのは疑問だったけれど、理由はロロハーツ先生か。閉鎖魔法の壁がカディナを囲ったために、アリアンの逃げ道が完全に奪われていたのだろう)
なおアリアンが地下に潜んでいた五年のあいだ、学園の「地質調査」も定期的におこなわれていたそうだ。透視の魔法を行使できる者が当局から派遣され、学園内部や砂漠の地下の状態に問題がないかを一年ごとにチェックしていたという。
その都度、アリアンは魔法で基地を隠匿し、別の地層を虚像として見せていたのだと思われる。
なんにせよ学園長自身は言い訳することもなく、次の話題を切り出す。
「ところでシューさん。肝心のクラレスさんとお父さんですが、二人は元の地下空間よりもさらに下層に沈んだ可能性があります」
「それについては、わたしから」
サイフロスト先生が学園長の話を引き継ぎ、説明に移る。
「さきほど、ろくしょうのねずみを通じて、当局の捜査官のかたから報告を受け取りました。地下空間のがれきの下に、直径二メートル弱の穴が発見されたのです。まっすぐあけられたもので、真下に向かって果てなく続いています」
「きっとそれは、破滅魔法がソーラに抵抗した際にあいた穴です」
アリアンの片割れとの決戦後、地下で白いかたまりに沈み込んでいった彼女。その姿を思い出しながら、僕は先生たちの目を順々に見る。
「ソーラはアリアンをかかえた状態で背中から落下していました。そして破滅の力の影響がもっとも大きかったのは、彼女の周辺だったと思います。結果、足場が次々にくずれ、深い穴が出来たんじゃないかと」
「問題は、どこまで落ちたかですね」
学園長は髪とローブを絶え間なく、うねらせる。
「報告によれば穴には果てがないとか。とすれば内部の探索には限界があります。地中での圧力は深度を増すたびに上昇し、個々の魔法の力をも押しつぶします。どんな魔法使いも、一定の深度を超えて進むことは不可能です。クラレスさんの破滅魔法は例外だったようですが」
「周囲の圧力自体を魔法で破滅させ、打ち消し、限界深度を超えて地中にもぐったということですか」
「おそらく。ともあれ二人が誰の手も届かない場所に沈んだとすれば、自力で生還するのも難しいと思われます。『鏡の巨像』は弱った状態みたいですし。しかもクラレスさんの破滅魔法とワープ魔法は同時に発動できないんですよね。よって地中を飛ぶことも不可能でしょう」
「物理的に穴のなかをのぼるのも、現実的ではないですね。ソーラが破滅魔法の制御に成功して足場の崩壊をとめたとしても、果てがないほどの高さを独力でのぼりきれるわけがありません。あるいはマグマのたまっている地層にまで到達していたら、抜け出るのは余計に困難」
「シューさん。そこで鍵になるのは」
学園長の視線が、僕の腰のベルトに移る。彼女が見ているのは、そこにくくりつけられた三色の巻紙だった。
「君のそれです。巻紙が所有者を失えば無敵状態で次の所有者のもとに飛ぶ。この性質を利用して君たちは『鏡の巨像』の居場所を突き止めたのでしょう。そしてクラレスさんのお父さんが亡くなったとき、孤独になった虹巻紙は三色の巻紙の所有者の君を目指して飛ぶはずですね」
「はい。無敵状態の巻紙のひもをつかめば、たとえマグマの底からでも戻ってこられます。でもソーラは父親を見殺しには、しません」
そんな僕の返答に合わせ、右隣のロロハーツ先生があいづちをうつ。僕は言葉を休めずに、左隣の学園長の紫の目を見る。
「だから僕にできることは一つです。こちらから飛びます」
そのまま僕は、学園長のそばに立つサイフロスト先生の緑の瞳のほうにも顔を向けた。
「デリングリンは使えるでしょうか」
「残念ですが、無理だと思います」
とんがり帽子のなかに手を入れて、サイフロスト先生は黒い球体を取り出す。
「アロンさんの考えはわかります。再び自分の存在を一瞬だけ抹消し、巻紙を彼女のお父さんのもとに飛ばすつもりですね。けれど君の話を聞く限り、半身が失われた今、彼は二つ以上の巻紙を所有できない状態なのでしょう? とすれば巻紙が彼を目指す可能性は低いのでは」
「確かに、冷静になって考えてみると先生の言うとおりです。仮に二人のところに行けたとしても、巻紙の無敵を利用した移動は一方通行。地上まで戻る方法がありません」
額に右手を当て、僕はあごを引いた。
かたやサイフロスト先生は、透明な包装紙につつまれた黒い球体を右の手の平で転がす。
「そういえばアロンさんたちは、デリングリンをいくつ用意していましたか」
「ソーラがダカルオンの優勝賞品として手に入れた一個だけです。使用したあとは、くだけましたが。でもどうしてデリングリンの個数を?」
「シューさん。サイフロスト先生が伝えたいのは」
ここで学園長が腕を組み、落ち着いた声で僕に言う。
「クラレスさんがデリングリンをもう一つ持っていた可能性はないか、ということですよ」
「アリアンを探し出す際に使用したものとは別に、ですか。もしソーラがそれを持っていればアリアン自身に存在を一時的に消してもらって、虹巻紙を僕のほうに飛ばすこともできそうですね。ただ、ソーラからは、なにも聞いていません。優勝賞品も一人一個だったはずです」
「念のため、もう一個だけ誰かから譲ってもらったのかもしれないよ」
今度はロロハーツ先生が、やわらかい表情で僕に対して首をかしげてみせる。
「いったん獲得した賞品をどうしようが本人の自由だからね。デリングリンは実用性にとぼしい。渡すほうも抵抗ないでしょ。これは希望的観測とは違う。絶対に失敗したくない状況なら、予備を用意していても、おかしくないさ」
そして彼はサイフロスト先生の手の平の球体を指差す。
「その魔法装置、一回一回、使い捨てにしなきゃなんないんだっけ」
「一つでじゅうぶんと僕は思っていましたが、装置の起動が不発に終わったり巻紙の移動がなんらかの事情で中断したりするリスクを考慮すれば、それに備えるのが自然ですね」
飴玉みたいな見た目のデリングリンをじかに渡された彼女はその性能を僕よりも疑問視しただろう。また、ソーラは巻紙の具体的な移動方法について伝聞による情報しか得ていなかった。
よって、自分が手に入れた一個のデリングリンだけでは足りないかもしれない、最低でも二個は用意しておきたいと彼女が考えたとしても不自然ではない。
予備の存在についてソーラが言わなかったのは、「だったら失敗してもいいか」と僕に思わせないようにするためか。とはいえ一発目で試みは成功したので、以降はデリングリンの予備について言及する必要がなかったのだろう。
また、図書館の自習室で、僕たちはこんなことを話したはずだ。
(優勝者から賞品を譲ってもらう、あるいは借りることも視野に入れたほうがいいか)
(考えてなかったわ。次善策になりえるわね)
自分が優勝しても、ソーラは慢心せず、目的を達成しようと万全を期すだろう。念には念を入れてデリングリンの予備を確保するはずだ。
では誰から譲ってもらうのか。そのときの彼女の心情を考える。自分たちの計画が露見するリスクを考えれば、頼む相手は誰でもいいわけじゃない。信頼できる人。なおかつダカルオンの優勝者。
たった一人だけ心当たりがある。「彼女」の声の記憶が、僕の頭によみがえる。
(アロンくんには、あげないからね)
ダカルオンのあとの保健室。彼女の取り出したデリングリンを僕がじっと見ていたとき、慌てた口調でそう言われた。思えば、彼女にとってその黒い球体はそんなに執着を覚えさせるものだろうか。ここに妙な違和感があったような気がする。
「彼女が彼女のためではなく、最初からソーラのためにデリングリンを手に入れていたとしたら。しかし最近の彼女はソーラの近くに僕の影を感じ取っていた。だからソーラに渡す前にあえて僕に実物を見せ、こちらの反応を観察した。そう考えれば、つながる」
僕は額から手をはなし、少しずつ声を高くした。
そんな姿を見ながら、ロロハーツ先生が自身の首をなでる。
「なるほどね。ソーラちゃんがあなたを選んだわけが少しわかったよ。彼女とその父親が行方不明になっても、泣き言を漏らすでもなく、かといって根拠のない希望にすがるでもなく、自分にできることと、あらゆる可能性を考え続けられるのが、アロンくんなん」
「アロンさん、学園長!」
ロロハーツ先生が言い終わりかけたタイミングで、サイフロスト先生がさけんだ。
「今、がれきの下の穴から!」
その報告を聞いて、僕の心臓の鼓動が速くなった。
突然の出来事だろうか。おそらく違う。僕たちはずっと、そういう予感と共に、穴の近くに待機していたわけだから。
結局、これに関して僕は、なにもしていない。「守りたいものを守れる魔法使いになる」と豪語しておきながら。
(誰が助けたかなんて、先生にとっては、どうでもいいんです。君が無事だったから)
サイフロスト先生が言ってくれたことを思い出す。
最後の最後で彼女を助けたのは僕ではなかった。しかし彼女は「自分が彼女を助けたい」という願望を満たすための道具じゃない。
彼女と彼女に関係する存在が無事であること。それが一番重要だ。
僕は目の前の大穴から、十歩だけあとずさりした。
今の僕にできるのは、二人が帰ってくるスペースを少しあけておくことだけ。
その動きに合わせ、ロロハーツ先生もサイフロスト先生も穴のそばから離れた。
学園長も後退し、拡声をおこなう。手のあいている、当局の捜査官や学園の先生たちを呼び集める。
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