第十二章 アリアン・クラレスの実像(前編)

 新しい虚像は現れなかった。


 巨像を破壊したあと、僕とソーラは再び互いのそばに寄った。それから数分のあいだ、気を緩めずに立ち続けていた。


 しかしアリアンの追撃が来ないと見て取るや、二人とも糸が切れたようにゆかに倒れた。

 実体のほとんどない虚像との戦闘だったため、外傷は少ない。相手の魔法を受けてではなく、むしろ移動や攻撃の際にみずから負ってしまった傷が大半である。しかし見た目以上に、体力的にも精神的にも疲労の極致だった。魔法の力も枯渇している。立ち上がれない。


「アロン、わたしが回復させるから動いちゃだめ」


 右のわき腹をゆかにこすり付けながら、ソーラが僕に這い寄っていた。


「今は服越しだと無理だから、あなたの肌に直接ふれるわ」


 あお向けの僕の右耳に、荒れた吐息が当たった。僕の右手の甲に、彼女の右の手の平がそっと添えられる。続いて僕の額に左手が載せられた。白い指の腹が視界の上部をおおった。ソーラ自身の顔は、僕から見て逆さまの状態で横たわっていた。


 ふれられた箇所から全身にかけて、体内の疲労物質や老廃物が少しずつ消えていくのがわかる。ひらきっぱなしにしていた赤巻紙と黄巻紙に封をしたあと、僕は深呼吸をくりかえした。


「ありがとう。なんとか、なりそうだ」

「わたしたちは、まだ目的のものを取り返していない。今、あなたにへたばってもらうわけには、いかないの。アロンがきっかけになって、わたしが持ちかけた協力関係。最後まで、やりとげる。わたしは今、ワープで自分の疲労物質も除去してる。互いに回復したら、すぐ行動よ」


「ああ。ともかく時間は無駄にできない。体を休めているうちに現状を整理しよう。アリアンは新たな虚像を出さなくなった。つまり、やつの魔法の力は底をついたということ。彼の盗品のなかにも自身を即座に回復させる魔法装置のたぐいは、ないんだろう」

「問題はアリアン本体の居場所。あ、これも言っとくわね。わたし、途中の通路で下の道に入ったでしょ。あのあと逃げる右目をさっさと消滅させて先に進んだの。くねくね曲がっていたけれど、ずっと一本道だった。奥には寝室と書斎があった」


「そこがアリアンの居住スペースか」

「いいえ。ゆかにもベッドにも本棚にも、厚いほこりが積もってた。あそこは長いあいだ、誰も使っていない。もちろん一通り、さがしたわ。でも盗品も隠し通路も見つからなかった」

「とすれば現状あやしいのは」


 僕は視線を左に移した。そこには、教室棟の中庭の噴水に酷似する、大きな銀色のオブジェがある。相変わらず、反時計回りにねじれた八つの先端が特徴的だ。


「思えば巨像は、あのオブジェをよけるように、またいでいた。あれを調べよう」

「そうね。ところでアロン。アリアンの行動に関して、腑に落ちない点があると思わない?」


 右ひじに力を入れ、ソーラは横たえていた腰を僕の頭のほうに引き寄せた。そのあと上体を起こす。


「今、あいつは虹巻紙の所有者なのよね。具現の力を持つという」


 右手と左手を僕に添えた状態で、ソーラが瞳を向けてくる。


「その力を使ってアリアンは巻紙の無敵状態を攻略した。クーゼナス寮長になりすます際も、魔法で出した虚像を実体へと具現化させていたふしがある。もし寮長が単なる虚像だったら、すぐに先生たちに見抜かれていたはずだもの」

「ケルンストで会ったときは完全に虚像だったと思う。ただ、少なくとも寮内では明確な実体を有していた。食堂で普通にカレーを食べていたし」


「彼は虹巻紙を使える状況にあった。なのに、わたしたちとの直接戦闘において具現の力を用いなかった。でも虚像と実体を組み合わせれば、もっと有利に戦えたはずよね」

「虚像がゆかを歩いたり天井にぶつかったりするところは実体に近かったけれど、それも虚像魔法の範疇だろうしね。また、不可解な点は、ほかにもある。やつが途中で出した五人の虚像は、僕たちの知っている顔だった。シルクハットの彼も、君の担当教員だったんだろう?」


「ええ。閉鎖魔法の使い手、ロロハーツ・テルドーの外見で間違いなかった。瞳を除いて」

「よく考えれば、これは変じゃないか。本気で勝ちたいなら、僕たちの知らない人物を虚像として出現させるべきだった。情報が少ない相手のほうが、戦いにくいわけだから」


 ここで僕は、あお向けのまま両ひざを立てた。


「つまり最初から、アリアンは全盛期よりも大幅に弱体化していた。虹巻紙を自在にあやつれる状態になかった。自身の虚像も上手く制御できなくなっていた。やつの盗品のなかには攻撃に使える魔法装置もありそうだけど、それらを使用することもなく」

「確かに、彼が明確に自分以外の力を用いたのは、わたしたちが地下に入ってきたときだけ。なんらかの理由でアリアンは、かつての力を出せず、自由に動けなかったのね」


 彼女は手の力を抜き、ぼそりと言った。


「たとえば不治の病にでも、かかっていたのかしら」

「もしかすると心のどこかでアリアンは、自分に『かせ』をかけていたのかもしれない」


 そもそも僕が調べた情報によると、世界的な犯罪者の彼も家族には甘かったという。活動停止と共に自分の存在を戸籍から抹消したのも、身内に迷惑をかけないため。


 その根本が変わっていないとしたら。

 アリアンが僕たちをしりぞけようとする一方で、娘のソーラを強く意識していたとしたら。


(やつは虚像でソーラの正確な見た目を再現した。服装も、彼女自身の体格と容姿も、完璧にコピーしていた。でもそのなかでスパッツの色だけは微妙に間違えた。変な仮説だけど、アリアンは父親として、娘のはいているそれをまじまじと観察できなかったのでは)


 ちょうど僕の顔の右隣で彼女のひざが突き出されていた。灰色のニーソックスと、スカート丈の短いワンピースのようなチュニック。そのすそから、わずかに見える黒いスパッツ。

 全体的に破れたり切れたりしている繊維が、青巻紙の水や彼女自身の汗のせいで、ところどころ肌に吸い付いている。


 ニーソックスとスパッツのあいだに位置する帯のような白い素肌が、ほんのり赤らむ。そこを見た瞬間、僕は反射的に目をそらした。


「ここ数年で変化している部分も彼にはありそうだ。六年前、やつは虹巻紙に加え、僕の三色の巻紙も盗もうとして失敗したらしい。巻紙自体に拒否されたようだ。でもこの話が本当だとすると、赤巻紙がアリアンを次の所有者と見なし、彼のもとに飛んでいった事実と矛盾する」

「今のアリアンは当時の彼とは違う存在になっている可能性が高いってわけね」


「まあね。ところで、僕の魔法の力も回復した。感謝するよ。そろそろオブジェを調べよう」

「ええ、でもよければその前に。わたしを乾かして。できれば水も」

「わかった。赤巻紙」


 僕は上半身を起こしたあと巻紙の字をなぞり、彼女の髪や服に残っていた水分を「乾燥」させた。


 そのとき、ソーラの両手が僕の額と右手から離れた。


「ワープ魔法で水を飛ばせばいいのでは、とか思ってるでしょ」


 ツーサイドアップの根元のヘアゴムを少し引っ張り、彼女はひかえめに笑った。


「カディナ砂漠での戦闘後、わたしが髪や服の水分を外に逃がさなかったのは、アロンに巻紙魔法を使わせてその力を見るためだった。でも今は違う。あなたの魔法が、あったかいから」


 やや紅潮した顔を下に向け、ソーラはチュニックのすそを両手でつかんだ。


「ところで、その、アロン」


 少し言いよどむ。

 彼女はゆっくり吐息を出し、すずしげな声で、こう続けた。


「ありがとう。ずっと、わたしに協力してくれて。あなたもあなたの目的のためにわたしを使っただけというのは、わかってる。お互いにお互いを利用し合う関係だった。それでも、お礼を言わせて。今回の件が片付いたらわたしたちは他人に戻る。だから、今のうちに」

「じゃあ僕からも。ありがとう、ソーラ。今までのこと全部に関して」


 赤巻紙をとじ、僕は青巻紙をひらいた。そして「水」をソーラの前に「滞空」させる。


「水に『冷却』をかけて温度を下げてみた。冷たすぎない?」

「ごくごく。しみわたるわね」


 手で口元を隠しながら、彼女はすべて飲んだ。僕がそのとき出したのは二百ミリリットルの純水。それが一瞬でソーラの口のなかに消えた。ほとんどないに等しい彼女の「のどぼとけ」が、激しく上下したようにも感じられた。


 僕自身も、青巻紙による水分補給を済ませる。

 それから僕とソーラは飛んで、二十メートルの高さにあるオブジェの先端に上がった。


「周囲の壁に異常はないみたいだから、あやしいのは、このなかね」


 オブジェは、円錐のとんがり帽子の先端を八つに裂いたような形状をしている。


 僕たちは、ぱっくりひらいた銀色の帽子のなかをのぞき込んだ。さきほどの戦いのときは気にとめていなかったが、どうやら内側は空洞のようだ。


 ここを降下し、着地する。ゆかの色は外側と同じ薄い青。

 銀色のオブジェの底に僕たちは立っている。底のかたちは円形。直径は十二メートルほど。光沢を持つ石の壁が斜めに立てられ、内部を取り囲む。


 空洞内を見回したところ、壁際に一人の男性が横たわっていた。一糸まとわぬ姿で、あお向けに。

 スーツのジャケットを脱いで、僕は彼の体にかぶせた。戦いのなかで切れたり破れたりボタンが飛んだりしたものの、身をおおうだけなら不足はない。


 僕の上半身の格好は、黒ネクタイと白いワイシャツのみになった。


(虹巻紙を取り返すまでは真っ黒な喪服スタイルをつらぬくつもりだったけど、さすがに彼を生まれたままの姿で放置するわけにはいかない。服のこだわりは、いったん捨てよう)


 倒れていた男性は初老で、白髪交じりの金髪だった。ベリーショートである。ひげは生えていない。意識を失っていたが、脈も呼吸もあった。まぶたをひらき、まばたきもせず、灰色の大きな目で虚空を見つめている。アリアンの虚像ではないようで、ふれることができた。


 ソーラはワープ魔法で彼の回復を試みつつ、首を横に振る。


「実体ではあるけれど、この人はアリアンの本体じゃないわ。目の色も顔も違うから」

「ということは、彼が本物のクーゼナス・ジェイ。やはりアリアンは寮長本人じゃなかったのか。二人が別人だったなら、やつが戦闘中に水道魔法を使わなかったことにも合点がいく」

「そうね、きゃ!」


 このとき、なにかが外れるような大きな音が鳴り響いた。同時に、強い横揺れが僕たちを襲った。立っていた僕も、しゃがんで本物の寮長の手首をにぎっていたソーラも、体勢をくずした。そして振動が収まったあと、今度は縦に内臓が浮き上がる感覚を味わった。


 空洞の中央に戻って、僕は斜め上に視線をやった。そうしてオブジェの外の空間を確認する。白い天井に、ソーラのあけた正方形のくぼみが小さく見える。そのサイズが、さらに縮んでいく。天井が僕たちから遠ざかっているということだ。


「ゆか全体が下降を始めた。罠かもしれない。脱出するのも手だけど」

「アリアンの思考も理解できるわ」


 寮長の手首をにぎったまま、ソーラは片ひざを立てて不敵に笑った。


「このままわたしたちを帰せば学園に報告されて終わり。とはいえ、もう虚像の遠隔操作による攻撃はできない。だから最終手段として本体のもとに案内し、じきじきに侵入者二人を始末しようって腹づもりなんでしょ。こちらにとっても望むところよ。乗ってやろうじゃない」

「そう言うと思った。異存はないよ」


 青巻紙の「滞空」「浮上」に指を置き、僕は宙に上がる。


「一応、オブジェの先端で周囲の様子を確認しておく。実際に罠だったら対処する」

「助かるわ」


 ソーラは黒髪の状態。体内から疲労物質などをワープさせて寮長を回復させているところ。銀髪になれば、ゆかや壁に透過魔法を発動させて周囲の様子を知ることは可能だろうが、今は頼めない。


 僕は二十メートル上昇し、オブジェの八つの先端の一つに立った。

 もう外にほとんど光はない。白い天井から離れるたびにあたりが暗くなる。僕は黄巻紙の封をとく。「照明」「強化」をなぞり、巻紙自体を光らせ、半径五十メートルの視界を確保する。


 なお、ソーラと寮長のいるオブジェの空洞内部については、ゆか自体が光を発しているため照らす必要はない。


「現在このオブジェは、ゆかごと円筒形の空間を下降している。取り囲んでいた二メートルくらいの壁のほうは一緒じゃない。直方体の大きな空間の、オブジェのあった部分だけがエレベーターみたいに真下に向かっている。今のところ、罠らしきものはない」


 下の彼女に聞こえるよう、僕は大きな声で状況を伝えた。しばらくは「異常なし」「変化なし」という報告を続けることになった。


(それにしても、きょうの僕たちは、おりてばかりだ。カディナに積もった黄土色の砂に沈み、三角柱の空間を縦に抜け、現在もオブジェと共に落ちている。アリアンは地中の底で、なにをしているんだ。当局や学園から逃げるためとはいえ、ここまでして身を隠す理由があるのか)


 どれほどの時間が経過したのだろう。明け方にデリングリンを起動させ、巻紙に連れられ、アリアンの本拠地で戦って。無限に思える時間だった。


(ジャケットの内ポケットに懐中時計は入れていたけど、それは寮長にかぶせたまま。彼のそばにいるソーラに頼むか、あるいは僕がちょっとおりれば時刻は簡単に確認できる。でも今さら、時計の針を見る意味はない)


 時間よりも確かな過程を積み重ね、僕たちは、ここまで来たのだから。


* *


 やがて円筒形の空間も終わり、さらに巨大な部屋に出る。もう上を見ても、白い天井はない。オブジェは、まだ下降を続ける。周囲は真っ暗闇。黄巻紙の照明では全体を照らしきれず、室内のかたちは判然としない。


 ただし、ゆかに多くの「なにか」が転がっているようだ。かたちも大きさも、さまざまである。数えきれないほどの「それら」がゆかに投げ出され、至るところに散らかっていた。


「きっと盗品の保管場所ね。さすがに量が違うわ」


 すずしげな小声が後ろから聞こえた。振り返ると、ソーラの背中が見えた。僕のいる先端の反対側の足場に立ち、彼女も部屋を見下ろしている。


「クーゼナス寮長の回復は、できるところまで済ませたわ。彼は目をとじ、眠り始めた。しばらくはオブジェのなかにいたほうが安全でしょうから、寝かせたままにしてる」

「おつかれ、ソーラ。君の判断でいいと思う」


「アロンも見張り、ご苦労さま」

「結局、罠はなかったけどね。ともあれ、いよいよ最後だ。気を引き締めよう」


 そしてオブジェは、部屋のゆかに到達すると同時にとまった。停止の際のにぶい音を聞いたあと、僕とソーラは、オブジェの外に広がる空間におりた。

 黄巻紙の照明を維持した状態で、暗闇を進む。すえたにおいが、かすかにあたりをつつんでいる。


 無造作に転がっている盗品の一つをゆかから拾い、僕はそれを観察した。手の平に収まるほどの黒い板。楕円形で、厚さは五ミリくらい。硬い表面に白い傷をつけ、文字を刻んでいる。


(クウァリファット語で「レザウェルの無音」と書いてある。いや、この言語では、似た言葉が反対の意味にも使われるんだった。正確に訳すなら「レザウェルの肉声」だろう。とすれば、これは当時の音声を記録した魔法媒体か)


 実際に二百年前の革命家の声を再生できるなら、計り知れない歴史的価値を持つことになる。当時は音声による記録媒体も、ほとんどなかったという。それを考慮すると、さらに希少価値が上がる。


(しかもこの記録媒体。学園の図書館に保管されているものより、かなり古いタイプ。まさかレザウェルが、じきじきに録音したものか。通常、昔の人間の肉声を現代に伝える場合、改良された媒体にそれを録音しなおす。ただし音質が悪くても、当時に近いものほど貴重とされる)


 ごくりと僕は、つばを飲んだ。広大なゆかに投げ出されている一つ一つが、これと同等以上の価値を有するなら、アリアンの総資産は誇張抜きで天文学的数字に達する。全部売却すれば彼のググーは一国すらも飲み込む大きさに成長するだろう。


(こんなの、腕利きの魔法使いと最高峰の魔法装置を複数配置して守らせるに決まってる。それを彼は数えきれないほど突破したのか。全盛期のアリアンは、どれほど強かったんだ。やったことは、ただの窃盗や強盗だったけれど、本当に彼は魔法使いとして、すごすぎた)


 あらためて黄巻紙の照らす範囲を僕は見回す。鏡、風景画、象牙、刀剣、金貨、じゅうたん、宝石、巻物、巨大な船などが濃い影を帯びつつ無造作に横たわっていた。それらの価値は僕にはわからないが、すえたにおいのなかにあっても、おのおのが荘厳な雰囲気につつまれている。


 謎の赤い多面体や二十以上のパイプにつながれたボールも転がっている。用途も正体も不明。アリアンの盗んだ魔法装置の一部と思われる。こちらは荘厳というより不気味だった。

 しかし苦労して手に入れたはずのものを管理するにしては、保管方法が適切でないように感じる。乱雑にゆかに投げ出すのではなく、せめて棚に並べるくらいはできたはずだ。


 そう思ったときだった。突然、手に持っていた黒い板が割れて、こなごなになった。


「なんでだ? いくら古いものといっても。力は入れてないし、表面は硬かったはず」

「落ち着きなさい、アロン。わたしも三個ほど壊してしまったわ。お皿と棒と本を」


 ソーラが右隣に立ち、僕の手からこぼれる黒い破片を見ていた。


「経年劣化のせいじゃなくて、さわられたら崩壊するみたい。ここにある盗品すべてが、そういう魔法にかかってるんじゃないかしら」

「だからアリアンは僕たちとの戦闘で、持っているはずの魔法装置を使用しなかったのか」


 ともかく僕たちは盗品の数々を踏まないように、あるいは蹴らないように気を付けながら、オブジェから離れて部屋の奥に歩いていく。空中移動も可能だったが、相手の本体がどこにいるかわからない以上、空間をいたずらに飛び回って魔法の力を消費すべきではない。


「聞こえてるでしょ、アリアン」


 彼女は、大きくも小さくもない声で暗闇に呼びかける。


「こつこつ悪事を働いて、ためにためた盗品がほとんど、だめになっちゃったのね。ここまでくると恨みも失せるわ。別にあなたに憐れみなんか感じちゃいない。だって盗まれた人は、それ以上につらかったはずだから。『ざまあみろ』とさえ、あなたは思わせてくれないの?」


 返事をしない闇に向かって、ソーラは続ける。


「わたし、小さいころ、あなたに憧れてたのよ。当時のわたしは、あなたのやっていることを知らなかったもの。家にいない時間は多かったけれど、お母さんには優しくするし、わたしとも笑って遊んでくれた。とくに虚像魔法で、いろんな服を着せてもらえるのが好きだった」


 彼女は右手で、ハーフツインの後ろ髪をかき上げた。


「黒髪は八歳のときの誕生日プレゼント。大きくなればもっと似合うようになると言って、あなたが手渡した。足で踏みそうになるくらい長かった黒髪をお母さんがツインテールにまとめてくれた。おばあちゃんから受け取っていた銀髪と一緒に、この黒髪も大切にしようと思えた」


 前方だけでなく右や左、ときには後ろの闇も見ながら、ソーラは声をふるわせる。


「ただ、黒髪をかぶるとワープ魔法が使えることにわたしは気付いた。これも故人の魔法を宿す遺髪だとわかった。だからわたし一回だけ、ワープと透過を組み合わせ、外出するあなたのあとを追ったの。黒髪が誰の遺髪か知れるかなと思って。根拠もなく、そう信じて」


 胸を押さえて彼女は、真上の闇にも声をかける。


「結果、あなたが仕事仲間と打ち合わせする場面に遭遇した。そのとき、自分の父親が『鏡の巨像』であるとわたしは知った。普段のあなたなら尾行に気付かないわけがないんだけど。まさか十歳にも満たない自分の娘に追跡されるなんて思ってなかったんでしょう」


 そのときソーラは、ゆかの盗品の一つにつまずきそうになった。しかし僕がささえるまでもなく、彼女は体のバランスを保って歩いた。


「あなたはお母さんにも自分の裏の顔を隠していた。本職はボディーガードで、守秘義務があるから詳細は話せないと語って。だからわたし、言えなかった。母の死に際に立ち会っても、最後までわたしはあなたの真実を伝えられなかった。当局に知らせたのは、結局そのあと」

「自分を責めるもんじゃないよ、ソーラ。まだ小さかったんだから」


 そう答えたのは、やはり僕ではなかった。あまりにも細い声が鼓膜を揺らす。

 浅い呼吸音が前方の闇から聞こえる。


「いるのね、アリアン」


 ソーラは歩幅を大きくし、声のしたほうに急ぐ。


「生前に母は自分の髪をそり、かつらに仕立てなおしてわたしに託した。『アリアンにだけは渡すな』と言い残して。でも葬式のあと、遺髪と一緒にあなたは消えた。もしかしたら、お母さんもあなたの正体を知っていたのかもね。それで盗まれることを予期して、あの遺言を」

「いいや、ケイルはわたしを愛していただけだよ」


 その声は、吐息同然だった。かすれて、聞き取りづらかった。


 黄巻紙の照明をつけたまま僕はソーラについていく。すると、盗品のまったく置かれていないスペースが闇のなかから現れた。そこに人影が揺れていた。

 ひらいたままの青巻紙と黄巻紙をなぞって僕は即座に攻撃しようとした。しかし、やめた。


 彼は、なにも着ていなかった。

 ほおがこけているとか、ほとんど骨と皮の状態だとか、そんなことよりも彼の体に右半身がないことに僕は驚いた。左半身だけで彼は直立し、ソーラに言葉を返したのである。


 左半分の金髪は白髪交じりというよりも茶髪交じり。大きな左目は、きらめく赤。

 内臓などの流出を抑えるかのように、半身の切断面には人の肌と同じ色と質感が重ねられている。


「こんな虚像を作る意味もないわね。今さらわたしたちに泣き落としは通じないってわかってるでしょうし。間違いないわ、アロン。彼こそがアリアン・クラレスの本体よ」


 対して、僕は声を出せなかった。アリアンをさがし出すことをずっと望んでいたはずなのに。


 ソーラは左腕で両目をこすり、彼を再び見つめる。


「てっきり最後の力をふりしぼってわたしたちを始末するんじゃないかと思ってたけど、本体をさらしたってことは、もうその気もないってことね。それにしてもあなた、そんな状態で戦ってたの? まさか、わたしたちの攻撃を受け続けたせいで」

「違うよ。ソーラとアロンくんに魔法の力をけずられて虚像を出せなくなったのは事実だが、わたしがこの体になったのは、ずっと前のことだ。もはや、ここから逃げることもできずにいた」


 アリアンは半分になったあごの先を動かし、自身の鎖骨をたたいた。


「右半身が腐り始めてね。だから左半身に必要最低限の内臓を退避させたうえで、腐った右を切り離したというわけさ。捨てた半身はカディナ砂漠にうめた。断面はわたしの虚像で補強した。虹巻紙の具現の力も使用し、皮膚や脂肪、血管、骨などを新たに作り、生命を維持した」


 彼の左胸の前に、虹色の巻紙がひらいた状態で浮いていた。


「原因は彼女の魔法。それにかかった五年前からわたし自身が破滅へと向かい始めたんだ。わたしの周りのコレクションも、ほぼ全滅した。ちなみに今のところ破滅は徐々に蓄積される状態にすぎない。ソーラたちが近くにいても、一日程度なら害はないから安心してほしい」


「ご丁寧に、どうも。で、五年前から活動をぱったりやめた理由が、その魔法ってわけ? だけどあなたほどの魔法使いを弱らせることができた『彼女』って誰よ」

「本当は察しているだろう、ソーラ。彼女とはケイル、わたしの伴侶、お母さんしかいないじゃないか。その遺髪を盗んでからわたしは姿を消したんだよ。簡単に推測できるはずさ」


 アリアンは、わきに髪をはさんでいた。緑と紫が交じった、つやのある毛髪だ。


「この遺髪は、ケイルの『破滅魔法』を宿している。彼女の直接の死因は、自身の魔法だ」

「でたらめってわけじゃ、ないのね」


 父親の、しんみりとした、しぼり出すような声を聞き、ソーラのまぶたが少し下がった。


「だけどそんなこと、お母さんは、ひと言も」

「安易に伝えられることでもない。母親が破滅魔法を持っていた事実が世間に知れ渡れば、ソーラの人生がめちゃくちゃになるから。娘のほうもそうなんじゃないかってみんなが思う」


「なにを根拠に言ってんのよ」

「レザウェルの革命後、魔法使いの血筋は絶対ではなくなったと歴史では習う。だが、そうとは限らないのが現実。事実、アロンくんの巻紙魔法は先祖代々、受け継がれてきたもの。ソーラ自身が破滅の魔法を使えないことをわたしは知っているが、みんなは憶測で人を判断するよ」


 いとおしそうに彼は、わきで遺髪を動かした。


「みずからの魔法で死に始めたとき、彼女は自分の遺体から破滅の力が漏れ出ることを恐れた。また、体の消滅を試みれば破滅魔法が抵抗して周囲に甚大な被害をおよぼすとも直感した。だから亡くなる直前、ケイルは自分の全体をおおっていた破滅魔法を髪に集中させ、切り離した」


 アリアンは続ける。


「これを健康なときにやろうとすれば、髪が生えそろうと同時に破滅魔法が本体において復活し、切り離した髪からも魔法の力が失われる。また、髪そのものに『自分が死んだ』と認識されると魔法の暴走を招く。それを回避するためには生きた誰かに遺髪を使用してもらう必要があった。そういう経緯でケイルは娘に髪を託した。もちろん破滅を押し付けたわけじゃない」


 ときどき彼は、ソーラだけでなく僕のほうにも赤い瞳を向けていた。


「遺髪に宿った故人の魔法をじかに使用できるソーラなら、破滅自体を抑え込むことが可能とケイルは考えた。亡くなるまで彼女も破滅を抑制できていたから」


 アリアンは自分の声が聞き取りづらいことを自覚しているのか、ゆっくりと話を進める。


「そしてソーラはずっと同じ髪をかぶるわけじゃない。黒髪も銀髪も、天然の頭もある。定期的にケイルの髪をつけるだけなら、遺髪に宿った破滅魔法の機嫌をとりつつ、その影響を最小限に抑えられる。上手く付き合えばソーラは健康のまま天寿をまっとうできるはず」

「だったらお母さんは髪を渡すとき、どうしてわたしに破滅魔法のことやあなたが今言ったアドバイスを伝えなかったのよ。みんなに聞かれたくないなら、わたしにだけこっそり教えれば」


「無論そのつもりだった。しかし破滅の力を髪に集めて切り離しても、彼女の体には残りかすがあった。その残りかすが最後の防衛本能を働かせた。ケイルが娘にいろいろ聞かせるよりも前に、破滅魔法全体を守るべく残りかすが彼女のいのちにとどめを刺したというわけだ」

「だったら無理に口で言うんじゃなくて、紙に残せばよかったんじゃ」


「筆をとっても、破滅魔法について書こうとすれば手がけいれんし、結局は字にすらならなかった。また、記録媒体による声の録音も試したが失敗した」

「そう。でもさっきから疑問なんだけど、あなた、どうしてそんなに詳しいの」


「わたしもケイルからじかに全部を聞いたわけじゃないが、伴侶の状況や思考を察してやれないほど鈍感でもないんだよ」

「じゃあ、なんであなたはそれを言ってくれなかったのかしら」


 ソーラは左の手の平を自身の髪の上に置いた。


「お母さんがわたしにいろいろ伝えられなかったのはわかったけど、最低限の情報に関しては、あなたも持っていたわけよね。それさえあれば、わたしは破滅を抑える方法をさがしてみせたわ」

「だからだ。本当のことを知れば、ソーラは必ず引き受ける。だが当時のソーラは、せいぜい十歳を超えたばかり。そんな娘に破滅魔法を任せられるか。『娘には、まだ早い』とわたしは判断した。いずれ託すときは来る。しかし、それまではわたしが遺髪を持とうと決めた」


「わかってきたわ。お母さんがあなたに遺髪を渡すなと言ったのはあなたのことが嫌いだったからじゃなくて、むしろあなたのことを大切に思っていたから。遺髪を奪ったあなたが、わたしの代わりに破滅を引き受けるという未来を、お母さんは予想してたってわけね」

「じかに故人の魔法をあやつれるソーラとは違って、わたしがケイルの遺髪を持っていれば確実に破滅する。ろくに制御できずにね。それを彼女は心配してくれた。ケイルにとって、誰も傷つかないで済む可能性のある選択は、娘に遺髪をかぶってもらうことだけだった」


「でもあなたは遺髪を奪って消えた。まさか、こう考えたんじゃないでしょうね。『ソーラが魔法使いとして成長し、確実に破滅魔法を制御できる状態になるまで遺髪を渡さない。わたし一人が犠牲になれば、わたし以外のすべての人が破滅しないで済む』とか。ないわね」

「どうだかね。わたしは数多くの貴重なものを盗んで多くの人間を破滅させた。今さら、他人が不幸に落ちようが知ったことじゃない。ただケイルやソーラには幸せになってほしいし、誰も破滅させてほしくない。虫のいい話と思われるだろうが、わたしは元から強欲なんだよ」


「本当はわたしを殺す気もなかったって言い出すつもり?」

「少なくとも、きょう一日は試していた。先制攻撃をかけ、ソーラの闘志をたきつけたうえで」


「学園長、キュリア・ゼルドル、ハフル・フォート、メアラ・サイフロスト先生、ロロハーツ・テルドー先生。わたしとアロンの知っている魔法使いだけを虚像で出現させたのも、その一環ってわけね」

「それもあるが、彼等五人を選んだ最たる理由は、やっぱりイメージしやすかったからだ。ソーラとアロンくんを見ていると、君たちと縁のある人物が頭のなかに浮かんできてね」


「負けていたら、今ごろわたしたちは、どうなっていたのかしら」

「遺髪を託すに足る力量がない場合は、ここに軟禁し、わたしがじきじきに鍛える気でいた」


「なにそれ、父親が娘に対して言う台詞?」

「わたしだって嫌だよ。だからわざわざ、わたしをさがし出せば後悔すると忠告したのに。君たちがここに来るのは、もう少し、あとであるべきだったんだ。にしてもソーラ、さっきからわたしに聞いてばかりだね」


「質問攻めで勘弁してやってるんだから、ありがたく思ってよ。本来あなたは、問答無用でボコボコにされても、おかしくないのよ。ついでに、もう一つ答えなさい。わたしはともかく、アロンをどうする気だったの」

「ソーラが選んだ協力者だ。少々強引に攻めても、どうせ死なないと思っていたさ。ただし虹巻紙を返すという嘘の提案に彼が乗った場合は、もう少し痛めつけていたかもしれない」


「……その提案、やっぱり本気じゃなかったのか。ところでアリアン。僕からも聞きたい」


 僕は二人が話しているあいだ、黙って黄巻紙の照明を維持することしかできなかった。しかしアリアン本体に対する驚きも落ち着いてきて、ようやく声を出せた。


(別にわたしは若者同士の交際を邪魔したいわけじゃない)

(わたしは我慢してるだけさ)


 寮長の姿でアリアンが口走った言葉が、そのときなぜか思い出された。


「ケイルさんが亡くなる一年前にあなたが虹巻紙を盗んだのは、破滅魔法をみずから引き受けるためですか。虹巻紙の具現の力で体を補強し続ければ、破滅の進行を抑えられると考えて。虹巻紙の詳細は僕も父から聞かされていませんでしたが、あなたならその情報も」


「いやいや、アロンくん。当時のわたしは、そこまで考えていなかったよ。君の家の地下倉庫から虹巻紙をいただいた理由は、純粋に『コレクションに加えたかった』から。破滅魔法に対抗する手段として虹巻紙を使うことを思い付いたのは、ケイルの遺髪を奪ったあとさ」


 アリアンは、かすれた声で笑った。左の口角だけを上げて。


「この地下空間全体もわたしのコレクションの一つ」


 彼は首と腰をひねって、あたりの闇に、赤い瞳の視線を送った。真上にも目を向けた。


「黒いエレベーターのある入り口も含めてね。地中を移動する秘密基地といったところか。現役時代は、よくこれで追跡をかわしたものさ。ただし現在、破滅魔法のおかげで基地の移動は不可能。ほかの盗品に比べて巨大だから崩壊には至っていないが」

「移動基地を使用してあなたはカディナ砂漠の地下に潜伏したというわけですか。元から草木一本すら生えていない不毛の地であれば、誰にも破滅の力の影響を与えずに済むと考えて」


「そうだ。しかしそこは、世界最高峰の魔法使いたちがつどう学園ファカルオンの土地でもあった。このリスクを負ってまでカディナを選んだ理由は、もう一つ。娘を待つためだ。ソーラなら、強さを求めて必ずここに来ると思った。そして娘の卒業と共に遺髪を返す予定だった」

「そのためにあなたは寮長も」


「クーゼナス・ジェイになりすましたのは外の情報を得るためさ。虚像だけでは見抜かれてしまうから虹巻紙の具現の力で実体を作った。本物は捕らえ、砂漠の地下に幽閉した。長いあいだ学園にいる可能性が高く、かつ実力的にも誘拐が容易という理由で彼を選んだ」


 彼がいつも着ている燕尾服はイメージを固めやすく好都合だったとアリアンは付け加えた。


「虚像魔法で彼に幻影を見せ、水道魔法を使わせ続けた。教室棟の中庭のオブジェはクーゼナスがデザインしたもの。あれと酷似するオブジェを地下にも設置し、学園と地中とにリンクを作成した。これにより、彼の魔法の力を学園全体に届け、わたしは本物のように振る舞えた」


 そういえばクーゼナス寮長は、例のオブジェのなかにいた。その周りに広がるゆかと壁のきらめく青は、寮長の持つ「水」のイメージの反映だったのかもしれない。アリアンの見せる幻影のなかで寮長がいだいた、一つの夢の現れだったのかもしれない。


「戸籍からわたしの名前を抹消したうえでソーラを待ち続けた。およそ五年が経過し、我が娘は案の定ファカルオンに来た。すでにわたしの体は左半身だけになっていた。娘が初めてのダカルオンで準優勝したと聞いても『遺髪を託すには、まだ足りない』と思った」


 ここでアリアンは、荒い息をはくように「だが」と口にした。


「そのあと十日ほど経って、ソーラが寮生のアロンくんとカディナ砂漠で決闘している現場を見た。砂の粒に扮した黄土色の虚像を介して。例の巻紙魔法の継承者が娘と同時期に入学したのはわかっていた。それだけでも奇妙な縁を感じていたのに、わたしはさらに驚かされた」


 彼はソーラと僕を交互に見てから、僕たちのあいだの虚空に視線を移した。


「このときのわたしはケイルの遺髪をわきにはさみ、虹巻紙を手元に浮かせていた。ちょうど今のようにね。ちなみに具現の力が強いせいか虹巻紙は破滅の影響を受けないらしい」


 呼吸を連続させ、アリアンは声を落ち着かせる。

 緑と紫の交じった遺髪と、虹巻紙のはしに指でふれ、左肩を上下させる。


「ともあれ、わたしが奪って、しかも肌身離さず持ち続けているその二つの盗品の最大の被害者二人が、わたしの頭の上で戦いをくりひろげていたんだ。感動以上のなにかを覚えた。同時に、『ソーラたちは、こちらの居場所に気付き始めているのでは』と心配にもなった」


「……それでケルンストでアロンに接触したというわけね。学園の外でなら先生たちに露見するリスクも低いでしょうし。『カディナ砂漠の下になにかあるのでは』と報告されて念入りに調べられたら、あなたは地下にいられなくなる。だから先手をうってこちらの動きを牽制した」


 ソーラは右目をとじ、左目だけで彼の瞳を凝視していた。


「でもわたしに直接忠告すれば逆にたきつけてしまうだろうとあなたは考えた。結果、『真面目で、いい寮生』に見えるアロンにだけ会った。でも残念ながらその時点でわたしたちは砂漠の地下にアリアン・クラレスがいるかもなんて思ってなかった。しかも」


 左隣の僕のほうに、彼女は一瞬だけ笑いかけた。


「本当のアロン・シューは、ただの『いい寮生』じゃなかったのよね」

「見事に読み違えたよ」


 ややうつむいた格好でアリアンは、ため息を漏らした。


「こちらから接触したのは悪手だったかな」

「いいえ。あなたが動かなくても、わたしとアロンは、ここに来ていた」

「ふむ。そういえば、きょうはダカルオンの翌日。なるほど、賞品のデリングリンを使ったと見える。赤巻紙が無敵状態で飛んでいたことも加味して再考してみよう」


 彼は顔を真下に向け、額の近くを中指でぐりぐり動かす仕草をした。


「もしかして、アロンくん自身の存在を消したということか。それに巻紙自体が反応を起こしたとすれば説明がつく。現に虹巻紙を持っているのがわたし、という事実も関係していそうだね。もう少し時間があれば、対処できただろうに」

「そうかもね。ところであなた、なんでそんなに、さっきからぺらぺらしゃべっているの」


 ソーラのすずしげな声音に対し、アリアンの中指がとまる。


「今まで秘密をかかえて逃げてきたわりには、なかなか殊勝じゃない? もしかして、事情を話せば、『破滅魔法が関わっていたなら仕方ない』とわたしが考えを改め、すごすご引き返し、学園にも報告せず、卒業まであなたを待つとでも思ったの。思ってないわよね」

「悪あがきだよ。これが通じるという確信があるなら、最初から打ち明けている」


 顔を上げ、彼は僕のほうに左目を向けた。


「アロンくんの気持ちは、どうかね」


「確かにあなたへの認識は変わりました。でも僕の行動は変わりません。『虹巻紙をアリアン・クラレスから取り返す』という目的を終わらせ、先に進むだけです」

「君も芯の強い男の子だな。そしてソーラ、最後の確認だが」


 まばたきしながらアリアンは、彼女のハーフツインの黒髪に目を走らせた。


「本当に、見て見ぬふりは、してくれないのか」


「できない。お母さんの遺髪を取り戻すためにわざわざ来たんだから」

「ソーラはわたしのことを心配しているんじゃないだろうね。破滅魔法を一身に引き受けることはないと。父に背負わせるくらいなら自分が、と。さすがに思ってないか。勘違いも度が過ぎた。ただのどろぼうで、家族からも逃げ、破滅におおわれた者の当然の末路」

「思ってるわよ」


 彼女は彼の言葉が終わる前に、淡々と口にした。


 直後、アリアンが目を見ひらく。

 さきほどからずっとソーラは、左手を自分の髪の上に置いていた。ここで彼女はその手を下ろし、灰色のチュニックのすそをつかんだ。


「当然の末路とも、あなた一人だけにお母さんの魔法を背負わせてなるものかとも。両方、思ってるに決まってるでしょ」


 それからゆっくりと手をひらき、すそに出来たシワを伸ばす。


「あなたの行為にお礼を言うつもりはない。『気付かなくてごめん』と謝る気もない。『こんなやむを得ない事情が』なんて同情も湧かない。過去の罪をつぐなおうともせず、あまつさえクーゼナス寮長を監禁していた。あなたは悪党よ」


 さらにソーラは、とじていた右目をあけ、両方の瞳でアリアンの左目を見た。


「ただ、あなたは昔から。いや今でも、お母さんの伴侶で、わたしの父なの。この事実からわたしは逃げたくない。わたしはあなたの真実にさえ、負けたくない」

「どこまでも、まっすぐなことだ。だが、それが。ああ、なるほど」


 アリアンの左目が、けいれんしたように、激しいまばたきをくりかえす。


「もうソーラは、じゅうぶん強くなっていたのか。人としても、魔法使いとしても」

「まだ極めるわ」

「これは、敵わないわけだ」


 全身をふるわせ、かすかに彼は笑う。遺髪をわきにはさみ、左手で腹部を押さえながら。


「本当は今までの戦いでわかっていたはずだ。心も体も魔法についても、ソーラの力は申し分なかった。ケイルの遺髪を託すに足る。もちろんアロンくんもすごかった。しかしわたしはそれをみとめるのを拒否し、意固地になっていたらしい。なぜだろうね」

「あなたがわたしたちと同じで、負けず嫌いだからでしょうよ」

「かもしれない。ともあれ娘とその友達の成長は、本来みとめてあげたいものだ。だから、言うことにしよう。今度こそ本気で観念した、わたしは敗者だ」


 深呼吸して、彼はゆっくりと、一音節ずつ丁寧に発音した。


「ソーラとアロンくんの、勝利だ」

「なに勝手に敗北宣言してんのよ」


 右手で黒髪をなでながら、彼女は首を横に振る。


「それぞれの形見を取り返すまで、わたしたちは勝ってすらいないわ」

「では、ひと思いにわたしの体から虹巻紙とケイルの遺髪を取り上げてくれ。娘の成長がわかった今、わたしが所有する意味もない。どのみち、もう抵抗は不可能。破滅魔法の抑制方法についてはわたしにも五年間のノウハウがある。ソーラには、それを伝えよう」


「あなた自身が渡せばいいのに、とは言わないでおくわ。わたしたちが自分の意思でそれらを手に取ることが重要だし、あなたにも盗品に対する未練があるだろうから。ところで遺髪はともかく、さわった瞬間にあなたの体や虹巻紙がこなごなになったりしないでしょうね」

「すでに伝えたとおり虹巻紙は破滅の影響を受けない。左半身で生命を維持できているのも、わたし自身の虚像魔法と虹巻紙の具現の力を集中させているから。ふれても、周囲の魔法装置とは違って壊れることはない」



「――あなたは虹巻紙の力の大半を体の維持に使っていたようですね」

「そうだよ、アロンくん」


「だから戦闘中、あなたは具現魔法による攻撃をおこなわなかったというわけですか。でも僕たちが三角柱の空間をおりていたときに限っては、虹巻紙を使用したんじゃありません?」

「無敵状態と思しき君たちを攻略する方法が、それしかなかったからね」

「ただ、あなたが虹巻紙で生きながらえているなら」


 僕はアリアンに対し、軽く手を挙げて、おそるおそる聞いた。


「巻紙を取り上げられたとき、あなたは死ぬんですか」

「死なないよ。一度、虹巻紙で具現させたものは封をしたあとも消えないから。まあ、ケイルの遺髪を所有した状態で虹巻紙を手放せば、破滅魔法に飲まれて、さすがに死ぬだろうが」


「そうであってもあなたにとっては、虹巻紙よりもケイルさんの遺髪のほうが重いんですね」

「まあね。といっても、ググーをベースにする具現の場合は、わたしがそこに魔法の力を供給し続けないといけない。今は、この体を保つのがせいぜいだ。寮に配置している寮長の似姿のほうは、もう消滅しただろう」


 そのときなにかに気付いたのか、彼は何回もうなずいた。


「なるほど、アロンくんもソーラも優しいものだ。話し合いの余地はないと言っておきながら、虹巻紙とケイルの遺髪を前にして、なぜすぐに奪い返そうとしないのかと不思議に思っていたが、それはわたしのいのちを奪う可能性を考えたからかね」

「追いつめすぎるとあなたが逆上して巻紙や遺髪を処分するかもしれないと危惧したからです。なら、じっくり話をしたほうが無難かと。僕たちの目的は形見を取り返すことであって、必要以上にあなたを追い込むことでも、殺すことでもありません」


「まあわたしは最悪の父親を締め上げるつもりでも来たんだけど」


 目を細め、ソーラは口角をいっぱいに上げる。


「死なれたら、それもできなくなるものね」

「アロンくん。ソーラ」


 アリアンは、ひざと背中と首をやや曲げ、うつむき加減になった。


「これも言わせてほしい。本当にわたしが口にすべき言葉は勝ち負けではなく――」


 ちょうどここで、ソーラは彼のわきにはさまれたケイルさんの遺髪に、僕は彼の胸の前に浮く虹巻紙に手を伸ばしていた。が、その刹那。


 突然、彼の体が後ろにさがり、ソーラと僕の手が空をつかんだ。

 黄巻紙の照明を移動させるまでもなく、「それ」が奥から僕たちを見つめているのがわかった。約四十メートル前方に、左半身のアリアンをかかえた奇妙な物体が立っていた。


 その物体は青白い色をしていた。人の右半身に見えた。断面から骨や肉が露出していた。赤い瞳をきらめかせていた。

 大きさは、ほぼアリアンと同じだった。ただれた皮膚以外、顔も、うり二つ。そこから、こちらの鼻が曲がりそうなほどに強い腐臭がただよってくる。


 僕たちには思い当たることが一つだけあった。


「まさかカディナ砂漠にうめたという彼の右半身? 人格を持っているのか」

「確かにこれはわたしの片割れのようだが、人格と呼べるものはないよ、アロンくん」


 右半身のわき腹と片腕のあいだにかかえられたアリアンの本体が、僕のほうに瞳を向ける。


「わたしは右脳も左半身に移した。圧縮し、左脳と共存させた。よって右半身は、人格を作り出す機能を持たない。この文字どおりの片割れは三つの魔法の残りかすで、うご、ごお」


 すべて話すこともできず彼の口は、とじられた。右半身の腕が伸び、その手の平がアリアンの口元をおおったのである。ただし、たった一つの鼻孔はふさがれていないようだ。


「三つの魔法。つまりあなたの虚像魔法とお母さんの遺髪の破滅魔法。そしてアロンのお父さんの形見、虹巻紙の具現魔法ね」


 ソーラはワープで瞬時に前方へ移動し、青白い右半身にこぶしを突き出した。


「腐り始めた半身をあなたは捨てた。だけど、できる限り虹巻紙で補強しようとも、したんでしょう? だから切り離したあとも右半身に具現の力が残っていた。腐敗を起こした破滅の力と、元から有していた虚像魔法が、その虹巻紙の力によって、からっぽの体にとどめられた」


 彼女のパンチが、右半身のあごにせまる。


「捨てられた半身は人格を持たないまま存在しようとした。それで砂漠から脱出し、自分にもっとも近しいあなたのもとに戻り、盗品の保管場所に潜んだ。左半身と同種の虚像魔法を使えるなら、日々弱っていく本体の目をかいくぐることも可能だった、ってとこかしら」


 パンチが当たる寸前、さらに右半身は後退したが、ソーラは追撃を続ける。


「でも腐臭は、どうやって隠したんでしょうね。確かに虚像魔法でにおいは作り出せるけど、鼻が曲がりそうなくらい強烈なにおいを上書きするなんて真似、片割れにできるとは思えない」

「この部屋には、すえたにおいが微妙に広がっている。保存状態が悪いせいで盗品の一部が腐敗したんだろう。果てが見えないほど部屋は広いし、遠くに離れて潜んでおけば、すえたにおいが右半身の腐臭を勝手にごまかしてくれる。そして」


 僕も青巻紙をなぞって飛び出し、黄巻紙の照明で周囲の視界を確保しながら攻撃に参加する。

 同時に、一つの推論あるいは憶測を、彼女に伝えた。


「今、破滅魔法を制御できるかもしれない君に、破滅の力を込めた遺髪が渡ろうとしている。ここにおいて右半身に残った破滅魔法の防衛本能が、アリアンの本体に遺髪を持たせ続けたほうがいいと結論した。だから本体の左半身を僕たちから遠ざけるべく右半身自体が動いた」


「人格を持たないとしても、五感や判断力はあるみたいね。情報をしゃべろうとする父の口をふさいだことからもそれがわかる。とはいえ相手がなんであろうと、やることは勝つことだけ。いきましょうか、アロン・シュー。これが正真正銘、長かったきょうの、最後の戦い」


「ああ、いこう」

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